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ルドルフ・コンプレックス ゼンティス編(19)

第2章 3つめのスケッチ

ウィーン ヴェーリンガー通り

「あの子、いったいどういうつもり?あたしたちみんな、あの子に振り回されてたってこと?何が不吉よ、何が呪いのペンダントよ!バカじゃないの」
 ウィーン大学美術史研究所にほど近いカフェのテラスは、テーブルの間に点在するストーブのおかげで意外に暖かかった。エミリアはタバコの煙を吐きだして天を仰いだ。
「しかたないよ。プライベートなことなんだから」大きなマフラーを首に巻きつけたヴァーツラフは、犬を連れた通行人を目で追っている。
「プライベートが聞いて呆れるわ。今回の調査は国に予算を出させてやってることじゃないの」
「でも、ステラもトリシャも、もし発見できたら寄贈するって言ってるんでしょ」
「発見できたらって、あんた何考えてるの」
「どっちにしても、プランを練り直さないと」ヴァーツラフは小さく自分でうなずくとココアを一口飲んだ。
「なにそれ。なんのプランよ」
「だから、ペンダント回収の…」
「たった今、あんた自分で言ったでしょ、プライベートなことだって」
「でもさ、」
「ちょっとしっかりしてよね。そもそもあんたの仕事はペンダントの実在可能性の確認で、それはもう済んでるじゃないの。報告書も出したでしょ、あなたの仕事は終わってるの。これ以上何をしようっての」
「いや、だからさ」
「なによ」
「だからね、ミリィは興味ない?ルドルフ・プロデュースのペンダント」
「あるけど、でも」
「じゃあ…」
「それとこれとは話しが違うでしょ、って言ってんのよ。やっとヴァシェクの仕事が終わって、これから二人でゆっくりできると思ってたのに」
「あ……ごめん」
 訴えかけるエミリアのまなざしにヴァーツラフは目を伏せた。
「どうしてよ、どうしてそんなに?」
「…あのさ、何かの本で読んだんだけど、こんな言葉があるんだ。“あなたは、なぜ﹅﹅ではなく、どのように﹅﹅﹅﹅﹅を考えなくてはいけない”(注)って」
 すぐ横の通りをトラムがゆっくりと通り過ぎる。エミリアは大きくため息をついて、ヴァーツラフを睨んだまま時間をかけてタバコをもみ消した。
「もう決めたのね」
「ホントはまだ決めたわけじゃないよ。冬山は危険だし」
「経験、ないでしょ」
「ないよ。だから誰か慣れてる人と」
「ヴァシェク、あなた本当に運がいいわね」
「なんのこと?」
「慣れてる人間がいて」
「どこに?」
「ここにいるじゃない」
「誰?」
 ヴァーツラフは改めてエミリアを見つめた。
「え…」
「話してなかったけど、学生時代はよく登ってたの」
「ええっ」
「冬山にも登ってる。何度もね」
「知らなかった」
「当然よ、話してなかったもん」
「なんで今まで、」
「聞かなかったでしょ」
「それはそうだけど」
「それなりの装備も要るし、」
「うん」
「任せてくれれば、全部揃える」
「あ、ああ」
「大丈夫、あんたはあたしが守るから」
「でも…」
「絶対死なせやしない」

プラハ デイヴィツェ

 同じ日の夜、プラハ郊外のオフィスでディアナは手を止めて画面を凝視していた。
「なにこれ…」
 そこには大量の音声通話ファイルが日付け順に並んでいる。誰かのプライバシーがネット上に晒されているということだ。通常ではあり得ないことだった。興味を惹かれたディアナは再生できるように何種類かエンコードを試みたが暗号化されている。ダメもとでいくつか解除キーを試すと、いきなりスピーカーから声が流れてきた。

――奴の狙いはスケッチにあったペンダントじゃないかって
――ペンダントねえ。そう言えば、ステラはハース家に代々伝わるペンダントを持ってるって、聞いたことはあるけど
――え、それって見たことあるんですか、どんなカタチしてたかわかります?
――あたしは見たことないの。話しを聞いただけだから
――見せてくれるように頼んでもらえませんか、エミリア

「これって…ヴァシェクの声だよね」
 思わずつぶやいた彼女は日付けを確認した。去年の12月5日。確かにヴァーツラフの声だった。ディアナは大量にある通話データからランダムにいくつか再生してみた。

1月14日
――髪、伸ばしてるんだ
――うん、暮れくらいからかな
――そっかあ、男でしょ
――違うったら。そんなんじゃないし
――へへえ、ミリィに男ねえ。こりゃニュースだわ
――もぉ、やめてよね。ヴァシェクは…
――ヴァシェクっていうんだ。ふーん
――あんな気弱で不器用な奴なんか、
――いやいや。あんたには案外そういうほうが合ってるかもよ。よく見つけた。えらいぞエミリア
――アナマリア、言っとくけど、全然タイプじゃないんだって
――そのパターンね。よくあるよくある。先人たちが歩んだ道だよ

2月6日
――ちょっとステラ、なんのこと言ってるの?全然わかんないんだけど
――だからね、トリシャが失くしたって言ったの、嘘だったのよ
――嘘?
――ホントは山頂から投げ捨てたって
――ええっ
――ホンっとにごめんなさい
――失くしたんじゃなかったんだ…
――そうなの。朝日に向かって投げたって
――なんでそんな…
――それがさ、ちょっとね。あの子ったら、あれは呪いのペンダントだとか言って
――ちょっとなにそれ、そっち系?

 このデータ流出は何を意味するのか。ディアナは漏洩ルートを辿ろうとしたが、公衆Wi-Fiから先は無理だった。いずれにしてもこのデータは、第三者がおそらく不正に取得したものだろう。彼女は偶然見つけてしまったが、単純な暗号化だったので、他の人の目にも触れる可能性がある。通話の主はエミリア・プフィッツナーに間違いないだろう。以前、装飾写本事件の時に会ったことがある。何者かが何らかの目的でエミリアの携帯をハックしたのだ。
「またヴァシェクがらみか。もしかして、あいつって疫病神?」
 彼女はスマホをとってヴァーツラフを呼び出した。

ウィーン ハイリゲンシュタット

「あの子、なんて言ったっけ。ディアーヌ?ディアーナ?」
 風呂上がりの髪をタオルで包んだエミリアが鏡に向かいながらさり気なく尋ねた。ベッドに寝転がっていたヴァーツラフは片肘をついて上半身を起こした。二人はウィーンの中心部から地下鉄で15分ほどの、エミリアの部屋でくつろいでいた。
「え?」
「ほら、去年、いや一昨年か。装飾写本の調査を手伝ったハッカーよ、アフリカ系の」
「ああ、ディアナ」
「彼女とはどうだったの」
「どうって何が」
「すごい美人じゃない。モデルみたいにスタイルいいし」
「ただのクラスメートだよ、高校の時の」
「ほんとにそれだけ?」
 彼女は鏡に写るヴァーツラフを見た。
「ほんと。今回も仕事、手伝ってもらったし」
「ただのクラスメートに?」
「優秀なリサーチャーなんだ」
「それだけ?」
「妙にからむね」
「別に。ちょっと気になっただけ」
「あのねえ、ほんとにディアナとは何もないよ。友達ってだけ」
「わかった。じゃあ、そういうことにしといてあげる」
「ホントに僕は…」
「もうこの話はおしまい」
 スマホが鳴って、ヴァーツラフは画面を見た。
「ミリィ、噂をすれば…」
「ええ?」
「ディアナからだ」
 エミリアの顔つきが変わった。彼女はものすごい目で鏡の中のヴァーツラフをにらんだが、それには気づかず彼は無邪気に電話に出た。エミリアは乱暴に立ちあがり、洗面所に行って思いきり蛇口を開いた。
「もしもし、ディアナ。どうしたの」
「実は、たまたま別件でリサーチしてたら、おかしなもの見つけちゃって」
「おかしなもの?」
「そう。電話の音声通話ファイル」
「よくわからないんだけど」
「エミリア・プフィッツナーの通話ファイルがネット上でだだ漏れしてるんだよ」
「ええっ」
「これ、まずいよね。あんたに連絡すれば彼女に伝わると思って」
「な、なんで僕が…」
「悪い、ちょっと内容聞いちゃったんだ。そしたら…」
「とにかく、彼女に代わるよ。本人の方がいい」
「代わるって?」
「ここにいるんだ。ミリィ!」
「いや、あんたから言ってもらった方が…」
「ちょっと待って。呼んで来るから」
「あの、やっぱ邪魔しちゃ悪いし…」
「なに言ってんのディアンカ。このまま待っててよ。ミリィ!」
「なによ、大声出して」エミリアが洗面所から顔を出した。
「ディアナから君にだ。重要なことらしい」
 エミリアは急に顔を曇らせた。「あんたって、ほんとにサイテー」
「え?なに言ってんだよ」
「なんであたしがあんたの昔の女と話さなきゃいけないのよ!」
「は?どうしたの?」
「どうしたもこうしたも、よく平気な顔でいられるわね。あーあ、あたしもなんでこんな男に引っかかったかなあ」
「ねえ、待ってるんだけど」
 エミリアは大きくため息をついて、もう一度ヴァーツラフをにらみつけてからスマホをひったくった。
「はい、もしもし…」

(注) 『類推の山』 著者:ルネ・ドーマル 訳者:巌谷國士 河出書房新社 1996

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