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博士論文(修士論文)の要件を過大/過小評価しない

佐藤ひろおです。会社を休んで早稲田の大学院生をしています。
三国志の研究を学んでいます。

今週は、『博士号のとり方』という本を読んでいます。博士論文にかんする戒めが載っています。同じことは、修士論文についても当てはまるでしょう。
曰く、博士論文に求められる要件を過大評価したら(ハードルをかってに上げたら)、論文が完成しない。論文に求められる要件を過小評価したら(ルール無用で突っ込んだら)、論文が受理されない。

めちゃくちゃ当たり前のことを言っていそうですが、ことに論文という、自由度が高く、曖昧な感じがして、なじみがなく、テキストが長くて、難しそうなものとなると、判断力がにぶるんですよね。

勤め人ならば、「要求された数量や品質を満たす範囲で、投入する労力と時間を不必要に膨らませず、納期を守る」というのが、成功に求められる第一の要件であることは熟知しているはずです。
しかし、なぜか論文というものが相手になると、その当たり前のことが、頭のなかからぶっ飛んでしまう。

論文の要件にたいする誤解のうち、過大評価にあたるのは、「知へのオリジナルな貢献」を壮大なものと受け止めて、「革新的な進歩」をめざす。通説を書き換えて、世界をあっと驚かすことを目指してしまう。しかしそれは、ハードルを高く見積もりすぎだという。
博士論文の役割は、専門家として独り立ちするための「トレーニング」が修了したことを証明すること。だから、「オリジナルな貢献」は、狭い範囲に留めてよい。せまい題材に絞ってよいので、研究のスキルをきちんと示せれば、少なくとも課程の修了を示すに十分であるという。

パラダイムシフトに挑戦したいなら(全世界をあっと驚かせて、既存の専門家たちを退散せしめたいなら)、博士課程が終わってからでよい。アインシュタインは、ブラウン運動の理論に貢献するものを博士論文とし、マルクスは、ギリシャ哲学者の2人を博士論文で採りあげるに留まった。

(博士論文を通じて)専門家集団の内部だけでなく、一般の人々にひろく自説を訴えたい。自分の発見を社会に還元したい。などの野望があるとしても、それは、博士号をとったあとにやればいよいと。

論文の要件にたいする誤解のうち、過小評価にあたるのは、内容がおもしろい、意味がある、知見に裏打ちされている、などの長所があるかも知れないが、最低限、課程で求められている「トレーニング」を修了したことを証明していない文章のこと。
郷に入りては郷に……ではないですが、研究における約束ごとというのは、ものすごくたくさんあって、それを学ぶのが修士課程・博士課程なのだから、それを受け入れず、ルールを守らずして、独自に書き上げたところで、箸にも棒にもかからないので大学院を去ることになります(去ったほうが互いに幸せです)よと。

超がつくほど当たり前なんですけど、大学院という環境にあり、指導教員と会話を続けながら、つねに頭のまわりをモヤモヤと飛び回っている自分のテーマに埋没し、論文完成のために冷や汗をかいている同輩・先輩を見ていると、こういう当たり前のことを見失う。お薦めの本です。

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