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12時間の20連勤もふつう/大学院生のワーカホリック

佐藤ひろおです。会社を休んで早稲田の大学院生をしています。
三国志の研究を学んでいます。

会社員を15年間、やってきました。
会社に勤めていると、5分たりとも残業したくないし、賃金の発生しない待機時間とか移動時間とかを憎んでいた。有給休暇はフルで年間20日、取得する。あわよくば、システムの隙を突いて(出張のスケジュールを調整して直行直帰するなど)労働時間を減らすことに工夫を怠らなかった。
勤務時間に認定される移動時間を最大化し、それを読書や睡眠にあてる一方で、勤務時間に認定されない移動時間が発生しないように、頑固になることがよくありました。

そんなぼくが、どういう原理が働いたのか分からないけれど、大学院生になると、1日12時間以上勉強をしていたり、ほぼ24時間体制でメールに対応したりするのが、普通になりました。
1週間のなかに休みの曜日をつくるという設計思想?がそもそもなくて、授業がある日は授業に出るし、授業がない日はそれ専用の勉強スケジュールを組んでた。学期中は、授業にあわせて勉強する。学期外(夏休みや春休み)は、長期休みにしかできない勉強をする。

仕事にたとえたら、毎日12時間(定時8時間+残業4時間)で、土日も休日も返上で働いており、なんなら深夜にメールがきても、寝入りばなや、睡眠の途中で一瞬だけ起きても、連絡に気づいたら飛び起きて即レスする。企業の勤務ルールに照らすならば、夜勤や当直も含み、16時間が「オン」と判定されてもおかしくない状態。

なんでこうなるんですかね。
意味が分からないんですよ。

まだね、「脱サラしてフリーランスになり、将来の不安、金銭的な不安から、仕事を請け過ぎてしまう、断れない。プライベートを犠牲にして、働き過ぎてしまう」というほうが、合理的です。
割に合わない仕事、小粒すぎる仕事でも、報酬には違いない。過剰品質を先回りして、クレームを防ぐ&信頼を稼ぐというのも、クレバーではないにせよ意味が分かります。

大学院の勉強って、単位がこまごまと取らされて大変であるが、キャパシティを完全に上回っているかといえば、そんなことはない。よい成績を取りたい、単位を落とすと卒業できない、みたいなプレッシャーは、本当のところ、そんなに食らってません。単位を落としても「あとがある」し、よい成績(GPA)を何かに使うわけではない。
ひとによるのでしょうが、「単位を取るのが難しすぎて、退学になった」という事例はあまり聞きません。大学院に入学している時点で、大学は卒業しているのだ。単位取得のマネジメントは、基本的には経験済みだ。仕事や家事が忙しくて出席じたいができない、ならば別ですけど、現在のぼくにこれは当てはまらない。

もっと言ってしまえば、修士号なんて、ぼくにとって、あってもなくてもいいんですよね。行きがかり上、取ろうとしているだけで。経済的な理由はない。就職には使わない。なんなら、とっくに就職している。
美学や美意識の問題?いやいや、大学時代の成績表なんて、大学院受験のために取り寄せたら、「20年前の優・良・可の区別が、まだ保存されているのかよ」と驚いたぐらいです。

修士論文の研究成果に対する、品質・納期のプレッシャーがあるかというと、別に現段階でそれほど重くのしかかっていることはない。そりゃあ、いい研究をしたい、研究をうまくなりたい、という気持ちはあるけれど、不安とか、出遅れ感はありません。

もはや、タスクそのものに飲み込まれている、としか言えない。
「これをすると得をする」とニンジンをぶら下げられたり、「これをしないと損をする」と脅迫されている感じはない。天上からロープを垂らされて、引っ張り上げられたり、地獄から火であぶられて、下から突きあげられたりしているのではない。やることがたくさんあって、やること自体に巻き込まれて、主体性を奪われている感じですかね。

ひとが酒を飲む。酒がひとを飲む。酒が酒を飲む。
これが薬物中毒の原理ですけど、それに準えて、むりやり表現するなら、「ぼくが勉強をする」から始まったはずが、「勉強がつぎの勉強を呼びこむ」という状態で、ぼくは単なる通過点というか、媒介や触媒になっているのか?人権はあるのか??という感じ。なにが起きているんだ。

会社の仕事でワーカホリックになったことは、一度もないです。むしろ、時間・労力・忠誠心を最小化し、「給与の代価」値切ることに、めちゃくちゃ心を砕いてきました。
大学院の勉強は、やりたくてやっているし、実際に楽しいけれども、人生ではじめて、ワーカホリックという毒状態を食らっているのかも知れません。幸福度は、なかなか低いです。こまったな。

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