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自力と他力

今日のおすすめの一冊は、齋藤孝氏の『図解 歎異抄 たよる まかせる おもいきる』(ウェッジ)です。その中から「善人なほもって往生をとぐ」という題でブログを書きました。

本書の中に「自力と他力」という心に響く文章がありました。

いま、「自己責任」という言葉がよく使われています。自分で判断し、行動し、それでおき た結果も自分で受け負う。そのような世界観になってきていると思います。 

これは、自分のやったことが、そのまま評価につながる実力主義ともいえますし、一方では、 「現在の状況にあるのは当人の努力が足りないせいだ」といった、自力を前提とした考え方で もあります。 

もちろん、『歎異抄』でいわれている「自力」は、この世でさとりを開いて仏となるために 努力をすることをいいますから、自分の力で生きていく、自己責任でやっていく、という意味とは少し違っています。 

しかし、そうした違いがあるとはいえ、このいまの世界観、価値観のもとでは、「自力」で はなく、「他力」という考え方が有効なのでは、と思うのです。 この「他力」も、ふつうは「人に頼る」という意味で使われていますが、「歎異抄」でいわ れる「他力」は、「自分のはからいではなく、阿弥陀仏の本願のはたらきにおまかせする」という意味ですね。

 「他力」とは、このように「ある大きな力におまかせする」と考えると、自分をむなしくし て、肩に入った力がふっと抜ける、といった効果があると思うのです。 

安心して身をまかせると、むしろチャレンジができる。 この安心感がチャレンジには必要なのだ、とアメリカの心理学者、アブラハム・マズローも いっています。

マズローは、「安心・安全」の反対側にあるものを「成長」と設定し、人はいつも安心・安全を確保したいが、それだけだと成長というチャレンジができない、いままでのものを突き崩していくことができない。しかし、突き崩しができるには、やはり安心・安全が確保されていなければならない、と説きます。 

安定したベースキャンプがあれば、次のステージへと行けます。常に戻れるベースがあれば、 少し上のほうまでチャレンジできる。この状態だと、勇気がどんどん湧いてきます。 このように、他力といっても、まったく行動しないわけではなく、他力にまかせた安心感に よって、今度はいろいろなことにチャレンジできる、挑戦する気になる、ということです。

 大事なことは、この安心感。こう考えると、他力によって、自分を何かに預けてしまうこと は、宗教の本質的な姿なのではないか、と思えるのですね。何かにお預けしてしまう。そのこ とで心が明け渡されて、自由な気持ちになれる。 

心が自分の考えだけでいっぱいになってしまっていると、なかなか救いがない状態となりますが、 一回、心を空っぽにしてみるのです。 そうすると、肩の荷が下りるのですね。

◆禅では、手放すことを「放下著(ほうげじゃく)」という。しがらみや、こだわりを、「捨てろ」、「忘れてしまえ」、「ほうり投げろ」、ということ。

若さも、健康も、愚かさも、愛も、憎しみも、それに執着しないということ。執着しているときは、ベクトルが自分を向いている。「俺が、俺が」という「我(が)」が強い状態。

「俺が俺がのが(我)を捨てて、お陰お陰のげ(下)で暮せ」という良寛和尚の言葉がある。大きな力におまかせ切った人は、「おかげさま」という。それが、自力ではなく他力。

今日のブログはこちらから→人の心に灯をともす


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