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過ぎ去りし季節のせつなさを永遠の音楽に残した人「志村正彦」~フジファブリックの二つの四季盤と共に駆け巡った春夏秋冬~

※2020年6月2日に掲載された音楽文です。いろいろ訂正したい箇所はあるにせよ、あえてそのまま転載します。

フジファブリック・志村正彦の音楽と出会った夏が今年ももうすぐやって来る。この1年間はいつでも彼の音楽が私の日常生活の中で鳴り響いていた。日常に溶け込み、気付けば飽きることもなく、無意識的に聞き続けてしまっていた。
フジファブリックの代表曲「若者のすべて」と出会い、彼の音楽を知ったのだが、それはフジファブリックを知るきっかけに過ぎず、その後、志村正彦の虜となった私はかなり遅ればせながら、ようやく四季盤なる春夏秋冬に合わせたシングルが4枚リリースされていたことを知った。
春盤「桜の季節」、夏盤「陽炎」、秋盤「赤黄色の金木犀」、冬盤「銀河」を初めて聞いた時、春と秋はまさにその季節らしいモチーフだなと納得できたものの、夏と冬に関しては少しばかり?(疑問)が残った。
もしも自分が夏を意識した何かを作るとしたら、海や向日葵を考える。冬なら雪だろう。しかし、志村正彦は夏は“陽炎”を冬は“銀河”をチョイスした。この辺が(とても良い意味で)ちょっと常識からズレていて、エキセントリックな音楽を作る志村正彦ならではの選択と今なら理解できるのだが、フジファブリックビギナーの1年前は理解に苦しんでいた。
しかし四季盤を聞きながら、移ろいゆく季節を肌で感じているうちに、まさに季節に合っていると思えるようになったのである。

出会いが夏だったので、夏盤から解説していくと「陽炎」において

<窓からそっと手を出して やんでた雨に気付いて 慌てて家を飛び出して そのうち陽が照りつけて 遠くで陽炎が揺れてる 陽炎が揺れてる>

と、にわか雨で少しばかり涼んだ後、ギラギラした陽射しが戻ってきて、暑さの中、陽炎が見えるという光景はまさに夏の風情そのものだった。厳密には違う現象らしいが、陽炎と聞くと私はすぐに逃げ水を思い出す。夏のうだるような暑さの中、アスファルトに本当はあり得ない水溜まりが出現すると、なんだか少しうれしくなるし、目の錯覚と気付くと、がっかりもしてしまう。蜃気楼も似た現象で、それら三つは専門家でもない限り、同じような意味合いで使用する場合が多いらしい。つまり夏の暑さと言えば、陽炎というモチーフを使いたくなって当然なのである。

<あの街並 思い出したときに何故だか浮かんだ 英雄気取った 路地裏の僕がぼんやり見えたよ また そうこうしているうち次から次へと浮かんだ 残像が 胸を締めつける>

少し戻って冒頭の一節は夏の陽炎と同じように、本当はもう存在しないけれど、あたかもすぐ昨日あたりの出来事のように蘇る過去の心象風景が残像として鮮明に見える様子が描かれている。単純に陽炎をテーマにするだけでなく、そこに残像という似たエッセンスを取り入れることで、ますます夏の風景がリスナーの心に届きやすい仕組みができている楽曲だなと感じる。この曲を知ったばかりの頃なんて、曲名を陽炎だっけ?残像だっけ?と少しうろ覚えで悩んでしまった時期もあったくらいである。それくらい、“残像≒陽炎”というテーマが夏盤に合っていて、この曲と共にひと夏を過ごしているうちに、夏の天気雨のように一瞬だけ蘇る子ども時代などを自分自身も感じることができて、去年の夏は胸が締めつけられることが多かった。

続いて秋盤の「赤黄色の金木犀」に関して。

<赤黄色の金木犀の香りがして たまらなくなって 何故か無駄に胸が 騒いでしまう帰り道>

この曲は最初から秋だなと感じることができて、大好きになって、いつ聞いても何度聞いても秋の切なさを実感できる。志村正彦著『東京、音楽、ロックンロール』において、毎年のごとく秋になると日記の中に金木犀の香りが登場する。志村くんは毎年日記に書きたくなるほど、金木犀が好きだったのだ。私はこの曲に出会わなければ、金木犀の香りをそこまで意識せず、短い秋をただなんとなく過ごす一生を送っていた気がする。それってとてももったいないことだ。ただでさえ秋は短いのに、その秋の風物詩のような香りをスルーして生きていた37年間、損した気分になった。大切な小さな秋を気付かせてくれた楽曲なのである。

<もしも 過ぎ去りしあなたに 全て 伝えられるのならば それは 叶わないとしても 心の中 準備をしていた>

この楽曲においても、「陽炎」と同様に、過去が登場する。志村正彦の楽曲は季節と過去がセットで登場することが多く、陽炎という自然現象や金木犀の香りから、過去を彷彿させ、誰しも心の奥底に抱えている切ない思い出や記憶を呼び起こさせてくれて、この曲を聞く度に何故か無駄に胸が騒いでしまう。

冬盤の「銀河」について、フジファブリックを聞き始めたばかりの頃は、意味不明で正直受け止めることができない楽曲だった。ずっと聞いていると、うなされてしまうほどで、一瞬聞くのをやめた時期もあったが、不思議なことに今では普通に問題なく聞くことができる。
それはおそらく、この曲と共に冬を過ごしたからだと思う。雪ではなく、なぜ銀河なのかと疑問視していたものの、冬にこの楽曲を聞いて、理解できるようになった。冬と言えば寒くて、雪の降らない田舎の夜は星がキラキラ瞬いていた。その光景はまさしく銀河だった。

<丘から見下ろす二人は白い息を吐いた> <「パッパッパッ パラッパラッパッパッ」と 飛び出した>
<U.F.Oの軌道に乗ってあなたと逃避行 夜空の果てまで向かおう>

白い息で冬の寒さ理解できるし、銀河と表現されると、U.F.Oも未確認ではなく、確認できそうなイメージが沸く。歌詞の中に“星”や“銀河”という言葉は一度も使用されておらず、<きらきらの空>でわずかに星のニュアンスを汲み取れる程度なのに、銀河をちゃんと想像できる楽曲だから不思議だ。そもそも不思議なメロディ、やや意味不明な歌詞のせいか、はっきりは見えない宇宙の混沌とした様子が曲に表れていて、銀河らしさを醸し出しているのだなと思う。
冬は昼間の日照時間が短い分、夜が長い。だから<真夜中二時過ぎ>あたりは冬を妄想するのに最適な時間帯で、寒いけれど遠い銀河に思いを馳せ、誰かと逃避行できれば有意義な冬の夜長を過ごせる気がした。その点で、これはまさに冬盤だと納得できるようになったのである。

そして四季盤のラストは春盤「桜の季節」。これは「陽炎」や「銀河」とは逆に最初はまさに春の歌だなと思ったはずなのに、聞いているうちに、春なのだろうかと疑問が出て来た楽曲である。たしかに桜というモチーフは春なのだが、春真っ盛りとは少し違う。

<桜の季節過ぎたら 遠くの町に行くのかい? 桜のように舞い散って しまうのならばやるせない>

最初から桜が舞い散るような歌詞が登場し、

<その町に くりだしてみるのもいい 桜が枯れた頃 桜が枯れた頃>

中盤では枯れた桜をイメージさせる歌詞が出てくる。
それに気付いた時、これは春の始まりというよりは春の終わりの歌だなと思った。
咲いているのは桜ではなく、

<ならば愛を込めて so 手紙をしたためよう 作り話に花を咲かせ 僕は読み返しては 感動している!>

というように作り話の方に花を咲かせている。
桜がモチーフだと春の始まりの歌と錯覚してしまうけれど、これは桜そのものというより、桜の季節の歌であり、桜の季節、つまり春は別れの季節でもあり、春の別れを歌った点で、やはり春歌には違いないのである。

<坂の下 手を振り 別れを告げる 車は消えて行く そして追いかけていく 諦め立ち尽くす 心に決めたよ>

別れはやるせない。諦めるしかないけれど、でも会えなくなっても手紙で花を咲かせようとちょっとした希望や決心も垣間見える。
桜の儚さと他者との別れを歌詞に込めた点で、秋と同じくらい短い春の刹那的で儚い季節感が感じられる楽曲である。

ここまでいわゆる従来のフジファブリックの四季盤を自分なりに解釈してみたのだが、今回は従来の四季盤を語りたかったわけではなく、ここからが本題、私が個人的に考えたもうひとつのフジファブリックの四季盤について述べていきたい。

「桜の季節」について述べたばかりなので、個人的な春盤から開始する。
私にとっての春盤は「エイプリル」である。4月は時期的に強風の日が多い。強い風が吹く中、車を走らせながらこの曲を聞いていたら、これこそもうひとつの春盤だと感じた。
特徴的なキーボードの笛のような音色がすでにヒューヒュー吹き付ける風を思わせるし、テンポ感が風に押されながら、または逆らいながら歩き続ける歌詞に登場する<僕>を彷彿させる。

<神様は親切だから 僕らを出会わせて 神様は意地悪だから 僕らの道を別々の方へ>

この楽曲においても、春の別れが象徴的に描かれている。ややネガティブな歌詞を綴ることが少なくなかった志村正彦が春をイメージするなら、出会いよりは別れの情景がしっくりする。

<何かを始めるのには 何かを捨てなきゃな 割り切れない事ばかりです 僕らは今を必死にもがいて>

鬱々とした葛藤の中、投げやりになっているように見えて、でも<僕>は決して立ち止まることなく、風に吹かれながら、春の荒野をひとりで突き進んでいく。

<振り返らずに歩いていった その時 僕は泣きそうになってしまったよ それぞれ違う方に向かった 振り返らずに歩いていった>

“風”という言葉は一度も使われていないため、個人の主観に過ぎないのだが、春の強風は“春の世界の約束”とでも言うべきか、別れという人間世界のどうにも避けられない無常観を表している気がする。春という季節に訪れる社会の荒波・無常の風をこの楽曲から感じ取れる。
<僕>は無常の風にひるむことなく、何度別れに遭遇しても、未来に向かって歩き続けている。<どうせこの僕なんかにと>ひねくれている人間とは思えないほど、潔く、涙を拭って後ろを向くことなく、前だけを見ている。歌詞だけ読んでいたら、なんて暗い歌なんだろうと勘違いしてしまうけれど、風を感じられるメロディにこの歌詞が乗ると本当に颯爽としていて、春の別れを乗り越えられる気持ちになる。

<また春が来るよ そしたのならまた 違う景色が もう見えてるのかな>

つらい別れを乗り越えた先には<違う景色>=未来が待っていて、春を歌っているのだけれど、もう次の季節を見据えているような実感さえ湧く。

そして次の季節。個人的な夏盤はやはり「若者のすべて」。
ピアノやドラムスの単調なリズムが印象深い前奏から始まって、最後まで同じリズムが刻まれている。淡々とした夏の日常を送っているうちに、

<真夏のピークが去った 天気予報士がテレビで言ってた それでもいまだに街は 落ち着かないような 気がしている>

気付けば夏も終盤に差し掛かっていることに慌て始めるような情景が思い浮かぶ。

<夕方5時のチャイムが 今日はなんだか胸に響いて 「運命」なんて便利なものでぼんやりさせて>

<夕方5時のチャイム>も淡々とした日常の一部ではあるものの、チャイムの音が長く伸びるように、この部分のメロディもよく伸びる音が多い。つまり作りたかった夏の憧れがつまった思い出を残りわずかになってしまった夏で取り戻せるかもしれないと、夏を延長したい心情が表れたような旋律になっている。
そしてサビの直前、花火が打ち上げられるように鍵盤の階段が駆け上っていく。

<最後の花火に今年もなったな 何年経っても思い出してしまうな>
<ないかな ないよな きっとね いないよな 会ったら言えるかな まぶた閉じて浮かべているよ>

まるで火花を表現するかのようなキラっと輝くピアノの音色が歌声を追いかける。それは夏の一夜を彩らせるために、誰かに夏の思い出を与えるために、長時間かけて作り上げられる花火が夜空で一瞬だけ華開く様に似ている。たったその一瞬のために作られたもので、人々は一生忘れることのできない記憶を残すこともできる。それは花火の凄さだし、その花火をモチーフにこれほど夏の情景を的確に表現した歌は他に存在しないと思う。花火は演出面で打ち上げのリズムも大切らしい。つまり花火自体が音楽みたいなものであり、この楽曲を生み出した志村正彦は音楽界の花火師にも近い存在であると言える。

<世界の約束を知って それなりになって また戻って>

動きのあるサビ、華やかな花火が終わると、単調なメロディ、<街灯の明かり>がぽつぽつ点く単調な日常に戻って、夏の<世界の約束>を思い出してしまう。
この<世界の約束>に関しては去年の夏から自分に課した難解な夏休みの宿題のようなもので、置き去りにしてしまっていた。改めて<世界の約束>について考えてみる。憧れの花火の夜という非日常のような幸せな思い出とは対照的に社会のルールではないが、夏の夢見心地は忘れて、淡々とした日常に戻って、諦めていつもの生活に戻ることが<世界の約束>と言えるのではないか。“夏の憧れ(非日常)”と“夏の諦め(日常)”が絶妙なバランスで描かれている点がこの楽曲の真価なのである。
そして「若者のすべて」というタイトル自体も奥深い。本当は守りたくない<世界の約束>を知ってしまって、その規律に従って知らず知らずのうちにそのレールの上を歩いていて、でも夏という季節を諦められなくて、花火に自分の夏の憧れを投影して、ひととき<世界の約束>を忘れて、切なくて儚い夏の一夜を経験することが「若者のすべて」というタイトルに込められているだろうと考えた。逆に言えば、たった一夜でも「若者のすべて」で、夏のすべての期間を「若者のすべて」と言ってしまったら、何となくエモさが欠けてしまう。夏休みだとしてもよっぽどリア充でない限り、大体退屈でつまらない日常を諦めて過ごすことが多い。不思議なことに、私のようにどんなに冴えない人間でも、花火の夜だけは魔法にかけられて、「若者のすべて」という刹那的な夏の記憶を刻むことができる。特に「若者のすべて」という楽曲を思い起こしながら、花火を眺めると。

<途切れた夢の続きをとり戻したくなって>
<すりむいたまま 僕はそっと歩き出して>
<最後の最後の花火が終わったら 僕らは変わるかな 同じ空を見上げているよ>

<世界の約束>という日常を思い出した後も、<僕>は夢を捨てない。でも結局思い通りにならなかったという夏のすり傷を抱えながら、次の季節へ向かって歩み出す。諦めなかったらなんとなく夢が叶って、<僕>も誰かと二人で最後の花火を見るという「若者のすべて」のような夏の思い出ができて、けだるい感じの<僕>のイメージが一新する。夏の終わりに希望を見出す<僕>のおかげで、リスナーも夏の侘しさ、寂しさだけでなく、花火のような確かな煌めきを最後の最後に得られて、妙に爽やかな気持ちで聞き終えることのできる楽曲である。

続いては個人的秋盤に関して。秋盤は正直悩んだ。2曲で悩んだ。結局選べず、短い秋は欲張って、2曲を秋盤としたい。
「同じ月」と「Anthem」である。どちらも志村正彦がよく歌詞の中に取り入れる“月”がモチーフとなっており、私は秋と言えば“月”のイメージなので、この2曲をチョイスした。
どちらもアルバム『CHRONICLE』に、9曲目と10曲目として続けて収録されているため、なんとなく近い存在に思える。
「同じ月」では

<月曜日から始まって 火曜はいつも通りです 水曜はなんか気抜けして 慌てて転びそうになって>

というようにあまり変わり映えのしない1週間のルーティーンが描かれている。

<イチニサンとニーニッサンで動いてくこんな日々なのです 何万回と繰り返される めくるめくストーリー>

“月”と同じように、人間の営みも規則的に繰り返されて、たまに形が変わったかと思えば、結局元の形に戻って、自分は成長できているのだろうかと虚しさを覚えたりする。

<にっちもさっちも どうにもこうにも変われずにいるよ Uh~>
<僕は結局ちっとも何にも変われずにいるよ Uh~>

これらの部分に変われない自分へのもどかしさがよく表れている。
サビの部分では

<君の涙が今も僕の胸をしめつけるのです 壊れそうに滲んで見える月を眺めているのです>

と滲んで見える月と壊れそうな自分の心を重ね合わせている。この楽曲において、“月”は様々な役割を果たしており、自身の心を投影するもの、単純に見かけの形を変える天体として眺めるもの、1週間の曜日・人間の周期をつまり時間を作る暦のようなものとしてなど、一言で“月”とは片付けられない意味を含んでいると思う。

「Anthem」でも今は側にいない<君>を夜空を眺めながら想う、<僕>の孤独感が歌われている。

<三日月さんが 逆さになってしまった 季節変わって 街の香りが変わった>
<闇の夜は 君を想う それら ありったけを 描くんだ>

三日月の夜は満月の夜と比べたら、暗い。糸みたいに細い三日月の時なんて、ほとんど漆黒の闇だ。その闇夜に<君>を想って月の光に負けない「Anthem」を歌い上げている。

<このメロディーを君に捧ぐ このメロディーを君に捧ぐ>
<鳴り響け 君の街まで 闇を裂く このアンセムが>

<僕>の強い意志が力強いドラムスの印象的なサビと重なり、静かな歌い出しのAメロとは違って、闇夜に稲妻が走ったような光景が思い浮かぶ。雷が轟き、その激しい轟音で孤独感を思い出す。この楽曲において“三日月=君”を、“雷=孤独”を象徴していると思う。

<轟いた 雷の音 気がつけば 僕は一人だ>

そして最後は冬盤。これは雪の歌「Stockholm」。
この楽曲はストックホルムでレコーディングをしている最中に作った楽曲で、志村正彦はストックホルムを訪れたからこそできた楽曲と述べている。スローテンポなメロディはしんしんと雪が降り積もる様子そのもので、雪道をゆっくり歩くイメージが浮かんだ。北欧の地に一歩足を踏み入れた空気感、雪が降りしきるスウェーデンの街並みを的確に捉えていて、その土地の季節や景色の良さを短い歌詞の中にスノードームのように閉じ込めた気がする。

<静かな街角 辺りは真っ白 雪が積もる 街で今日も 君の事を想う>
<誰かが作った 雪だるまを見る 雪が積もる 街で今日も 君の事を想う>

上記が歌詞のすべてである。これほど短いのに、長い雪の季節、長い冬が歌詞の中で完全に描かれているように感じる。
遠い異国の地にいて、日本にいる<君>、日本の冬に思いを馳せているような、温かみのある寂しさを感じられる。

志村正彦というアーティストは結局、海外にいても日本にいても、どこにいても、いつでも季節を感じていた。もしも人間に季節を捉える受容体のようなものが備わっているとすれば、志村くんはその受容体がかなり発達している人ではないかなと考えた。彼が感じた、見た季節を、彼の音楽からリスナーは誰でも感じ取ることができて、彼が過ごした季節を追体験できるような不思議な感覚になる。
敏感な感受性で、移ろいゆく季節を叙情的な歌詞とクラシックのように美しいロックで、時には独創的なメロディを巧みに操って、儚いはずの季節を永遠の存在にしてくれた。
季節を残したいと思った時、写真や自分の言葉で誰でもそれなりに思い出の束にすることは可能だろう。けれど、そこに季節に合った音楽が添えられると、季節の移ろい、躍動感が生まれる。写真だとあまり動きは感じられない。音楽なら動きのある、生きた季節を残せるのである。まるでショート映画さながらの命ある季節の美しさを音楽として残す役目を果たしてくれたのが、志村正彦なのである。
志村正彦が奏でる四季の音楽はいつだって真っ盛りというより、季節の始まりだったり、終わりかけだったり、それぞれの季節の刹那的瞬間が多い。舞い散る桜の花びらも、花火の煌めきも、金木犀の香りも、降り積もる雪もどれも儚くて、残しておきたくても、絶対残せない、すぐに消えてしまうものを、音楽の中に閉じ込めて、私たちリスナーに何年経っても思い出してしまう季節のすべてを残してくれた。

『東京、音楽、ロックンロール』の中で、金木犀の季節に「赤黄色の金木犀」を聞きながら歩いていたら≪歩いているその時に見えているものが聴いているその曲のショートフィルムみたいで、なんつーか自分だけのフィルムっていうか。≫と、自身の曲を体感して感動したことを書いているのだが、これはまさにその通りなのである。この曲に限らず、フジファブリックの季節を感じられる楽曲は聞きながら歩いていると、自分だけのそれぞれの季節のMVが勝手に作成され、脳内再生されて、ますます四季が好きになってしまう。「若者のすべて」も「エイプリル」もどれを聞いても、聞きながら生活しているだけでオリジナルMVが完成してしまう。自分だけの季節をプレゼントされた気分になるし、四季盤を聞いた人の数だけそれぞれの季節が存在することになる。それってすごいことなのではないか。二つの四季盤のおかげで、この1年間は四季を堪能することができた。

今だからなおさらフジファブリックの音楽と共に、季節を感じる1年を過ごしていて良かったなと思わざるを得ない。去年の夏、「若者のすべて」と「陽炎」という夏歌に出会えたおかげでちゃんと夏を満喫できた。例年以上に花火を真剣に楽しめた。秋、月を眺めつつ、それまで意識したこともなかった金木犀探しの旅をした。金木犀スポットも見つけることができた。冬、雪は少なかったけれど、銀河を感じたくて夜空の星ばかり眺めていた。たまにU.F.Oを探してみたり。そして今年の春、残念ながら盛大なお花見はできなかったけれど、強風で舞い散る桜の花びらを眺めたりしていた。
去年まで当たり前に開催されていた季節ごとのイベントが中止になってしまうケースが増え、フジファブリック・志村正彦の音楽と出会えていたおかげで、季節を五感でちゃんと満喫していて良かったとつくづく思えたのである。
もしかしたら今年の夏は最後の花火どころか、最初の花火も見られないかもしれない。それぞれの季節のイベントが自粛され、淡々とした新たな日常という世界の約束事ばかり増えて去年までほど、季節を楽しめないかもしれない。
それでも私たちには季節を感じられるフジファブリックの四季盤という心強い味方がいる。「若者のすべて」を聞けば、去年と<同じ空>に見えない花火も見える気がするし、「赤黄色の金木犀」を聞けば、いつだって金木犀の香りを感じることができる。
人間の世界がこれまでとは少し違ってしまっても、それぞれの季節は知らん顔で、例年通り、移ろいゆく。以前と変わらず季節は常に変化していて、捕らえることはできない。捕らえられないはずの“陽炎のような季節の残像”をフジファブリックの四季盤で感じられることはとても恵まれていて幸せなことだと思う。
志村正彦は姿こそ消えてしまったけれど、いなくなって10年以上経過した今もそれぞれの楽曲を通して私たちの心に圧倒的な季節の輝きを刻んでくれる。刹那の切ない季節の美しさが色褪せるどころか、時間が経過すればするほどますます鮮明なものになる。彼の音楽を聞けば、心がカラフルな四季で満たされる。

<心機一転 何もかも春は 転んで起き上がる>
<うだるような季節の夏は サンダルで駆け巡る>
<枯れ葉が舞い散ってる秋は 君が恋しくなる>
<冬になったって 雪が止んじゃえば 澄んだ空気が僕を 包み込む>

「MUSIC」という楽曲の中でも四季が歌われたように、四季が音楽を、フジファブリックの四季盤を、志村正彦の“MUSIC”を作ってくれた。それぞれの季節の恩恵と、志村正彦という季節に寄り添い、儚い美しさや刹那の煌めきを逃さない繊細で努力家な天才アーティストが存在したことをこれからも止むことなく巡り続ける季節の中で忘れないようにしたい。

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