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三文小説のまま、足掻き続けたい人生、在るべき時間の形~King Gnuが劇場で見せつけてくれた生き様としての革命の音楽~

※2021年1月13日に掲載された音楽文です。いろいろ訂正したい箇所はあるにせよ、あえてそのまま転載します。

生き物たちがこの世に生まれ落ちる時、命と同時に“時間”も与えられる。命と共に与えられた時間の長さはそれぞれで、短い場合もあるし、運良く長い場合もある。人間以外の生き物たちは与えられた命と時間を一瞬も無駄にすることなく、生まれた限りは生を謳歌しようとする。生まれて間もなく殺されてしまうかもしれない虫も、人間と比べたら寿命の短い鳥や獣たちといった野生の生き物たちも、食べること、繁殖すること、子孫を残すこと、つまり生きることに必死で、本能に従って、時間を有効活用しているように見える。
人間の手の内にはまってしまった動物園で飼育されている動物や、自由を奪われて人間の都合の良いように愛されるペットや、食糧として人工的に生産され続ける過酷な状況で生きる宿命を持った動物たちを除けば、基本的に動物たちは自らの意志の赴くまま、命懸けで限られた時間を惜しみなく生きようとする。

一方、人間はというと、昔は野生動物たちのように本能や自分の意志に従って、授けられた命と時間をフル活用できる人が少なくなかったかもしれないけれど、現代社会においては昔と比べて時間を有効に使えている人はそう多くはないだろう。人間の知能によって、どんどん文明が進歩、発展し、便利な道具が生産され続け、ラクをするという意味では生活は豊かになった。
先進国では安全な水道も普及し、水を汲む時間を考えなくて済むようになった。蛇口をひねれば一瞬で水が出る。水を汲む時間に充てていた時間を他のことに使えるようになる。料理だって、洗濯だって、そう。便利な家電が自動でやってくれるから、その分の時間が浮く。太古の昔なんて、火を起こすことから始めなきゃいけなかったのに。お風呂も昔は薪を確保することから始めていたのに、今やボタンひとつ押すだけで、お湯はりが完了する。歩くしかなかった移動手段も、自動車、電車、飛行機など便利な乗り物が増えて、移動時間に費やしていた時間も節約できる時代になったのに、なぜか多くの人たちは時間が足りないと時間に追われる生活を送っている。

逆に余った時間を持て余して、ただ何となく、下を向いてスマホを眺めて、SNSでみつけたキラキラ輝いているように見える他人の人生に嫉妬してみたり、そんなリア充めいた人になりすまして、偽の自分を作り上げて、SNSにアップして、承認欲求を満たそうとする人もいる。それで幸せなら、それもまた時間の有効活用と言えるかもしれないけれど、でももしも本当の自分を隠した人生を演じることに虚しさを感じているとすれば、それは時間を無駄遣いしていることになるだろう。インターネットが普及したおかげで、世界中の人たちと瞬時でつながれるようになったが、その分、世界中の人たちのそれぞれの人生を覗くことが容易くなって、妙な嫉妬心や邪念が生まれやすくもなっていて、自分と他者を比べることに時間を費やすようになって、ネットに時間を奪われるように生きている人が増えてしまった。まるでミヒャエル・エンデ作の児童文学、『モモ』に登場する灰色の男たちに時間を盗まれてしまった哀れな人間たちのように…。

主人公のモモは円形劇場の廃墟に住みついた小さな女の子。他人の話を聞くことが得意で、モモに話を打ち明けるだけで、迷いのあった人は自分の意志が明確になり、悩み事のある人には明るい希望が湧いてくる。当初モモは得体の知れない浮浪児だったが、みんなにとってなくてはならないかけがえのない存在になり、しかし灰色の男たちという時間どろぼうが現れて、みんなから奪われた時間をモモが取り返そうとするファンタジー作品である。『モモ』の話をしたいわけではないので、ストーリーの内容はさておき、ポイントとなるのは円形劇場という場所。《劇場というのは、人間の生の根源的なすがたを芝居という形で観客に見せてくれるところ》と『モモ』の訳者・大島かおりがあとがきで述べている。《観客は、芝居という架空のできごとをたのしみながら、そこに示された人間のもうひとつの現実をともに生き、ともに感じ、ともに考える》、《芝居と観客の関係》がこの物語には描かれていると。

『モモ』と同様に、劇場で芝居を見せつけるがごとく、何かを考える時間を与えてくれた音楽こそ、King Gnuの「三文小説」である。MVでは演奏の間ずっとメンバー四人に囲まれて二人のダンサーが円形ではないけれど回る正方形の舞台中央で踊っている。時折、演奏を脅かすほど激しく、King Gnuの音楽に巻き込まれるというより、ダンサーがKing Gnuを巻き込みながら、波乱万丈な人生を表現するような芝居が続くMV。思い通りには生きられないもどかしい人生を嘆き、嘲笑うように踊り狂うダンサー二人とシンクロするように狂ったように歌い、演奏し続け、止めどなく流れる感情を吐き出すメンバー四人が織りなす舞台。これは荒廃した円形劇場そのものだと思った。King Gnuの音楽を聞いているはずなのに、見ず知らずの誰かの人生を見せつけられている気がして、楽曲と芝居が競演する不思議な世界に引き込まれていった。不思議な世界が次々に現れる『モモ』の舞台を鑑賞するのと同じように。

常田大希のピアノと井口理のボーカルから始まるこの曲は一見、繊細で美しく儚い物語の序章のように思えるのだが、次に新井和輝のシンセベースの重低音がやけに不穏な雲行きを感じさせて、ここで単純にこれから美しい物語が語られるわけではないんだと気付かされる。ここで同時にキラキラした高音のグロッケンも鳴り響き、幻想的な美しさが完全に消えることもなく、ベースの重苦しい動悸と、グロッケンの希望溢れる鼓動が妙に合っていて、低音と高音のサウンドがうまく共存しているところがこの楽曲の魅力である。

「三文小説」に限らず、King Gnuの音楽は井口理の高音ボイスと、それと比べて1オクターブほど低い常田大希のボイスが和音のようにかみ合っていて、大ヒットした「白日」然り、ツインボーカルが魅力的な音楽を作り続けているが、今回「三文小説」ではそれがより一層際立っている。先程述べた楽器面での低音-高音、ボーカル面での高音-低音がバランス良く計算されている。高音域で幻想や夢を見させてくれて、低音域で一気に現実に突き落としてくれる。

《怯えなくて良いんだよ そのままの君で良いんだよ》
《悲しまないで良いんだよ そのままの君が良いんだよ》

と時間を止めて甘い理想を囁いてくれているかと思えば、たちまち時間を進めて逃れられない現実を見せつけてくる。

《増えた皺の数を隣で数えながら》
《過ぎゆく秒針を隣で数えながら》

夢ばかり見ていては生きられないけれど、完全に夢を排除してしまってもつまらない。逃れられない過酷な現実から目を背けたくなっても、現実を直視しないといけない時もある。そういう理想と現実の噛み合わせ方が巧みな楽曲である。

井口理のボーカルが“自らの命”と仮定すれば、常田大希のピアノの旋律は“時間”とみなすことができる。命が生まれて生が始まった最初から、人生の終焉を迎えるような最後まで途切れることなく、時計の秒針が進むようにピアノの旋律が奏でられているから。新井和輝のシンセベースは“心臓の動悸”、サビになると壮大なストリングスに交じって勢喜遊の激しいドラミングが身体中にほとばしる“血液”のように、厚みある楽曲の世界観を表現している。それぞれの音は溶け込むというより、まるで蹴落とす勢いで競い合って、奏で合う。主張し合う。抑えていた感情が一気に溢れ出すダイナミックなサビは生の葛藤そのもの。喜び、苦しみ、憂いなど人生における様々な感情がカオスと化し、ますます目が、耳が離せなくなる。

最初はたった1音のピアノの音(時間)で始まって、そこに一人きりの井口理のボーカル(命)が混じって、“時間と命”という二人きりの音楽になる。『モモ』で例えれば“モモ”とモモの相棒になるカメの“カシオペイア”みたいな感じ。Bメロになるとやっと常田大希のボーカルや新井和輝のコーラスも交じって、音が増えて、激しいサビに向かっていく。二番のAメロが始まる前には印象的なピアノソロに近い静かな部分があって、二番のサビとサビの間では情熱的な常田大希のピアノソロが圧巻だ。
ショパン「革命のエチュード」を彷彿させるようなリズム、転調しまくるピアノの旋律が心に突き刺さる。二曲の譜面を確認したところ、「三文小説」のピアノソロパートや、サビにおいて完全8度かつ、付点8分音符と16分音符の組み合わせが多用されている点が「革命のエチュード」そのものだった。

二番では6回も続く畳み掛けるようなサビのメロディはまるで命が尽きる前の生のピークが表現されていて、盛大にそれぞれの音を喧嘩させ合うようなうるさいほどの激しさがあるのに、直後、まるで死んだみたいに一気に音が消えて静かになる。死にかけた終わりかけた時間は息を吹き返し、ピアノの音色と井口理のボーカルだけという時間と命の二人きりの時間で幕を閉じる。この楽曲はまさに人生そのものだ。いろんな人たち(様々なサウンド)と出会って、衝突し合って、泪雨が止めどなく流れる人生だけど、結局最後は生まれた時と同じように、自分の命と時間と向き合って、一人きりで終焉を迎える。人生の理想的な終わらせ方が楽曲を通して描かれていると思った。

聞く度に、ひとつの芝居を劇場で鑑賞した後の爽快感のようなものを感じる。散々もがき苦しんだ後に訪れる解放感というか、高熱でうなされて、解熱後、妙に頭が冴えて悪くない気分を味わえるあの変な感覚にも似ている。もやもやしていた悪溜まりが消えて、心が洗われる。ドラマチックで波乱万丈な人生を散々掻き立てておきながら、最後は静寂で穏やかな時間をもたらしてくれる。

「三文小説」は遊川和彦が脚本を務めたドラマ『35歳の少女』の主題歌であり、ドラマの世界観と完全に一致している。ドラマの脚本の方が楽曲に寄せているのではないかと思えるほど、特にドラマの終盤は転調しまくるサビが特徴のこの楽曲のように、意表をついてきた。

少しドラマの内容を説明すると、事故で25年間眠り続け、10歳の精神年齢で止まった柴咲コウ演じる時岡望美が35歳になり奇跡的に目覚めて、目まぐるしいスピードで成長を遂げ、失われて奪われた自分の人生、時間を取り戻そうとする成長物語が描かれている。『モモ』が物語の軸になっていて、望美はモモのように話を聞くことが上手で、周囲の人たちに幸せを与える存在。カメのぬいぐるみや灰色の男たちに時間を盗まれたような現代人も登場する。望美にとって道標となるカシオペイアのような広瀬結人という同級生兼パートナーもキーパーソンとなっている。10歳の小学生の頃は優等生だった結人は教師という仕事で挫折を味わい、自分の人生を捨てて、代行業の仕事で何者かになりすまして生きていた。モモみたいな望美が目覚めたことで、彼は少しずつ自分の人生を取り戻していく。
望美はきっと目を覚ますと献身的に看護を続けていた母・時岡多恵は鈴木保奈美が演じており、自分しか信じない冷めきった人間、娘や家族に対する支配欲を覗かせる母親に怖いほど見事になりきった彼女の演技は本当に素晴らしかった。
主人公の演じた柴咲コウも10歳の少女になりきったり、少女から大人へ成長する思春期の過程や、35歳という年相応の冷めた大人の人間も演じ分けていて、難しい役どころなのに俳優陣は圧巻の演技力だった。きっとこういう人たちが「千両役者」というんだろうとKing Gnuのもうひとつの楽曲に思いを馳せた。

千両役者が揃っているというのに、あえて三文芝居のような展開が続いた点が見どころだったと思う。三文芝居に見せかけるどうしようもない家族の設定に心つかまれた。
先に述べたように、母親は支配欲が強く、望美に依存していた。存在感の薄い父親は妻に耐えられなくなり、離婚したが、再婚相手の家庭でも引きこもりの血のつながらない息子の問題を抱えてしまい、しかも職場でも早期退職を迫られ、自分の居場所を見つけられず、酒に溺れることもあった。ドラマでははっきり言及されていなかったが、小説版ではアルコール依存症傾向と書かれていた。
望美の妹の時岡愛美は望美が寝たきりになって以来、母親から構ってもらえず愛情に飢えるようになり、率先して家事も学校の勉強も何でもがんばっていたけれど、姉にかかりっきりの母親から認めてもらうこともできず、次第にそんな母親を恨むようになり、早くに家を飛び出し、勉強も仕事もできる女にはなっていたけれど、男運に恵まれず、というかまともな愛し方を知らず、一方的に男に尽くしてしまったり、ストーカー行為まがいのことをしてしまったり、重い女として煙たがられていた。親に頼らず早く大人になったし、自立しているけれど、正しい愛情を知らない、性格の歪んだ自己肯定感の低いアダルトチルドレン的な存在として描かれていた。

せっかく望美が目覚めても、家族は顔を合わせる度に勝手な自己主張で言い争い、ケンカばかりしていて、誰も幸せそうではなかった。幼く純粋な精神年齢10歳のままの望美は自分の力でみんなの幸せを取り戻そうとするけれど、空回りばかりで、25年の間に変わってしまった現代社会にも馴染めず、自分の力に限界を感じた時、みんなを幸せにするモモだったはずの望美はみんなの幸せ、時間を奪う灰色の男たちのように冷酷な人間に様変わりした。

ここで望美と自分の妹が重なった。妹も20歳くらいまでは20歳にしてはかなり純粋で、子どもっぽくて、正義感も強くて、みんなの幸せ、家族どころか世界の平和を願うような性格で、やさしい人間だったと思う。でもそのやさしさや強い正義感が仇となり、みんなの幸せを願うあまり、パニックになり、妄想も膨らみ、大人になってから発達障害の傾向があると診断され、現在に至るわけだが、今じゃあインターネットという灰色の男たちにすべての時間を奪われて、病状は悪化している。

そもそもドラマで描かれていたように、うちも機能不全家族で、父親は我が強くて、妹と同じく真面目で正義感が強くて堅物で、でも酔うと人格が変わって羽目を外したり、突拍子もないことをやらかしたり、ややアルコール依存傾向な姿を私は幼少期から見せつけられていたし、母親も作中の母親像にやや近くて支配欲が強い。家族をコントロールしたがる。
そして私も愛美みたいな歪んだ性格となり、自己肯定感が低く、相手に妙に尽くしてしまったり、男運は皆無。そもそも愛情って何だろうといまだによく分からないから、最近は異性を探すこともやめた。愛美が男を切り捨てて、自分の夢であるグラフィックデザイナーを目指し始めたように、私も物書きになりたいという自分の夢を追い始めた。

そしたら時間の流れが変わった気がした。私は望美みたいに25年間眠っていたわけではないけれど、数年前までは自分の人生なんてと愛美や結人のように投げやりに生きていた。別にネットに時間を奪われていたわけじゃないけど、ただ何となくぼんやりした無駄な時間を送る生活だった。どうせ夢見たところで叶わないし、自分なんて誰からも選ばれないし、必要とされないし、他人に迷惑かけない程度に、適当に生きていればいいやと自分の時間を灰色の男たちに自ら与えていた。
でもそんな暮らしを送っていても、家庭の状況も、自分の気持ちも全然良くならなくて、荒んで落ちぶれていく一方で、自分の人生に嫌気がさしていた。

健康面で不安事が発覚し、自分の寿命を考えた時、覚醒した。どうせいつか死ぬなら、何もしないで死ぬより、せめて自己肯定感を育んでから死にたいと。自己肯定感を得るためには、家庭の問題を解決しないといけない。自己肯定=嫌いな家族を肯定することにもつながる。でもそう簡単に解決できる問題ではない。ならいっそのこと、機能不全な家族を逆手にとって、それで幸せになってやろうと思った。平凡な家庭で育った人たちとは違う考え方が、おかしな家庭で育ったからこそ、育まれた。仲の悪い両親のおかげで、それぞれの愚痴や心情を聞き出す係をしていたおかげで、それなりに人の心が読めるようになった。絡まった心の糸をほどくのが得意になった。妹が病気になったおかげで、自分も含めて人がどんなに身勝手で、冷たくて、見て見ぬフリをして、相談したところで医者や関係者はそれぞれの機関にパスし続けて永遠にたらい回して、助けてくれる人なんていないという現実も知ることができた。

人は頼れないから、私は音楽にすがるようになった。人なんかより、音楽の方が私の心を救ってくれる。甲羅に文字を表示してくれるカメのカシオペイアみたいに、好きなアーティストの歌詞はきっと私にとって道標となっている。
今回、「三文小説」の歌詞でもやっぱり私は救われた。

《僕らの人生が 三文小説だとしても 投げ売る気は無いね 何度でも書き直すよ》
《過ちだと分かっていても尚 描き続けたい物語があるよ》
《あゝ 駄文ばかりの脚本と三文芝居にいつ迄も 付き合っていたいのさ》
《愚かだと分かっていても尚 足掻き続けなきゃいけない物語があるよ》

たしかにうちは機能不全家族かもしれない。ドラマの中で時岡家が顔を合わせればいがみ合っていたように。みんなそれぞれ何かに依存していて、どうしようもない愚かな人間かもしれない。でもそんな家族のことも自分のことも、絶対的に嫌いにはなれない。どこかでそういう弱い人間がいてもいいじゃないかと甘えたくなると、開き直ってしまう。

不器用な《そのままの君で(が)良いんだよ》なんて言ってくれる人は現実では誰もいないけれど、「三文小説」という楽曲内であの神々しい歌声で何度も囁いてもらえると、このまま愚かなままの家庭で、不器用な愛を押し付け合って、もがきながら苦しみながら生きていてもいいんじゃないかと思えてくる。
妹や家族の騒動に巻き込まれて「時間を無駄にした、時間を奪われた」と思ってしまう時もたしかにある。けれど、そんな悔しい時間の中でも、ごく稀に収穫があったりして、そんないざこざを経験しなければ書けない物語があって、物書きを目指す身としては怪我の功名というか、必要な経験なんじゃないかと思ったりする。

母はよく、うちは人生劇場を近所の人たちに見せているようなものだと言う。家庭という名の舞台で繰り広げられる争いごとは、巻き込まれたらたいへんだけど、客観的に見ればおもしろいと感じる人もいるかもしれない。妹をなだめるために猿芝居を打つこともある。まさに駄文ばかりの三文芝居の脚本を考えざるを得ない機会がリアルで本当によくある。物書きになるための修行だと考えれば苦にはならない。

今回、King Gnuが三文小説のような人生を、着飾ることもなく、隠すこともなく、ありのまま、駄目なままの姿を、美しく歌って、力強く演奏してくれた。どうしようもない人生もこんな素敵な芸術作品になり得るなら、このままの自分で生きていてもいいんじゃないかと背中を押された気分になった。夢を持って、たとえその夢が報われなくても、自分の人生から逃げなければ、しょうもない人生でも輝ける可能性は残っているからやめられない、続けなきゃいけないと思えた。この楽曲のように、抱えきれない感情を包み隠すことなく、溢れ出させることができれば、自分らしい芸術作品を生み出すことにつながるだろうと。

楽曲を通じて、King Gnuが人間の在るべき姿を教えてくれた。ぶざまな姿が愛しく感じられて、綺麗事ばかりでカッコつけるような、なりすます人生の方がつまらないということを音楽を通して示してくれた。地球という円形劇場で、人生という舞台で、人を蹴落としてでも生きようとする愚かかもしれないけど、しぶとく自分の時間を生きようとする人間の美しさ、醜さ、傲慢さ、生き様を「三文小説」で教示してくれた。

King Gnuは音楽というより、人生をパフォーマンスしてくれるバンドだと思った。人生を表すにあたって、音楽を手段に選んだというか。救いの手を差し伸べてくれるような井口理の美しいファルセットと逆にその手を振りほどくような勢いのあるバンドサウンドの融合が絶妙で、投げ出したくなるおぞましい現実とあり得ないけどすがりたくなる美しい理想や幻想が彼らにしかできない音楽で表現されていると感じた。そして病みつきになる彼らの音楽からは劇場で芝居を見るように、次々と情景が浮かぶ。

《時には誰かを 知らず知らずのうちに 傷つけてしまったり 失ったりして初めて 犯した罪を知る》

長い人生、「白日」で歌われたように、時には人の心をぶっ壊しながら、逆なでるようなことを吐き出しながら、人と関わってしまうこともあるかもしれない。でも《正しいことばかり 言ってらんない》のが生きるということだから、たとえ傷つけてしまうことがあるとしても、ぶつかりながらも、真剣に関わることができたらいい、傷つけてしまったら、その傷から逃げないで、向き合うことができたらいいとKing Gnuから教えられた。

三文小説を千両小説に書き換えることは簡単なことかもしれない。千両役者が千両小説を演じるのなんてお手のものだろう。でも駄文ばかりの三文小説のまま生き抜く脚本の方がリアルだし、足掻き続ける物語の方が観ている側もきっと共感できる。足掻く姿を笑うのではなく、その必死な姿勢から生き方を学べたらいい。だから私は私の愚かしむべき人生をやめたくない。辛くても苦しくてももがく姿さえ、物書きの武器にできたらいいと思っている。

教師に戻った結人が生徒たちに伝えた『モモ』の一節。

《世界じゅうの人間の中で、おれという人間はひとりしかいない、だからおれはおれなりに、この世でたいせつな存在なんだ。》

限りある時間の中で、自分を捨てて、誰かになりすまして、誰かに時間を奪われながら生きるより、自分自身と対峙して、自己確立する大切さを生徒たちに訴えていた。

同じように、「三文小説」という楽曲が、《そのままの君で(が)良いんだよ》ということを教えてくれて、私も不器用な自分のまま、生き抜く決心がついた気がする。

マイナーのコードが多く、全体的に悲愴感のある短調な曲なのに、所々、メジャーコードも出現して、円形劇場で悲劇と喜劇が織り交ぜられた芝居を見せられた感覚になった。それこそまさに人生そのもので、King Gnuは誰にも奪われていない、血が通った自分たちの時間の中で、彼らにしか奏でられない音楽を「三文小説」の中で繰り広げてくれた。

《わずか一時間でも永遠の長さに感じられることもあれば、ぎゃくにほんの一瞬と思えることもある》
《時間とはすなわち生活》
《人間の生きる生活は、その人の心の中にある》
《時間は、ほんとうにじぶんのものであるあいだだけ、生きた時間でいられる》
《心が時間を感じとらないようなときには、その時間はないもおなじだ。》

『モモ』の中で語られる時間の定義と「三文小説」を照らし合わせてみると、この楽曲は5分にも満たない短い時間の中で、誰かの一生という長い時間を感じさせてくれる。なぜなら正しくなくても、醜くても、彷徨いながらも生き抜いてやるという信念が、彼らの心意気が反映されている“生きた時間”を露わにした楽曲だから。

過ちだらけの私の人生。King Gnuの「三文小説」と出会ってしまったから、時間が許す限り、家族の三文芝居と自分の駄文と付き合い続けてみようと思えた。生きづらい人生の背中を押してもらった楽曲となった。
「ツイテオイデ!」「シンパイムヨウ!」とカシオペイアの甲羅に文字が浮き出てモモが歩み出したように、私も騙されたと思ってKing Gnuについて行ってみようかと思う。
「ツキマシタ」と連れて行ってくれた先には
『モモ』の作中で描かれた《いろいろな音のすてきな合奏》が中から聞こえてくる不思議な世界が広がっているかもしれない。

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