『体温』2019.10.09



その日の朝はまるで、トーストの焼ける匂いが僕をなぐさめているみたいだった。乗せたバターが皿から滑り落ちるみたいに、何もかもが綺麗さっぱり、消えてしまっている。昨日の夜は酷い雨だったのに、傘は一本も減っていない。
誰かがいなくなるという遠い世界のおとぎ話のような、現実味の薄い出来事が、今ここで起きていた。音楽をかけて、猫のマロの尻尾を触って、リビングの椅子をひいて座る。いつもなら正面の席で、コーヒーの湯気があがっているはずだ。目を逸らして、窓の外を見た。
中途半端な晴れが、朝の7時を曖昧に伝えている。部活のエナメルカバンをカゴに乗せた制服の女子学生が、自転車で道路を走っていく。タイヤが水たまりを踏んで、跳ねた水が雑草にかかる。
小さな黄色い花が揺れて、ついていた頬杖を、そっとはなした。ランニングをする成人男性が走っていく。犬の散歩をする中年主婦に並んで、手ぶらの小学生男子が面倒くさそうについていく。
ニャア、とマロが鳴いた。僕の膝の上に乗って、見上げてくる。「どうしたんだ」とでも言うように。僕のくちの匂いを嗅ぐ。
「なんでもないよ」
口に出して、普段飲まないコーヒーの準備をはじめた。
あんなに笑っていたのは、なにが楽しかったからなのだろうか、と今更考える。僕の言ったくだらない冗談に、あの人が冗談を上乗せして、延々と笑う日々。コーヒーは飲まないと言ったら、美味しいのに、と悲しそうに俯かれた。仕方なく苦手なブラックコーヒーを、格好つけて飲んだ。「意外と美味しい」と無理して言えば、あの人は嘘みたいに喜ぶ。
「そうでしょ、美味しいでしょ」
好きに決まってる、そういう表情でうなずいて誇らしげに僕を見る。鼻に抜けるコーヒーの香りが、まるであの人そのものみたいに愛しくなってきてしまって、カップの中の残りをいそいで口の中に入れた。苦いのは苦手なのに、わざと濃くいれたコーヒーを僕は何度も飲んで、口の中が麻痺してきて、やがて苦味を感じなくなった。
口の中があの人にやられてしまったみたいだった。それから、コーヒー屋の前を通るときはいつでも。
芳ばしい匂いを嗅ぐだけでいつでも、あの人の細い背中を思い出すようになった。薄着で部屋の中を歩き回り、僕の方を向いては、何か話しはじめる。次の日にはさっぱり覚えていないくらいの、他愛無い内容を楽しそうに喋る。ずっと表情を変えず、嬉しそうに話し続けるから、僕なんかいてもいなくても同じじゃないかと思って、相槌をさぼったら怒られた。
「あなたにきいてほしいから話してる」
恥ずかしげもなくそう言ったあの人は、細い腕で僕を抱きしめて「ありがとう」と言った。「どうして」。僕が聞いたら、「いてくれるだけで」と言う。
マロが猫らしく、僕の膝の上で丸まっている。手の届く範囲にのびていたスマホの充電器から、スマホを抜き取って、ぼうっと日付を見る。
雨の予報が出ていた。また降るらしい。マロが耳の後ろまで、顔を洗っている。そういえば「いてくれるだけで」なんて言われたのは、はじめてだった。
今日は休みだし、出かける予定はない。スマホを置いて、いれたてのコーヒーをすすって、また窓の外を見る。さっきまであんなに人がいたのに、今は誰もいない。
もう一度スマホを手に取って、ダイヤルを押してみる。耳に当てる。画面を押し当てながら、ぼうっと外を見ていた。
僕はコーヒーの匂いを嗅ぎながら、しばらくそうしていた。コーヒーが冷えるまで。
明日、また雨が降るらしい。膝からニャアと聞こえる。それが、その日の朝の出来事だった。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?