短編小説『見渡す限り、温もり』2020.7.9


 七月の蒸す空気、図書室は避暑地だった。七瀬真由香は小説の背表紙に手を伸ばしかけ、やめて悠一を見た。
 図書委員の宮前悠一はずり落ちたメガネをそのままに、本のページを見つめていた。真由香の視線に気づく様子はない。
 近づいてみると、悠一が顔をあげた。
 目が合って、そらす。
 チャイムが鳴る。真由香は図書室を出た。一度も振り返らなかった。教室はまた猛暑なんだろう。
全身から汗がふきだしてくるのを感じながら、走る寸前のはやさで、廊下を歩き抜ける。壁に貼られた栄養バランスのポスター。そうじの当番表。刺された画鋲。
 聞こえたのは声だった。
 教室に、笑い声が響いている。真由香は自分の机まで、かき分けて進む。あと一分で授業が始まるところだ。三歩進んだところで、陽炎がでているようだ、と思う。
息ができない。この教室にゆらめいているのは、本当に空気だろうか。地熱を吸った海水なのではないか。暗くなっていく視界で、机だけがかろうじて、ぼんやりと輪郭を保っている。深海の圧力に押されて、その場に膝をつきそうになる。
 突然、机が傾いた。音をたて、教科書類を吐き出しながら倒れる。倒れたまま奥に入っていたプリントまで、ざらざらと、胃を痙攣させながら吐き出す。余すことなく全てが床に広がる。机の足を黒い足が蹴っていた。
 教科書もプリントも何もかも、よくわからなくなっていた。インクにまみれ折れ曲がり皺だらけの破けたページと、ページと、ページと、プリントと、プリント、そこに落ちた涙が、からまりあって吐瀉物だった。
 ゆらめく視界に水のたまったような耳、ぼんやりときこえる授業の音。猛暑は海の底まで侵食している。止まらない笑い声、力の入らない身体、顔をあげさせまいと、これ以上なにも見させはしないと、目を潰すように押す自分の手の圧力に、汗がつたって、真由香はぐらりと立ち上がった。
倒れた机に手を添えて、立ち上がるよう促し、撫でる。ごめんね、と呟けば、机はまた、ぐちゃぐちゃになった教科書を食べる。
 見渡す限り、黒い足が立ち並び、教室はムカデに似た気味の悪いおばけに変わってしまっていた。数式をとなえる鳴き声を聞きながら真由香は、聞き取れない、と思う。
 呪文の書かれた黒板がゆがみ、だれかが呪文でこたえた。少し前まではわかる言葉だったのに、いまではもう全くわからない。わからないのは自分だけなのに、自分だけがヒントの読めるきれいな教科書を持っていない。
 不公平なのはここに限った話じゃない、と言ったのは、図書室の悠一だった。
 あの日、悠一が読んでいたのは、道元の著書だった。
『典座教訓・赴粥飯法』。読めないと真由香が言えば、悠一も読めるのは一部だけだと言う。調べながら少しずつ読み進めているらしい。
「仏教がすきなの?」
 真由香がきけば、
「禅に興味があるだけ」
 と、悠一がこたえる。
「禅って、座禅とか、そういうやつ?」
「そう」
「できるの、禅」
 悠一はこたえず、だまった。
「やっぱりむずかしいの?」
「僕には、簡単だとはいえない」
「どんなことするの」
 悠一は真由香をじっと見た。
 真由香は自分の制服をみて、目をそらした。制服のスカートが切れている。俯いてみれば、上履きが汚れていた。油性ペンで書かれた落書きは何度洗ってもとれないし、買い直してもまた汚されるので、このままでいるしかない。恥ずかしくなってきて、自分の身体を抱きしめる。
「あんまりみないで」
 悠一はだまって、身体の方向を真由香からそらす。「禅は」と口をひらく。
「禅は、いまこの瞬間にもある。禅があれば、ひどいことをされても耐えられるんじゃないかと思う」
「むりだよ」
「人生の苦しいことに耐えるために、禅はあるらしい」
 悠一は椅子をひいて、真由香に座るように促した。図書室特有のクッションのついた椅子にすわると、悠一も隣に座る。
 苦しいことに耐えるための禅を、教えてくれるつもりなのだろうか、と真由香は思う。
「きいちゃいけないかもしれないけど」
 悠一はそう言って、メガネをあげて、黒髪で天然パーマの頭をかいた。悠一がどんなふうにクラスでみられているのかとか、頭がいいのかとか、違うクラスなのでしらない。
「なにか、ひどいことされてるんだよな」
 悠一の言葉に、真由香は、自分が嫌われ者だとばれるのは当たり前だ、と気づく。こんな服装で。
 胸の中が詰まって、カッターの刃を飲み込んだみたいになった。
「されてるとしても……わたしは自業自得だから、仏様には救ってもらえないよ」
「僕はべつに、仏教の伝道師じゃない」
 悠一はうつむきがちに言って、机に腕をのせる。日に焼けていない腕は、真由香が思っていたよりはがっしりとしていて、ゆびさきにはささくれが出来ていて、痛そうだった。
「いろいろあるけど、大丈夫だよ」
「大丈夫とかいう奴、信用できない。僕だって大丈夫じゃなくても、大丈夫って言うよ。言ったよ」
 悠一がささくれをむきはじめたので、真由香はそれを止める。眉をひそめて見てくる悠一に、真由香は首を横にふってこたえる。いたそうだから、だめ。伝わったのかはわからないが、悠一は手をはなして、ささくれをむくのをやめた。
「独りはその、つまらないというより、怖いって思うんじゃないの。味方がどこにもいないようで……実際いなかったのかもしれないけど」
「それは……独りは怖いし……寂しい。でも、そんなこと言ったって、だれかがわたしを助けてくれるわけじゃないし」
「助けてもらえるとしたら、なにしてほしいと思う」
 真由香は考えてから、こたえた。
「なにもしてくれなくていいから、誰もいないところで、手をにぎってほしい。助けてもらったら、その人にも何か悪いことが起きるかもしれないから、手をにぎるだけでいい」
 真由香は自分の指にささくれがないのをたしかめて、指先をこすりながら、続けた。
「ほんとうは、いつもこの図書室みたいに、誰もいなかったらいいのにって思う」
 悠一は少しためらう様子を見せてから、真由香が指先をこするのをさわって止めた。すぐに手をはなして、またうつむきがちに机を見つめる。
「助けてくれる人に、なにか悪いことがおきるかもしれないなんて思う時点でさ……僕たちは助けられるのに向いてない、と思わない」
 悠一の言葉に、真由香は少しだけ笑った。そうなのかもしれない。向き不向きは、何にでもあると思う、それなら助けられるのに向いていないということも、あるのかもしれない。
「そうかもしれない」
 真由香がこたえると、悠一は身体を真由香の方にむけた。またじっと見る。奥の奥まで入り込むように。
「だから僕は、禅の本をよんでた」
 悠一は緊張させた手で、真由香の手をにぎった。息を吐いてから、ぎゅっとする。「目をつぶって」と言う。
「目を……?」
「そう。目をつぶって」
 真由香はまぶたを閉じる。
 悠一の手の、微妙な温度だけを感じる。乾燥し、少しだけ硬い皮膚の感触。かさついた指先とふれあう、お互いの皮膚の感触を、真由香は感じる。
「嫌なことがあったら……【いま、ここ】に集中するんだ。手に集中して」
 悠一の手の熱が、手の甲から伝わってくる。骨を伝って、筋肉につたわり、腕全体が緊張してくる。
「それで、力をぬいて、呼吸をするんだ。息、はいて」
 息をはくと、身体が心臓にむけて、きゅ、と迫ってくる。ひとまわり小さくなって、自分が世の中から忘れられていく。
 ここにはだれもいない。悠一以外は。悠一の手の感触だけが温かくて、その温かさが、やがて全身に広がっていく。
 手の甲から指先を迂回して、温もりが手首をつたい、腕の筋肉をやわらげ、二の腕がやわらかくなり、肩が落ちて、胸から心臓へ、暖色の滴がたまる。ぽたぽた。足先から、ふくらはぎを通って、太もも、下腹部からあがって、胃を通って、心臓へ。温もりの血管が、全身へめぐって、また肩、やわらかくなった二の腕、やわらいだ筋肉の腕から手首、指先を迂回して、手の甲に戻って、悠一から温もりを受けとめる。視界が温もりになっていく。
 見渡す限り、温もりになる。
「集中して……自分を忘れて……ここから自分がいなくなったら……、目の前にあることだけを、無心でこなすんだ。それが禅なんだって、書いてあった。何もないのが正しいんだ。目の前にある泥仕事みたいな作業を……ただこなす……」
 真由香はまぶたを開く。
 黒い足の立ち並んだ教室は、すべてが真由香を向いていた。真由香はその場に立っていた。教室の中心にいた。
 椅子をひく。一歩ふみだして、椅子の前に立つ。机上のほこりを払い、椅子に腰をおろす。椅子をひいて、息を吐いて、吸う。
 呪文の書かれた黒板を読む。五十ページ、カッコ二番、ワイイコール……。
 ムカデの足が制服を着た生徒の足に戻っていった。深海のように重かった空気が、ゆらめくのをやめ、ただの夏に戻っていく。ノートを開き、ペンをとりだす。ペンをにぎる手の感触に集中する。息を吐いて、一文字書き、吸って、また一文字書く。
 時計の秒針が、自らの仕事を無心でこなしていた。長針が動く。ノートに文字を書く。無心で、黒板の文字をノートにうつした。背後の生徒の足が、椅子の足を蹴ってくるのを感じる。それでも無心に書き続ける。目の前にある泥仕事のような作業を、ただこなしていくだけ。
 息を吐いて、まぶたをとじる。温もりが、記憶から現実へ入り込んできますように、と真由香は祈る。
 再び長針の動く音が聞こえたとき、チャイムが鳴った。
 まぶたをあけた。
「じゃあ、授業はこれで終わりにします」
 聞こえてきた言葉は日本語だった。手の甲を撫でる。
 立ち上がり、教室を出る。走る寸前のはやさで廊下をあるく。壁に刺された画鋲。そうじの当番表。栄養バランスのポスター。いつかは悠一のことも忘れなくてはならない。自分は助けられるのに向いていないから、と真由香は思う。いつか迷惑をかけてしまうかもしれないから。
 図書室に入ると、悠一はまだいなかった。誰もいない図書室は驚くほど静かで、叫び出しそうになる。真由香がその場でうずくまると、背中を叩かれる。
 見上げると、背後に悠一がいた。
 悠一は困り切った表情で真由香を見下ろしてから、追い越して図書室にはいっていく。
 助けられなくても、独りでも、生きていけますように、と真由香は願う。世の中から、みんなから忘れられて、無心でいられますように。
 立ち上がった半径一メートル以内には、正真正銘、だれもいない。それでもまぶたをとじれば、心臓の音と、記憶の温もりがある。
 これ以上、誰からも救われませんように。真由香は祈る。あの時にぎってもらった手の感触で、充分な自分のままでいられますように、と。


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