『月が綺麗』2019.10.16


何年前だったかね、と祖父が言った。真琴は、祖父のほかほかの肉まんのような顔を見ていた。
おばあちゃんに出会ったときのこと。小学校の宿題で作文を書くために、真琴は祖父の顔をのぞき込む。
「おばあちゃん、きれいだった?」
「そりゃあもう。初めて会ったときは、カミナリが落ちるようだった」
真琴は、ふーん、と言い、日に焼けた足をこたつにいれる。まだ黒いままだ。
「なんでおばあちゃんがよかったの」
「なんでだろうなぁ。はずかしいなぁ」
「宿題なんだから、まじめにこたえて。どこで出会ったの?」
祖父はみかんの皮をむきながら、みちばた、と言う。
「道端?もしかしておじいちゃん、ナンパ?」
「そんなものかもしれない。鼻歌が、あまりにきれいだったから」
「いっしょにカラオケ行った?」
「あの頃はまだ、カラオケボックスはなかったなぁ」
真琴は、そうなんだ、と言う。祖父は蒸しなおした肉まんみたいに、ほかほかした表情で、あの頃は良かったなぁ、と呟く。
「おばあちゃん、きれいな声だったんだ?」真琴が言う。
「思わず振り返るほどにはね。切ないことに、声そのものっていうのは、個別に保存できないらしい。だからあのときのおばあちゃんの声は、今の声に上書きされて思い出せない。けど、あのときの気持ちは、よく覚えているよ」
「どんな気持ち?」
「そりゃあ、それは」
祖父はひとしきり、目をキョロキョロさせて、上半身を伸ばして廊下を覗き込んでから、聞く。
「おばあちゃん、いないな?」
「カレーの買い物してる」
「そりゃあ、もう、戦いに行くような気持ちになった」
「戦い?なんで」
真琴は少し身を乗り出して、こたつにヒジをついて聞いた。祖父は、眉を少しだけつり上げて、こたつの上の両手でぎゅっと握りこぶしを作る。
「この人の敵にだけはなりたくない、って気持ちだ。たとえばおばあちゃんが、世界中の人に敵だと思われたら、おじいちゃんは立ち向かわなくちゃならない。だから、その瞬間に、世界中全部と戦う覚悟をしなくちゃならなかった。たった一秒の間に」
「おばあちゃん、別に、みんなにきらわれてないじゃん」
「違うんだ、これは覚悟の話なんだよ。例えば天地がひっくり返って、全部が反転して、おじいちゃんもおばあちゃんも、大悪党になるかもしれない。そのとき、悪党同士でぶつかったら、おじいちゃんはおばあちゃんに、さりげなくやられてやらなきゃいけないし、おじいちゃんが善人で、おばあちゃんが悪党でも、おばあちゃんを否定しない覚悟が必要だった。それが、家族ってもんだから」
真琴は、祖父の勇ましい表情に、少しだけドキリとした。普段怒らない祖父が、何かに怒っているように見えたから。けれど、しばらく見ていたら、それはとても優しい表情だとわかった。
「おじいちゃん、おばあちゃんのこと好きなんだね」
「落ちるっていうのは、ああいうのを言うんだなぁ。正しさなんて、一人の女性にあっけなく変えられちまうんだから、おそろしい」
祖父は笑う。真琴は俯いて、爪をいじり始める。
「わたし、まだ好きなひとできたことない」
するとこたつに顎をついて、見ずに手を伸ばしてみかんをとり、ころがしながら言った。
「好きとか、わかんない。でもみんな、クラスの男子が好きとか言う」
「わかんないよなぁ。おじいちゃんも、おばあちゃんに会うまではわかんなかったよ」
「おじいちゃんは、男のひとじゃん。おばあちゃん、おんなじだったのかな」
「それはどうだろう。真琴は女の子だからね」
「きいてみたいなぁ」
祖父は、また温かい表情をして、やわらかそうな優しい笑顔で、そうか、と真琴の頭をなでた。
「でも、おじいちゃんの気持ちは、おばあちゃんにはひみつだ」
「えー。そしたらきけないじゃん。なんて説明したらいいの」
「夏目漱石みたいに、わからないように訳したらいいよ」
「どういう意味?」
月が綺麗だなぁ、と祖父が言った。真琴は、まだ月出てないじゃん、と言いかけて、そこにおばあちゃんの姿があったのを見つけた。まだ遠くで、スーパーの袋を自転車の前後に乗っけて、道路を運転していた。
「おばあちゃんだ」
「うん。一緒に手伝いしにいこう」
「えー。おじいちゃん、手伝いするのへたくそじゃん」
「真琴が二人分頑張ってくれたら、おじいちゃんは、おばあちゃんを見ていられる」
「うわぁ、なんか、へんな感じ。おじいちゃんまだ、そんなにおばあちゃんのこと好きなの」
「一生好きだよ」
あぁ、好きなんて直接言って、夏目漱石に怒られるなぁ。と祖父は呟いた。

──そのときの表情を思い出す。真琴は掃除中の物置から出てきた、古い、拙い字の作文を読みながら、夫が帰ってくる瞬間を考える。
今夜はカレーにしよう。
玄関から外へ出て、肌寒い空気に、甘い花の香りが混ざっているのを嗅ぐ。小さな黄色の花びらを手で避けて、自転車にまたがる。帰ってきたら、なんて言おうかなぁ。
考えても一向に、夏目漱石のような言い回しは思いつかなかった。真琴は自転車をこぎながら思う。
仕方ないから、今日はまっすぐ、抱きしめよう。
それが家族ってもんだから、とあのときの祖父の言葉に納得する。祖父が言いたかったのはこの気持ちだったのだ、と思った。


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