メモ書き『誰かの作品はヒーローだと思うに至った話』2019.12.13



世界がきらめいて見えた瞬間がある。私は元々好奇心が強くて、何にだって興味があった。小説を読めば入り込んで抜け出せなくなるし、音楽は止めどなく聴いた。それぞれの世界へ飛んでいくことが出来た。
つまらないと思うのは、いつも日常と対比したときだった。何も起こらない毎日、というわけじゃない。自分で何かを起こしてみたくて、子どもらしいことなら何でもやった。
学校をサボるとかゲームセンターに行くとか、その程度で冒険になったし、学校の友達から冗談を言われたり、変なキャラ付けをされたりしたら面白かったし、カラオケに行けば評価されてみたい、と思えた。下手くそな歌を録音してネットに上げてみたり、生放送をしたりしてみたら、顔も知らない常連さんが出来て、友達に呼ばれてライブに出演して、歌い出しで外して観客の顔が凍りついたり、無理やり賑やかして死ぬほど笑ったり、楽屋で挨拶を忘れて「ところでキミ誰?」って言われたりした。
当時は歌が好きだったらしい。一七歳の時に書いた心理マップで、三つ願い事が叶うなら何にする?と書いてあって、そのうちの一つが「死ぬほど歌がうまくなりたい」だった。読み返して、馬鹿だなぁ、と思う。周りに歌手や歌手を目指している人がいたから感化されたのかもしれない。けれど、私は歌うのが好きだっただけで、歌で表現するのが好きだったわけじゃない。
自分で言うのもなんだけれど、練習したし、私の歌はそこまで下手じゃない。けれど誰かを感動させたことはない。ジブリとか世界名作劇場とか、そういうのを歌えばウケるぐらいで、首締めた直後の歌のお姉さんみたいな感じなのだと思う。
私の歌は作品じゃない。教科書通りに勉強して、壁を越えられなかったガリ勉みたいで、芸術からは程遠い、エンタメにもならない、自己満足以上の意味を持たないと感じる。
気付いてから、歌うのが全く面白くなくなった。思えば、誰かとカラオケに行けば、一人は私より上手い人がいたし、ボカロを歌えばそのまま機械みたいな歌い方になったし、歌うのは好きだったけど、真似するのが好きだっただけだ、と思った。私より評価されている人の真似。きっと歌じゃなくても良かった。
同時期、私は看護師を目指していた。理由は祖母が癌になったとき、ずっと側で見ていたから。苦しそうだった。どうにかしてあげたかった。あなたみたいな人が病院にいたら、みんな嬉しいだろうね、と祖母が言ってくれたから、私は看護師を目指した。
本当は「あなたみたいな医者がいたら嬉しい」と言われた。頭が悪いから無理だ、と思って、看護師にすり替えた。かっこ悪いし、最低だなと思う。今でも看護職の人に申し訳ない。結局、私はずっと言葉をすり替えて看護師になりたいと言ってきて、結局出来なかった。私自身、違う、と思ったし、なる資格さえなかった。
異常に緊張するようになった。注射を打つ実技試験で、手が震えてアンプルに針をさしこめなかった。工程を飛ばしてしまった。教授に「あなた、その緊張の仕方ちょっと異常よ。そのままじゃまずいよ」と言われて、私が看護師になったら、誰かを殺すかもしれない、と思った。面倒見の良い教授で、私のことをよく見てくれていたから、気付かせてもらって感謝した。
結局、逃げてしまったのだから医師なんか無理で、逃げ込んだ看護師も無理で、当たり前だけど歌も無理で、何にもなくなってしまった。そもそも、私は病院に入院したことがなかったし、風邪もひかなかったし、苦しんだことがなくて、どうされたら苦しい人が少しでも楽になるのかなんて全くわからなかった。
どうしたら誰かに何か出来るのだろう、どうしたら自分の存在価値を保てるのだろう、と思って過ごしていたら、そのうち死にたくなった。学校を辞めて、バイトもせず、友達も一人もいない状態で、何もせず過ごした。親に養ってもらうだけで、毎日死んだようだった。食事も美味しくなければ、何もかも色褪せて見えた。
死ぬか、頑張るかしかない、と思っていた。死のうかと思ったが、残念なことに家では既に姉が死んでいて、もうその枠は残っていなかった。私まで死んだら、両親の投資が無駄になると思った。それから、私が一緒に暮らしたいといった猫たちがいた。例えば私がいなくなって、家族の形が変わって、猫たちが苦しい思いをするのは嫌だった。それから、今と同じ両親と、今と同じ猫たちに会えなくなるのは、何度考えても嫌だった。
消費するだけで生産性の全くない自分が、生きていることをどう懺悔したらいいのかわからない毎日だった。死にたいというよりは放棄したくて、消えたかった。意識も記憶も全て捨て去って、私が元からいなかったことにしたい。そうすれば、これ以上迷惑をかけることなく、消費も止められるのに、と考えた。
結局死ねないので、自分とずっと対話していた。私は多重人格者じゃないけれど、メモ帳にずっと自分との会話を書いていた。死にたい、といえば、死んだ方がいい存在だとは思うけどそういう訳にいかない、と返ってきた。多重人格の方にも、カウンセラーのような人格が現れることがあるらしいが、私は中途半端にそんな感じだった。
昔を思い出すとき、浮かんできたのは二つだ。小説と音楽。
つまらなくて仕方がないとき、小説を読んでいた。「ある感覚」があって、それは言葉で表せない。あれがカタルシスと言うのかもしれないけれど、物語が終わるときに訪れるものでもない。切なさというか、懐かしさというか、そういう感覚。私はそれが好きで、それを感じられる小説を漁って読んでいた。
音楽は、別世界を感じさせてくれた。昔、友達が好きだと言っていた曲を、なぜ好きなのか理解できなかったときから、私は馬鹿だから音楽を理解できない、と思っていたけれど、結局好きだった。歌詞がある曲は難しいから、基本的にインストを聴いた。どんな人が演奏しているのか、どんな気持ちでやっているのか、猫の言葉を推測するように聴いた。
音楽から、小説になったらいいのに、と思う内容が浮かんできて、何度も消した。読むのは出来たけれど書くのは恥ずかしかった。ずっとそうで、頭の中にはこうあったらいいのに、と思うものがあるのに、消していた。既存の作品から似たものを探して紛らわそうとして、結局違くて、その作品はその作品の良さで、記憶からアイデアを消した。
学校を辞めて、自分の存在価値を考えはじめるようになってから、苦しいときに助けてくれたのは、小説と音楽だったかもしれない、と思うようになった。
それは、私が身体的な苦痛より精神的な孤独や虚しさに苦しむことが多い人間だったから、たまたまそうだったのかもしれない。けれど、私は身体的に酷く苦しんでいる人の気持ちを、推測するのが下手だと思うから、それなら精神的な苦痛に対してどうしたらいいのか考えた方がよさそうだ、と思った。
音楽は出来ない、と思った。音楽は音楽で、私にとって表現ツールではなかった。架け橋がなくて、手の届かない別の世界だった。だから、何もなくても書ける文字から始めた。
小説を書いてみたら、全然書けなかった。今まで自分の考えを、まともに口に出したことも、紙に書いたこともなかった。今のこの文章みたいに、支離滅裂で「書きたいことはわかるけど読みづらい、そもそも基礎がなってない」文章ばかりできた。
今でもまだ書けない。前よりマシになったのかすらわからない。けれど、私には期待できるものが何もないので、小説を書くしかない、と思う。誰かに評価されたいとか、もちろん思うけれど、もうそういうのでもないかもしれない。
存在価値は「あの感覚」とは別に、それなりの仕事をして、どうにかしたほうがいいのかもしれない、と思う。そのためにもっと何かスキルを身につけなくてはならないし、生き抜くために頑張らなくてはならないと思う。
小説に関しては、頭の中にあるこの何かが出せて、「あの感覚」を自在につくれるようになりさえすれば、もう他に何もいらない、と思ってしまう。私にとって小説は、「あの感覚」が大切で、それ以外、例えばどの程度売れたとかそういうのはわからない。
理想を言えば、あの感覚を多くの人と共有出来たら、凄いだろうな、と思う。それが、小説で食べている人たちなのかもしれない。何かどう凄いのかはわからない。あの感覚に塗れて生きていけたら、どれだけ幸せなのだろう、と思う。キャラクターたちが長い時間かけて、動いてつくった関係性から、一滴だけ零れ落ちるようなあの感覚。
それを忘れると、とにかく生きて、両親や感謝したい他人にどうにかして何かしなくてはならない、とだけ思うようになって、身体が動かなくなって、泣けてきたり諦めたくなったりする。
もう世界は煌めいて見えない。何もかもに興味を持てるわけじゃない。好きになるのは本当に少しだけで、それ以外は生きるために必要な行為でさえ億劫になるし、雑談で出す憧れ、例えば可愛くなりたいとか結婚したいとか、そんなの空っぽの嘘になってしまった。痩せた方が、汚いよりは綺麗にしていた方が、他者評価が高まって、仕事を貰えるかもしれない、それだけで見た目に気をつかっている。誰かと一緒にいたいとも思えない。自分のことをよく知っているし、これ以上誰かのものを消費したくない。私がその人に何をしてあげられるのか、何処かの他人より多く何かをしてあげられるのかわからない。自信がない。
だから、私は死ねないまま、どうにかして一人で生きていく方法を探らなくてはならなくて、一人のまま、どうにかビジネス的に協力してもらって、稼いだり価値のあることをしなくてはならなくて、たまにそれが重荷になって、別の世界に縋る。
私は別の世界が好きで、別の世界にしか縋るところがなくて、別の世界、つまり誰かの作品が、私が何をしてももう変わりようのない、減りようのない固定された世界だったから、縋ることができた。一度完成してしまえば、世界の中に入れてしまえば、それらは私を否定せずにずっと側にいてくれる。だから私は誰かの作品が好きだ。
作品を完成させた人たちが大好きで、私にとっては魔法使いみたいで、本当に憧れるし、私にとってはヒーローだ。
けれど、創るのが苦痛だったり、批判に苦しんだりする人も多くいて、その度に死にたくなる。例えばその人たちより多く、自己否定より多く、ちゃんと好きだと伝えられたら、作家の苦痛は減ったのかな、と考えることがある。そんなことないかもしれないけれど。
結局、私はまだ、何も出来ない独りでしかなくて、これから先どの程度マシになれるのかすらわからなくて、
まだ作品と昔もらった「あの感覚」に縋って、もう私の味方じゃない世界の中を歩いている。もう煌めかない世界を、何処か一部分だけでも光らせることが出来ないかと、膝をついたまま考えて、動き出せなくて虚しくなることがある。
もう一度全てに煌めいて欲しいとは思わない。けれど、視力が弱くなったときにも光ってくれた作品は、大切にしたいと思う。その方法を考えると苦しい。どうにかしてそれに繋がりそうなことをして、毎日を過ごしている。



別記:猫は無条件に可愛い。猫はいつでも可愛いので、一緒にいると悲しい気持ちを忘れられることが多い。朝、おはようと言えて、返事までしてくれる対象がいるのは幸せだ。猫たちありがとう。

別記2:自分の気持ちをちゃんと出したことがなかったので書いてみたけれど、とりあえず長い。これは話せなくても仕方がない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?