小説『時をかける彼女』⑧

第8話「お母さん・・・・」葉月は写真を見ながら静かにつぶやいた

家に戻ると母親も妹もまだ帰宅していなかった。母親は最近パートに出始め、妹も外出しがちなこともあり、昼間自宅にいるのは最近ちょっとボケ始めたばあちゃんとケンジだけ、というパターンが多い。 
そのばあちゃんは自室に引っ込んだままだ。自宅謹慎を破って外出したことがバレなくてすんだ。 
ケンジは階段を上がって自室に入り、ベッドに寝転んだ。 
火事で死ぬはずだった7人のなかに果たして自分は入っていたのだろうか。もし入っていたのなら、ケンジは葉月の母親のおかげで九死に一生を得たということになる。 
火の海のなか、ケンジの手を引っ張って助けてくれた女の人の面影が浮かんだ。会ったことはないけれど、どこか懐かしい感じのする人だった。握られた手の感触をありありと思い出す。 
葉月の母親は誰を助けに三十一年の時を超えてやって来たのだろう。葉月は母親が自分の父親を助けに行ったと信じている。そうだとすると、あの日火事で死ぬはずだった7人のうちの誰かが将来葉月の母親と結婚して、葉月が二十年後に生まれるということになる。
でも・・・・。
どこが変なのかはわからないが、「お母さんはお父さんを助けに行ったはず」という葉月の話にはどこか無理があるような気がしてならない。どこか根本的に理屈が破綻しているような気がする。でも、それがどこかはわからない。 


思いを巡らせているうちに眠ってしまったらしい。目を開けると部屋は真っ暗だった。みんな帰って来たらしく、階下からざわついた音がする。 
下に降りて行くと、すでに台所のテーブルに母、祖母、妹がついていた。隣の居間からはテレビのナイター中継の音が聞こえる。もう親父も帰っているようだった。
「ようやく降りてきた」
妹が言う。
今年中3の妹はケンジを1ミリも尊敬していない生意気な女だ。
「何度も呼んだんだよ」と母親。
「ああ」
ケンジはそれだけ言って席につき、箸を取る。 
夏だというのにすき焼きだ。すき焼き好きの親父のリクエストだろう。 
しかしケンジの家の場合、すき焼きと言っても経済的な理由から肉は豚肉だ。しかもすき焼きの鍋は親父が食べている居間にあり、台所にいる4人は取り皿に分けられたものを食べるだけなので食卓は華やかさがまったくない。 
ふすまを通して親父が巨人の文句を言っているのが聞こえる。今年はBクラス確定らしいのでナイターを見ているときの親父は機嫌が悪い。 
嫌いな脂身を箸で切り取ってから豚肉を口に放り込む。
「そうだ!」 
母、祖母、妹が顔を上げて声を上げたケンジを見た。突然、葉月の話のどこに無理があるのかわかったのだ。
「なによ、大きな声を出して」
母親が不思議そうな顔をする。
「いや、別に」
ケンジは豚肉よりも好きな白滝に箸を伸ばした。
母親の隣の席で、妹が人差し指を頭に向けて差すのが見えた。とうとう頭がおかしくなったとでも言いたいのだろう。 
当時十一歳だった葉月の父親の命を三十一年前の火事で救うというのはどう考えても理屈が合わない。火事の二十年後に二人の間に葉月ができたとしても、そもそも改変する前の歴史ではその父親は死んでいるわけだから、葉月が既に存在していたこと自体が矛盾しているのだ。 
もともと存在しなかった葉月がその男の命を救うことによって現れた、というなら話はわかるが、その男が火事で死んだ世界、救われた世界、両方に変わらず葉月が存在するなんてことはありえない。 
そうであるからには結論はひとつしかない。あの火事で死ぬ運命にあった生徒に、将来葉月の父親になるヤツはいないということだ。
「ケンちゃんは今日どこに行ってたんだい?」
ばあちゃんが突然大きな声でケンジに話しかけてきて、その場の雰囲気がさっと張りつめた。
「なに言ってんだよばあちゃん。俺は自宅謹慎中なんだよ。どこにも・・・・」
「ケンジ!」
隣室で親父が怒鳴った。 
やはり巨人の不調のせいで怒りが二割増しになっている。
「ごちそうさま」
ケンジは箸を置いて逃げるように二階に駆け上がった。


EAST WESTは1週間後だ。葉月の母親のことも気になるが、コンテストのことも気になる。
翌日、ケンジは裏山の東屋でギターを弾きながら葉月を待った。 
葉月がやって来るとしばらく二人で練習した。 
今日の葉月はスリムのブルージーンズに白いTシャツというラフなスタイルだ。
一息つこうと、ギターをベンチに立てかけてセブンスターに火をつけた。
「ねえ、そのギターってなんて言うの?」
「ストラトキャスターだよ。まあ、本物じゃなくてコピーモデルだけど」
「ちょっと弾いてみていい?」
「ああ、いいよ」 
ケンジは葉月にギターを渡して「ところで火事のことなんだけどさ」と、火事で死んだ生徒のなかに葉月の父親はいないということを説明した。 
葉月は適当に弦を鳴らしながら黙ってケンジの話を聞いていたが、突然「あっ」と大声を上げた。ストラトキャスターの裏側を見て目をむいている。
「どうした?」
「この絵・・・・」 
葉月が何のことを言っているのかすぐにわかった。白いストラトキャスターの裏には、薄くなってはいるが落書きがあった。以前恵がふざけてマジックで描いたもので、つばの広い帽子をかぶった女の子がピアノを弾いている絵だ。恵はその女の子の絵を描くのが好きで、自分のノートにもケンジに送ってくる年賀状にも描いていた。
「その絵がどうした?」
「あたしが小さい頃、お母さんがよく描いてくれた絵にそっくりだ」
「まあ、女の子って女の子の絵を描くのが好きなんだろうな」
「これ、誰が描いたの?」
「友だちだよ」
「友だちって前の彼女?」
「まあな」
「失言キス」の一件があるので、ケンジはバツが悪くなった。
「前の彼女って、なんて言う名前?」
「いいじゃん、名前なんか」
「いいから教えろよ!」
葉月が大声を上げた。
「なに興奮してんだよ・・・・杉沢恵って言うんだよ」
「マジ?」
葉月はもともと大きな目をさらに大きくして右手で口元を覆った。
「ああ本当だよ。それがどうした?」
「あたしのお母さんと同じ名前なんだけど」
「本当かよ」
今度はケンジが驚く番だった。
「葉月って杉沢っていう名字だっけ?」
「そうだよ。言わなかったっけ?」
「初めて聞いた」 
2人ともしばらく言葉がなかった。
「じゃあ、ケンジがあたしのお父さんってこと?」
しばらくして葉月がポツリとつぶやいた。
「だからそれはないって、さっき言ったろ?」
「・・・・」
葉月はぼんやりとした顔をしてストラトの裏に描かれた絵を見ている。
「同姓同名の別人という可能性だってあるだろ?」
「前カノの写真って持ってる?」
「マエカノってなんだよ?」
「前の彼女のことだよ」
「一枚だけ」
恵の写真はほとんど燃やしてしまったけれど、どうしても全部燃やす気になれずに一枚だけ取っていた。
「見せて」
「家にあるから今度持ってくるよ」
「いまから行っていい?」
「ホントかよ」
葉月の顔をみるといつになく真剣な表情だった。
 
ケンジは葉月を荷台に乗せて家に帰った。自転車に乗っている間、二人ともひと言もしゃべらなかった。 
玄関をそっと開けてなかに入ると、間の悪いことに上がりかまちを上がってすぐ左にある洗面所のドアが開いてばあちゃんが出てきた。
「あ、ただいま」 
ばあちゃんはそれには応えず、ケンジの後ろにいる葉月をじっと見ている。葉月は小さい声で「こんちは」と言って頭を下げたが、ばあちゃんは葉月を見つめたままだ。
気まずい雰囲気が流れる。
「この子はただの友だちだよ」
ケンジが言い訳がましく言う。
「よく来たねえ」
ばあちゃんは突然大声を上げて足袋のままたたきに降りてきて、葉月の手を両手で握りしめた。 
訳が分からない大げさなリアクションだ。ボケが進行しているのかもしれない。葉月は戸惑い顔でケンジのほうを見た。
「お菓子とかなにもいらないから」 
ケンジはばあちゃんの手を葉月から放して二階の自室に葉月を連れて行った。 
引き出しの奥から写真を取り出して、黙って葉月に渡した。原宿の歩道橋で撮った写真だ。恵はカメラ目線で微笑んでいる。
「お母さん・・・・」
葉月は写真を見ながら静かにつぶやいた。


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