小説『時をかける彼女』②

第2話「レモンスカッシュはレスカと略したほうがナウいんだよ」 

その翌日は明け方近くまでラジオの深夜放送を聞いていたせいで寝坊した。母親がパート勤めに出るようになってから起こしてくれる家族がいなくなったせいもある。 
ばあちゃんはご飯は作ってくれるけど、足腰が弱っているので、階段を登って2階のケンジの部屋まで起こしに来てはくれない。 
川沿いの道を自転車を漕いで急いで学校に向かう。しかしながら強い向かい風が吹いていてスピードが思うように出ず、あと学校まで100メートルというところで始業のチャイムが聞こえてきてタイムアウトになった。 
途端に学校に行く気がなくなり、行き先を学校から裏山に変更してスピードを落とした。風で雲が吹き飛ばされたのか、空には雲ひとつない。まさに五月晴れだ。 
裏山の麓に自転車を停めて登って行くとまたしても先客がいた。葉月だ。今日も東屋のベンチに座って望遠鏡をのぞいている。 
今日は強い風が吹いて木々がざわめいているからか、ケンジが近づいても気がつかない。旭高校の校庭では、砂埃が舞うなか、例によって体操着を着た生徒がトラックをチンタラ走っている。
旭高校の体育教師は若い頃長距離走者だったらしく、走ることしか脳がないヤツで、とにかく生徒を走らせていれば体育の授業が成立すると思っているアホだ。可哀想に走っている生徒たちは強風にあおられて吹き飛ばされそうになっている。
「なに見てんだよ」 
葉月のすぐ後ろまで来て声をかけると、ものすごく驚いたらしく「あわわわわ」と奇声を発して手にしていた望遠鏡を取り落とした。 
今日の彼女は制服ではなく私服だった。薄いピンクのブラウスにブルーのズボンを履いているが、このズボンが異様に太い。パンタロンみたいに裾だけ太いのならわかるが、上から下まで全部太い。ちょっとボンタンやバギーパンツに似ているが、微妙に違う。加えて丈が短い。見たことがない奇妙な形状だ。
「お前、なんだよ、そのぶっといズボン」 
ケンジがそう言うと葉月はなぜかニヤニヤして「ズボンっていったい・・・・」と、またもや人をバカにしたような顔をした。
「それによ、毎日毎日なに旭高校をのぞいてんだよ。だれか探してんのか」 
葉月の横に腰をかけてタバコをくわえる。葉月はすぐにケンジから間隔をあけて坐り直す。
「まあな・・・・」
「一目惚れした男でも探してんのか? 電車のなかで見かけた旭高校の憧れのあの人はだれ?って」 
軽くからかうつもりで言ったのに、葉月は「まあそんなとこかな」と言ってうつむく。
まずいことを言っちゃったかなと少し反省する。
「なんでも聞いてくれよ。俺にできることなら協力するから」
「ありがと」 
そう言うと葉月は再び望遠鏡を目に当てた。
ケンジはベンチに座ってセブンスターを立て続けに吸った。風のせいでいつもよりタバコの減りが速い。 
望遠鏡をのぞいている葉月を眺める。 
身長は150センチ足らず。胸はまだまだ発展途上。髪はセミロングで前髪は大きな瞳に軽くかかるくらいの長さ。目とは対照的に鼻も口も小さいけれど、なんと言っても顔自体が小さい。下手すりゃ七頭身くらいかもしれない。こんな子、見たことない。まるで外人か宇宙人みたいだ。 
風に乗ってチャイムが聞こえてきた。1限が終わったらしい。いま行けば2限に間に合う。だけどまだ腰を上げる気にならない。
「旭高校って男子校なんだよね」
葉月が望遠鏡に目を当てたまま言う。
「ああ」
「小林って生徒、知ってる?」
「旭のヤツか?」
「そう」
「何年?」
「3年だと思う」 
3年の小林なら一人知っている。
「もしかして小林隆か?」
「そうそう」 
葉月は望遠鏡から目を離してこちらを見た。その顔にセブンスターの煙が直撃して顔をしかめる。
「本気かよ? よりによって小林なんて、お前、男を見る目がなさすぎだよ」 
嫌なヤツなのだ、小林は。しかも見てくれは良くて家は金持ちときている。こうなると手に負えない。マンガに出てくる金持ちの嫌なヤツそのまんまだ。 
小林は軽音楽部の幽霊部員だ。たまにギターケースをしょって部室に顔を出す。なかに入っているのは本物のフェンダー・ストラトキャスターだ。 
本物のストラトなど普通の高校生は高くて手が出ない。間違いなく三十万円以上するだろう。だから、ケンジを含めた軽音楽部のギタリストたちはのどから手が出るほど弾いてみたい。しかし小林は決して弾かせてはくれなかった。そればかりか自分でも絶対弾かないのだ。
一度ケンジが「Aコードくらい弾いてみせろよ」と言ったが、やっぱり弾こうとしないので、「お前、本当はギター弾けないんじゃねえの?」と突っ込みを入れると、真っ赤な顔をしてつかみかかってきた。
「小林だけはやめたほうがいいって」 
ケンジがそう言うと、葉月は「やっぱそうだよな」と暗い顔をする。
申し訳ないけれど、どう考えたって小林だけはおすすめできない。お金が目当てならともかく。
「あいつ、話もピーマンだしな」ダメ押しで言う。 
見ると葉月はキョトンとした顔をしている。
「話がピーマンってなに?」
「話がピーマン」が通じないヤツに初めて会った。やはり田舎者かもしれない。 
ケンジが「話の中身がないってことだよ」と説明すると、葉月は「なるほど」と感心している。変なヤツだ。
「あれ? だれ? そのかわい子ちゃん」 
振り返ると、いつの間に登って来たのか、清水がニヤニヤして立っていた。清水は同級生で火縄銃のボーカリストだ。
「なんだ、清水も遅刻かよ」
「俺は真面目だから時間通りに登校しましたよ。おなかが痛くなって1限で早退しましたけど」
ワザとらしくおなかをさすりながら葉月の隣に座る。 
ケンジたちが通う旭高校は、このあたりでは頭のいいヤツが通う進学校として名が通っているが、校風が自由すぎることもあり(なにしろ制服すらない)、生徒は大学受験に向けて真面目に勉強するグループと、ダラけまくって落ちこぼれていくグループにきっちり二分されている。
当然、ケンジも清水も後者のグループに属している。
清水は派手な柄の開襟シャツに水色のゆったりしたズボンというサーファースタイルだ。最近清水はそのスタイルが多いが、もちろんサーフィンなんてやらない。最近のサーフィンブームに乗っているだけだ。でも長身の清水はそのスタイルが本物のサーファーみたいだった。
火縄銃の練習のときだけパンクスタイルになるが、サーファースタイルのほうが合っているとケンジは思う。
一方のケンジはいつもTシャツにジーンズというスタイルだ。その格好がいちばん好きだからというのが理由だが、そもそも清水みたいに服にバリエーションを持たせるだけのお金がないのだ。
「で、この子どなた? 紹介しろよ」
「葉月っす」
葉月はケンジが口を開く前に自分で名乗った。しかし、恐ろしく愛想がない。
「ハヅキ? ずいぶん変わった名前だな」
清水はケンジと同じリアクションをして、マイルドセブンを取り出し火をつける。 
マイルドセブンは一昨年発売されたばかりのタバコだ。セブンスターを軽くした味わいが人気になり、セブンスターから乗り換えるヤツが続出した。
しかしケンジには軽過ぎてタバコを吸っている気がしない。だからいまでも浮気をせずにセブンスターを吸い続けている。 
両側からタバコの煙を吐き出されて、葉月はイヤな顔をして立ち上がり、東屋の隅に避難した。
「俺は清水。ケンジの悪友っす」 
ケンジは葉月に名乗っていなかったことを思い出した。葉月も聞いてこなかった。ケンジには興味がないということか。ちょっと気分が悪い。
「手に持ってるの、なに?」 
清水が目ざとく望遠鏡にチェックを入れたので、不機嫌そうな葉月に代わってケンジは葉月が一目惚れした男、小林を探しているということを説明する。 
清水は「よりによって小林かよ」とまたしてもケンジと同じリアクションをした。清水も小林が嫌なヤツだということを身をもって知っている。
「違うって。その小林ってヤツなんか好きじゃねえって」 
葉月が声を上げたので、ケンジと清水は驚いて葉月の顔を見た。 
葉月は目を伏せたまま「探してんのは父親なんだよ」とつぶやいた。 
ケンジは清水と顔を見合わせた。いきなり話が深刻そうな展開になってきた。さっきまでヘラヘラしていた清水も困惑顔をしている。
「なんだか訳ありな感じだな。ま、こんなところじゃなんだから、とりあえず行くか」
清水はタバコを灰皿に投げ込んで立ち上がった。
「どこに行くんだよ?」 
ケンジが聞くと清水は「決まってんじゃないか」と言って、「ドゥドゥドゥドゥ、ドゥドゥドゥドゥ」と言いながら、インベーダーの行進を真似して横歩きを始めた。 
清水がインベーダーゲームを誘うときのお決まりの動きだ。
ケンジと清水は暇さえあれば喫茶店に行ってインベーダーゲームをしている。あまりにやりすぎて、インベーダーが夢に出てくるほどだ。 
ケンジは葉月の顔を盗み見た。案の定、葉月は心底バカにした顔をして清水を眺めている。 
そうとも知らずに清水は、さらにスピードをアップして東屋を一周し、体力を使い過ぎたと見えて、両手を膝について息を荒くしている。見ると額に玉のような汗までかいていた。
「うぜえ」
葉月が意味不明な言葉をつぶやいた。 


自転車に乗ってインベーダーゲームが設置されている喫茶店に向かった。葉月は意外にも「行く」と言ったのでケンジの自転車の後ろに乗せた。 
荷台に横座りする葉月に恵の姿がダブる。よくこうやって二人乗りしたものだった。まだ、たった一年前のことなのに、はるか昔のことのように思える。 
蔵造りが並ぶ通りを走り、蓮馨寺の裏通りに入った。この通り沿いにいつ行っても客がまったくいない、モカと言う古臭い喫茶店があるのだが、なにを思ったか、つい最近インベーダーゲーム機が一台導入されたのだ。 
しかしながら裏通りで人通りもないこともあり、店の窓に「あのインベーダーゲーム導入!」と張り紙をしても、ほとんど告知効果はないらしい。相変わらず店には客もなく、いつ行ってもインベーダーゲームが空いているという、ケンジたちにとって奇跡のような状態が続いている。
ドアベルを鳴らしてドアを押す。店内は薄暗く、カビ臭い。がらくたみたいなシャンデリアが天井からいくつもぶら下がっている。8卓ある4人がけのテーブルには相変わらず客の姿がない。 
店内の最奥に設置されているテーブル型のインベーダーゲーム機に向かう。 
ケンジと清水はインベーダーをはさんで向かい合って座った。ケンジの横に葉月が座る。ソファのクッションがヘタっているので、座るとお尻がぐっと沈み込んだ。
「あんたら、またさぼりかね」 
トレイに水とおしぼりを載せて店のおばちゃんが奥から出て来た。パーマをかけた茶色い短髪に濃い化粧をしたスナックのママみたいなルックスが一見恐ろしげで、最初はビクビクしたが、通っているうちに親しくなった。
「インベーダーゲームで百円玉いっぱい使ってやるから固いこと言うなよ」
清水が軽口を叩く。
「あれ? この子、見たことないね。中学生じゃないの?」 
コップをゲーム機の上に置いたおばさんの目が尖った。さすがにおばさんも、平日の午前中に高校生が喫茶店に入り浸ってタバコを吸うことは許しても、中学生は許せないらしい。
「いや、彼女は高1だよ。いまちょっと休学してんだ」 
ケンジがあわててごまかすと、おばさんは疑わしそうな目をケンジに向けたが、それを無視してアイスコーヒーを注文する。
「あ、俺はレスカね」と清水。
「お嬢さんは?」 
メニューに目を落としていた葉月は、ドギマギした顔をして「あ、レモンスカッシュというの下さい」と言った。
「レモンスカッシュはレスカと略したほうがナウいんだよ、ハーちゃん。あ、オレンジスカッシュはオスカね」 
いきなりハーちゃんかよ。ケンジは心のなかで舌打ちをする。清水は女の子の扱いが上手いわけではないのに、すぐに軽口を叩いて気を引こうとする。 
先月、「ナンパに行こう」と清水に強引に新宿に連れていかれたが、清水の軽口は空回りするばかりで結局ナンパはまったく成功せず、3時間以上路上で無駄な努力をした挙句、グッタリして東上線で帰ってきた。 
それから2人でインベーダーゲームを立て続けに2ゲームやった。葉月はしばらくつまらなそうに眺めていたが、レスカが届くと「チョーしょうもない」とつぶやいて飲み物を持って隣のテーブルに移った。 
相変わらず意味不明だ。しかし、声のトーンからインベーダーゲームをバカにしていることは明らかで、夢中になっているケンジたちまでバカにされたような気がしてカチンとした。
それでも2ゲーム目がゲームオーバーになり、清水がすぐにテーブルに積んでいた百円玉をゲーム機に投入したときは、さすがに葉月に悪くてケンジは遠慮した。
「さっきの父親を探してるって話だけどさ、本当なのか?」 
ケンジは隣の席でレスカを飲みながら、葉月に声をかけた。清水が発射するミサイルの音が絶え間なく聞こえている。
「まあね」
葉月はストローをくわえたままつまらなそうにしている。少しだけ上を向いた小さい鼻が生意気そうだ。
「父親の名前はなんていうの?」
「わかんない」
「わかんないんだ・・・・年齢は?」
「う~ん」
「年も知らないんだ。かわいそう、ハーちゃん」
清水がうつむいてミサイルを打ちながら言う。 
ちょうどそのとき画面右側からUFOが現れ、清水は狙いを定めて撃ち落とした。300点。
「よっしゃ、狙い通り」 
見ているうちにケンジもやりたくなってくるが、当分終わりそうにない。
「母親はいるんだろ?」
「ああ」
「だったら母親に聞けばいいじゃん、父親のこと」 
ケンジが言うと葉月は眉間にしわを寄せて、「それが出来れば苦労しねーよ」と吐き捨てるように言った。
「どういう意味だよ」
「父親のことも昔のことも全然話したがらないんだよ。そしたら自分で探すしかないだろ?」 
口調がまるで男だ。どういう育てられ方をしたらこうなるのか。ケンジも葉月の親の顔が見たくなって来る。
「ハーちゃんってそういや何年生?」
「ハーちゃんって誰だよ?」 
葉月はわかっているはずなのに、とぼけて聞き返す。
「君のことだよ」
清水が画面から一瞬顔を上げる。
「キモい」 
発した言葉の意味はわからないが、顔をしかめたところを見ると少なくとも喜んではいない。
「中3?」
清水はすぐに画面に顔を落として言う。
「まあな。もうすぐ高校だけどな」 
ケンジはあわてて厨房のほうを見たが、奥に引っ込んでしまったのか、おばちゃんの姿はない。
「もうすぐって言ったって、まだ5月だよ。高校行くまで1年近くあるじゃん」 
清水は葉月の顔を見て突っ込む。そのとき、「ドカ~ン」という爆発音がした。清水が画面から目を離したすきにインベーダーから発射されたミサイルが当たったらしい。これでゲームオーバーだ。 
清水はもうゲームを続ける気がないのか、レスカを一口飲んで葉月のほうを向いた。
「あまり言いたくないんでいろいろ聞かないでくれる?」
葉月は機先を制するように言った。
「なにもわからなかったら協力しようがないからさ。じゃあ二つだけ教えてくれよ」 
ケンジが言うと、葉月は「なに?」と首をかしげる。生意気だけど仕草がまだまだ子どもっぽい。
「父親と旭高校はどう関係してるわけ? もしかして旭の先生なのか?」
「う~ん」
「なんでそこで悩むんだよ。訳わかんないな」 
インベーダーが行進する音が始まった。見るといつの間にか清水が4ゲーム目を始めている。呆れたヤツだ。
「旭高校と関係あるらしいんだよ、とにかく」
葉月が面倒臭そうに言う。
「まあいいや。じゃあ、もうひとつ。小林のことはなんなんだよ? 父親と関係あんのか?」
「関係ないっす」
グラスのなかの氷をストローでかき回している。
「あたしの知り合いで付き合ってるのがいるから気になっただけだよ」
「そいつに言っといたほうがいいよ。止めておけって」
「うん、わかった」
ケンジのほうを見て微笑む。 
愛想がないけど笑うと可愛いんだな、とケンジはドキッとした。
「俺をシカトして仲良くしてんなよな」 
ケンジの気持ちを見透かしたように突っ込んできたので、びっくりして清水のほうを見た。しかし清水は相変わらずうつむいて画面をにらんでいた。
「でもまあ、良かったよ。ケンジにこんなかわいい女の子の友だちができて。これでずいぶん元気になるだろ」
「なになに? ケンジ君になんかあった?」 
葉月が清水の話に食いついてくる。ようやく普通の女の子みたいな喋り方になって妙にホッとする。中坊に君付けされるのは納得いかないが。
「これが聞くも涙、語るも涙で・・・・」 
清水が画面に目を向けたまま話を続けようとしたので、ケンジは「いいよ、その話は」と強く言って清水の口を封じた。

 
清水がなんの話をしようとしたのかは分かっている。ケンジは去年の9月から今年の3月まで短期留学していた。留学先は旭高校が提携しているオーストラリアの高校だ。 
留学したのは勉強したいからというより、単純に海外に行ってみたかったからだ。ついでに英語が話せるようになれば言うことはないと思った。 
将来どんな仕事をしたらいいのか。どんな仕事ならできるのか。ケンジはまったく見当がつかない。 
ただ、海外で仕事ができれば、と以前から漠然と思っていた。それで海外留学したいと思ったのだ。 
もともと、「オーストラリアに留学する」と言い出したのは清水だった。清水は親に強く勧められていて一時はその気になっていたが、最終的に「やっぱ、かったるいわ」と言って取りやめた。 
清水から留学の話を聞いてケンジの気持ちも動いた。でも、家にはケンジを留学に出す経済的な余裕などないことはケンジ自身わかっていた。 
それでもあきらめきれなかったケンジは、2年生になる前の春休みに郵便局でバイトをして十万円ばかりの資金をつくり、両親に直談判した。
「十万円は出せる」とケンジが言うと、親父は「ケッ!」と言った。留学にかかる費用総額からしてみれば、十万円なんてはした金に違いない。それでもケンジは自分の努力をバカにされたような気がしてカチンときた。 
そのとき、部屋の隅で成り行きを見守っていたばあちゃんが口を開いた。
「足りない分は私が年金を貯めた分で払うよ」 
親父も母親も「またそうやってケンジを甘やかそうとする」と口をそろえてばあちゃんを非難したが、ばあちゃんは「年金から払う」と頑として譲らなかった。 
最終的には「ばあちゃんの年金を使うわけにはいかない」と、親父がケンジに無利子でお金を貸すという形で決着した。 
で、実際に行ってみてどうだったかと言えば、想像以上に楽しかった。毎日が刺激的で半年はあっという間に過ぎて行った。 
行ってよかったと思う。将来は海外に行くような仕事がしたいという気持ちを強くすることができた。 
でもそれと引き換えにケンジは大切なものを失ってしまった。

「あたし、もう帰る」
葉月が突然立ち上がる。
「なら送ってくよ」
ケンジもつられて立ち上がった。
「いいいい、自分で帰れるから」
葉月は手を振った。
「ハーちゃん、遠慮することないよ。こいつに自転車で送ってもらいなよ」
清水が画面に目を落としたまま言う。
「ぶらぶら歩きながら帰りたいからホントにいい」
「このへん、詳しいのかよ」 
ケンジが問うと葉月は「詳しいような詳しくないような」と訳のわからないことを言って笑った。
「ドカ~ン」という音がした。見ると、清水は自爆してゲームオーバーにしたらしい。さすがに最後くらいちゃんと葉月と話さないとまずいとでも思ったのか。
「ハーちゃん、明日俺たちバンドの練習があるからさ。見に来てよ」
「へえ、バンドなんかやってるんだ。クラブ活動?」
「まあ、いちおう軽音楽部に入ってるけどさ」
「合宿とかある?」
「合宿? そんなかったるいことやんないよ」
「ふーん」
なぜだか葉月は途端に興味をなくしたようだった。
「俺たちがやってるのはパンクだよ。セックス・ピストルズのコピーとか」
清水はそんな葉月の様子を気にすることなく続ける。
「パンク? セックスピストル?」
葉月はチンプンカンプンな顔をしている。
「やっぱり若者は社会に反抗すべきなんだよ。俺たちが学校を遅刻したり早退したり、こうやってさぼって喫茶店でタバコを吸っているのも、すべてはパンクでアナーキストだからなんだ。アナーキー・イン・ザ・カワゴエってな」 
ぼんやり聞いている葉月に早口でまくし立てている。ケンジは清水が女の子にもてない理由がわかった気がした。
「あ、中学生には難しかったかな。とにかく明日見に来てよ。丸広の近くにある栗原楽器ってわかる?」
「栗原楽器なら超知ってる」 
丸広は川越にある唯一のデパートだ。
「そこのスタジオで4時から6時までやってるから」
「行かないかもしれないけど、行けたら行くよ」
「そんな冷たいこと言わないでよ。ハーちゃんが来なかったらドッチラケだよ。ぜひ来てね〜」 
清水はそう言うと手を振った。ケンジもあわてて手を上げる。 
葉月はドアベルを鳴らして出て行った。
「なあ、あの子とどこで知り合ったの?」
清水はマイルドセブンを口にくらえて自慢のジッポライターで火をつけた。
「あの裏山だよ。昨日会ったばかり」
「どこの中学行ってんの?」
「わからないけど、秩父の田舎のほうじゃないかな。なまってるし」
「ちょっと恵ちゃんに似てるよね」
「・・・・言うと思ったわ」
ケンジもセブンスターを取り出して口にくわえる。 
タバコをおいしいと思えるのは一時間に3本が限度だ。それ以上吸ってもまずいだけなのに、喫茶店にいると立て続けに5本も6本も吸ってしまう。 
百円玉を2枚投入してゲームを再開した。まずは清水の攻撃だ。 


ケンジが留学するまで付き合っていたのが恵だ。恵はケンジと同い年で川越市内にある広栄女子高校に通っていた。 
旭高校と広栄女子高校は交流が盛んで、広栄女子高校の生徒が旭高校のサークルに入ったり、逆に旭高の生徒が広栄女子高のサークルに入るということが許されている。 
恵は旭高校の軽音楽部に1年のときから所属していて、ケンジとディープ・パープルのコピーバンドをやっていた。恵はキーボードだ。 
つき合い出したのは1年の春休みだった。一緒に鎌倉まで遊びに行ったり、東京に映画を観に行ったりした。 
ケンジは正直、すごく恵のことが好きだった。恥ずかしい話だけど、好きすぎてデートしていても緊張してうまく話ができなかった。
映画を観た後も、その後どこに行っていいかわからず、渋谷から原宿まで無駄に歩かせたりした。 
だからケンジは一緒にいても全然面白くない男だったと思う。それでも恵は一緒にいてくれた。半年間留学することも恵の後押しがなければ、気が小さいケンジは実行することができなかったと思う。 
恵は待っていると言ってくれたのに。
「あ〜あ、なんかかったるいな」
清水の攻撃をぼんやり眺めながら、つい口をつく。
「なんか、面白いことねえかな」
清水もミサイルを撃ちながら言う。
「かったるい」と「面白いことないかな」がケンジたちの口癖だった。

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