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図書館に足が向く理由はなんだろう。

 気分の波が安定しない時、家にいても落ち着かないときは、図書館に行くことにしている。 

 なぜ図書館に足が向くのか。

 一つは、しずかなこと。私の場合、不調の時は特に「音」に敏感で、風とか鳥の声とか、「ゆらぎ」のある自然の音は大丈夫なんだけど、人工的な音はとにかくだめ。テレビや掃除機の音は、とにかくそこから逃げたくなっちゃう。だから、比較的しずかで、多くの人が本と自分の世界に没頭している図書館は、オアシスのよう。

 もう一つは、探していた答え以上のものに出会える可能性があるから。不思議に思ったこと、知りたいと思ったことは、疑問フィールドに挙げておくと、必ず答えがやってくるもので(いつ、どこからやってくるかはわからないけどね)、本はそれに答えてくれる確率が結構高い。本というか、著者が答えてくれていて、それは100%自分にぴったりくるとは限らないけれど、馴染む場合もあるし、新たな発見もある。著者の経歴や、著者の他の本から背景を感じ取り、なるほどぁって、パズルのピースがハマるような快感を感じることもある。

 そんな風に自分では思っていたけれど、坂口恭平さんの本を読んで、気づきがあった。

 図書館には、無作為にすべての情報が等価に存在している。だから自分の考え、態度が生きてくる。自分なりの選択が重要になってくる。

 この時、僕は図書館で建築雑誌を片っ端から読んだ。この無作為の羅列がとても重要である。これは自分の態度しかきっかけにならない。態度は「裸の情報」と接することができる。

 それで全部見たけど全部つまらなかった。もう一度みなおしたら、ひとり面白そうな人を見つけた。そのひとは石山修武という人で、すごい建築物を作っていた。学校社会レイヤーからではない情報。そこに自分独自のレイヤーへの道がある。

「独立国家のつくり方」坂口恭平 P.124


 なるほど、『等価に存在』、ここが大切だったのか。言語化することができていなかった重要なポイントだった。例外なく人は、みたいものだけをみる、という風にできていて、それはコンディションに関わらずそうなんだけど、本は意識と無意識の集合体なので、安心して、身を委ねて、接することができる。違和感があれば読まなくていいし、おやっと思う本が見つかったらしめたもの。わたしなりの言葉にするなら、『自分だけのセンサーをみががく』っていうことなんだと思う。本だから、ブレない著者との対話の中で、『自分のセンサー』が光ったり、消えたりしながら、その精度を上げていくことができる。安心して、アンテナを広げられる、等価の海に、飛び込むことができる。自由を感じられる。この世は相対世界だから、どうしても何かと比較しないと、自分がわからなかったりする。競争とか、お金とか、そういったことからも隔絶された世界で羽を広げられる貴重なオアシス。図書館、いつもありがとうございます。