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私の中の5歳の女の子へ

私は私のいちばんのサポーターだった?

この記事を思い出して読んでみたら、すごくほっこりした。

どれだけ自分を応援できていたかな。
どれだけ背中を押せていたかな。
どれだけ一緒に楽しめていたかな。
どれだけ芽を摘まず自由にやらせてあげていたかな。
どれだけ見守ることができていたかな。



まず箱を準備してしまう。そしてそこに当てはまりに行こうとしてしまう。

それは、人との関係性や役割、立ち位置、常識…箱は、私を不自由にする。力を失わせる。

どれも全部必要なくて、本当はもともと自由なのに、どこかからわざわざ箱を持ってきているのは、私自身だ。


その様子をイメージすると、大人の顔色を窺って『こうしたら正解?喜んでもらえる?許してもらえる?褒めてもらえる?これがあの人のイメージしているもの?』って頑張っている幼い子どもなんだ。

5歳〜7歳くらいかなぁ。

なんかその様子を見ていると心が痛む…『いいよ〜そんな風に大人に合わせなくても。あなたはどれが好き?あなたのやりたいこと、欲しいものが知りたいな。できる限りなんでもやらせてあげたいし、自由にのびのび楽しそうなあなたを見守ってあげたいよ。』って思う。


『わぁ!楽しそう!』
『こんな風に思ったよ』
『これが好き!』
『こうするといい感じ』
『あっちに行ってみたい!』

ってお花が咲くみたいに笑う自分の芽を摘んでいるのは、萎ませているのは、私自身なんだよね。

だからね、他者から正解をもらう必要はないし、何者であるかなんて考える必要もないし、後押しも究極いらない。

全部私自身でできること。私が私にそれをしてあげることに意味があって、私の中の5歳の女の子は私という親にそうして欲しいと望んでいるのだから。


さっき紹介した記事で出てきた友人は…
私が初めて出会った(ように感じた)【私の中の5歳の女の子を全肯定しようとしてくれた大人】だったんだろうね。

私の中の大人である私が、そういう人になるんだ。たくさん抱きしめて、やりたいことを応援して、笑顔でいさせてあげよう。


なんだろう…対5歳児にしてはずいぶん冷たい親をやってしまっていたと思う。

クオリティの話をしすぎたり、きちんと・ちゃんとって言葉を使いすぎたり、大人の尺度でできていない部分をみつけてアレコレ言っていた。

言っていることは間違っていないし、成長として導きが必要ってことはあるかもしれないけど…5歳児にすることではないよね。

きっとそのやり方は私に合っていないよ。ずっとそうしてきて苦しかったのだから。5歳の天真爛漫な女の子の笑顔を守ることだけ考えていればいい。

その子は理解し、応援し、見守り、困っている時や本当に危ない時だけ手を差し伸べれば、勝手に遊ぶし勝手に経験を積んでいく。

冷静でいるよりも、面白がろう!大人の事情なんて知らない!ポイっと放り投げて、あなたが心ゆくまでこの人生を一緒に遊ぶからね。もう寂しくないよ。もう悲しくないよ。もうひとりぼっちじゃないよ。


あなたがこちらを振り向いた時、満開の笑顔が見られるように。


hiromi.

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