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ぼくものがたり(戦後80年にむけて)⑧建物疎開・真っ赤っか

《 建物疎開 》

 1944年(昭和19年)年、東京都は年明けから建物疎開って言って、建物を疎開することを決めた。疎開と言っても田舎に避難すると言う意味ではないんだ。疎開ってのは被害を少なくするため、集中している人や建物をいろいろなところへ分散すること。
 でも、建物は移動できないから、密集していているところは強制的に空地を作らせることにした。つまり、問答無用で家をぶっ壊したんだ。

 火事になった時の延焼を防ぐため。その空き地で火をくい止めるためって、阿佐ヶ谷駅を中心に東西南北に十字の太い線をひかれて、その区域に引っかかった家は全て取り壊すとした。
 屋根のヒサシが出ただけでも取り壊す決まりになっていて「一週間以内に出ていけ」とわずかなお金を渡された。そのお金も引っ越し代に消えたって。移動手段もないから人や馬の人件費がかかって。
 戦争前、お袋と一緒に買い物に行っていた駅前のお店も軒並み壊されて、ずーっと一本道の空き地ができた。のちにこれが青梅街道から早稲田通りに続く広い道、けやき通りになる。

 こんなふうにして、爆弾で燃えたわけでもないのに家を失う人もたくさんいた。こんなことまでしても日本は降参しなかったんだ。

《 真っ赤っか 》

 1944年(昭和20年)3月10日、下町で大きな空襲があってたくさんの人が死んだ。東京大空襲だ。
 真夜中に空襲警報があって、防空壕にみんなで寒いなか隠れていた。数時間たって警報が解除されて外を見たら、ケヤキ越しの空がものすごく明るくて驚いた。東なのに夕焼けみたいに空全体がオレンジ色で不思議に思ったし、きれいだなとも思った。

 僕の家の離れに住んでいた国吉おじさんが、屋根の上に登って東の空を見ていた。僕が下から見上げると、
「功ちゃんも登るかい?」
と言って、屋根に上らせてくれた。
 そこから見る空を見てまた驚いた。東の空いちめんがものすごい真っ赤だったんだ。とにかく、ずーっと地平線いっぱいに、空の高ーいところまで、本当に目の前が全部真っ赤になっていた。すごく明るくて、熱さが伝わってくるように感じた。
 下町の方が大きな空襲に襲われているようだと教えてくれた。下町が燃えている炎で東の空が真っ赤っかだった。
 翌日は風が強かったから阿佐ヶ谷にも煙がとどいて、空が灰色だった。   
 
 3月10日、夜中の12時過ぎ、B29が超低空飛行で300機も飛んできて、2時間にわたって雨のように焼夷弾を落とした。10万人もの人が死んで、100万人もの人が家を失った。
 その明かり、今でも鮮明に覚えている。
 真っ赤っか。

                             つづく 
                    次回、 学童疎開はじまる


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