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ぼくものがたり(戦後80年にむけて)⑫中岡さんの警告

《 中岡さんの警告 》


 疎開から3カ月近くが経った7月下旬、鹿教湯温泉に近所の中岡さんが、4年生のカヨコちゃんと6年生のカズマちゃんの面会に来た。二人は上級生だったので、ご飯はそんなに減らされていなかったから元気だった。その時に、
「ついでに横山さんとこの功ちゃんにも会っておこう」と、わざわざ僕の宿舎まで会いに来てくれた。
 そして、あまりにも痩せちゃって、骨と皮だけになっていた僕の変わり様をみてすごく驚いた。はじめて見た時は僕だと分からなくて、
「あなた功ちゃんなの…? 大変だ…」
 って。僕を見てこれじゃすぐ死んじゃうと思った。それから急いで阿佐ヶ谷に帰って親父のところへ行って、
「功さんが大変です。とにかく長野へ行きなさい!すぐに行きなさい!」
と、見てきたことを話した。

 しかし、すぐに行きなさいと言われても、親父は警防団として町を守る仕事もしなきゃいけないし、東京大空襲のあった下町は10万人が死に、5月にも山の手大空襲と続き、多くの死者や被害が出たから、その死体処理やガレキ撤去の仕事もまだ残っていたんだ。なので、
「今は行けない」と、親父が言ったら、
「何を言っているんですかー! 功さんがどうなってもいいんですかー! すぐにいきなさい! 今すぐにいきなさい!」
と、猛烈に怒った。中岡さんは女学校で先生をしていて、長刀の師範でもあったから、とにかく気合がもの凄かった。

 親父は、
「そんな酷いことになっているものなのか?」と半信半疑だった。
「行くにも切符を取らなくてはしょうがないし」
 汽車の切符を取ることはめったやたらにできる事ではなかった。駅に行ったら、
「切符? ありません、ありません」
と、けんもほろろに断られた。切符を買いたい人がたくさんいすぎて、発券を止められていた。中岡さんに事情を説明したら、
「そんなこと言ってる場合じゃないでしょ! とにかく行きなさい! 行きなさい!」
と、もの凄い剣幕。親父は知恵をしぼって考えて、小学校の時の友達に国鉄(いまのJR)に勤めてた人がいたのを思い出した。

 ちなみにこの時点で、親父はこのことをお袋には言わないでいた。お袋は心臓が弱かったので、僕が死にそうだなんて話を聞いたら、ショックでお袋が先に死んでしまうかもしれないと考えていた。

 その国鉄の友達は阿佐ヶ谷の北の方に住んでいるとわかり、事情を話して拝み倒して、無理を言って、なんとか切符を取ってくれるようにとお願いをした。すると、必死になって頼んだのがやっと通じて、
「じゃぁ、なんとかする」と言う事で、数日後に切符を手に入れてもらえた。
 親父はお袋には何事も無いように「たまには功に面会にいってくる」とだけ伝えて、鹿教湯温泉へと向かった。
        
                            つづく
                          次回、疎開脱出
 

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