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ぼくものがたり(戦後80年にむけて)⑭療養中・降参しない日本・終戦

《 療養中 》

 疎開から帰ってこられた僕は栄養失調でぐったりしちゃって、動けなくなっていた。「とにかく痩せちゃってるから、いっぱい食べさせなきゃ」と親父は言ったけれど、お袋は、
「いきなりいっぱい食べさせたら、体が驚いて、それこそ死んでしまう」と言って、少しずつ少しずつ小まめに食べさせた。

 出来るだけ栄養があって消化のいいものを食べさせようと、当時は貴重だったお米をお粥にして食べさせた。牛乳があればいいと思ったけれど、当時は店に行っても売ってる物がなく牛乳なんて手に入らなかった。すると親父が、成宗って青梅街道の先のところにヤギを飼っている人がいると、人づてに聞いて、「お願いすれば分けてくれるかもしれない」とさっそく行ってみた。タダではなく、物を持っていって交換してもらった。
 うちは百姓やってたから少しは野菜があったので、それを持って行ってヤギの乳をもらって、やっと僕に飲ませることが出来た。僕は両親の顔を見て安心して、しばらく畳に寝てゴロゴロしていた。その時の僕の腕は、2歳の弟の腕よりも細くなっていた。疎開に行く前は丸々と太った腕だったのに、たった3か月でそこまで痩せてしまった。
 親父とお袋の看病もあったし子供なので回復は早く、1週間もしたら歩けるようになった。
  これも中岡さんのおかげだとお礼をした。中岡さんが親父にあれだけ強く言ってくれたから、遠い疎開先まで見に行くことを決めたんだ。もしあれがなかったら、
「功は死んで帰ってきてたろう」
と、親父は話していた。
 疎開では何人もの生徒が栄養失調で亡くなった。戦後、かなりあとでわかった。

《 降参しない日本 》

 僕が帰ってきた1945年(昭和20年)8月4日は終戦10日前。空の上はバリバリとものすごかった。B29や戦闘機マスタングが編隊を組んで上空を通り過ぎて、それを見つけた日本軍が高射砲を打っていた。夜になるとその爆音がさらに轟音に感じた。

 阿佐ヶ谷が一番ひどい空襲を受けたのは5月24、25日にかけての「山の手大空襲」。渋谷とか品川、中野、杉並など多くの地域でひどい空襲を受けた。下町大空襲と同じく何百機のB29が雨のように何千トンもの焼夷弾を落としたんだ。この空襲で多くの小学校も被害をうけた。杉七は半分が燃えてしまった。
 阿佐ヶ谷の空襲は、疎開に行っていたので経験はしていないけれど、お袋は「生きた心地がしなかった。思い出したくない」と言っていた。
 僕の家のすぐ近くまで焼けた。もう少し長く戦争が続いていたら、この辺もみんな燃やされていただろう。
 阿佐ヶ谷なんて、東京のはずれで田舎だったんだ。こんな田舎にまで攻撃が来るなんて、もう日本はおしまいだったんだ。日本軍の飛行機の何杯も大きくて高性能なB29の出現で、日本中が燃やされることになるって分かっていたことなんだ。でも日本軍は戦争をやめようとはしなかった。 
 
 周りでは戦争を早くやめた方がいいと言う意見はたくさんあったけれど、そんな話をした人はみんな軍にやられた。
 阿佐ヶ谷の先にも偉い人が住んでいて、
「こんなひどい戦争は早くやめた方がいい」と言ったら、大ぜいの軍隊が馬に乗ってやってきて、ボンボンと鉄砲を撃ってみんな殺しちゃった。そういう善人の人が先に殺されていた。 
 色々な人の意見を聞いて、もっと早く戦争をやめていれば、こんなに多くの犠牲を払わなくても良かったのに。日本軍は是が非でも戦争を続けたんだ。

《 終戦 》

 そして、8月6日に広島、8月9日に長崎に原爆が落とされた。
 7日には最後まで一緒に戦っていたドイツが無条件降伏。8日にはソ連(ロシア)が日本に宣戦布告し攻撃を開始した。大空襲も、東京、阪神、近畿、東北、九州と各地で相次いで。阿佐ヶ谷でも8月14日まで警報が鳴り続いた。日本は最後の最後まで、ボロボロになるまで戦争を続けてしまった。
 8月15日から、急に静かになった。お昼に重大放送があるから聞くようにと言われて、家族と集まった近所の人たちと正座をしてラジオの前で待っていた。放送が始まって静かに聞いていたけれど、僕には何を言っているかはわからなかった。お袋に聞いたら、
「戦争は終わったよ」 
って、教えられた。
 多くの爪痕だけを残して、戦争は終わった。

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