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短編小説 乗れば必ず恋愛成就する! 『ラブタクシー丸❤28号』

 契約社員としての仕事は、正社員と実質的には何も異ならない。週5日の出勤。出社する時刻も退社する時刻も、正社員と異ならない。お得意様からの問い合わせ電話に、休日対応する点も正社員と同じである。

 電子機器の製造会社で契約社員として勤めるサトミは、30代半ば。小学生の息子1人を持つシングルマザーだ。

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 この1年半ほどは営業事務という職種でありながら、会社の売上に大きく貢献してきた。しかし念願であった正社員となる話が先月、流れてしまった。

 昨年に受けた会社からの説明では、正社員になれば1年契約でなくなる事の他に、ボーナス支給などで労働条件がかなり良くなる筈だったのに。

 「もう一度 会社を説得するが。とりあえずもう1年、契約社員のままで頑張ってほしい。」上司から説明を受けた時は、クラクラと目眩がした。

 落ち着いた景気の状況でも正社員になる壁は高い。これに突発的な事態が起こり不況が重なれば、更に壁は高くなる。〈正社員になれるなら少しでも早いうちに〉そんな思いでいたのだが、その夢が破れたのだ。

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 働く条件は良くならず、仕事量は増えるばかり。この1ヶ月は気分が塞いで愚痴や弱音をこぼしそうになった。だが仕事は仕事。ずっと落ち込んでいる訳にもいない。

《もう一度だけ頑張ってみよう》

 そんな思いで先週からは気持ちを切り替えて、仕事に取り組んでいる。

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 その日も出社直後から、慌ただしく書類の作成業務を行っていた。日中に重要な書類を修正し、夕方から仕上がったものを1人で得意先へ届けに行ったのだ。先日に上司が進めた商談。それに関する補足説明をして、取引先のオフィスを出たのは午後7時である。

 こうした 残業がある日は、1人息子の事が気になるところだが。いつも近所に住む妹夫婦が息子を預かってくれるので助かっている。

 早く帰りたい。この日は、出先からのタクシーでの直帰を会社から許されていた。タクシーに乗る前に、妹に到着する予定時刻をラインで伝える。すると3分も経たないうちに簡潔なラインが返って来た。

《了解。夕飯 ケンちゃん完食》

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 「日暮れ通りの緑橋の東側。ヤシの実ドラッグまでお願い」

 行先は妹の家のすぐ近くのドラッグストアだ。

「はい。承知しました。御乗車、ありがとうございます」

 50歳くらいの小太りの運転手が愛想良く応える。会社としての決まりなのだろう、メーターをオンして直ぐに言葉を続けた。

「わたくし、この〈ラブタクシー丸 28号〉の運転手を務めます、サセツザキ ミギユキ (左折先 右行)と申します。安全運転に努め、お客様を無事に目的地までお送りしますので。どうぞ ご安心ください。」

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 ずいぶんと丁寧な接客態度である。サトミは 運転手の誠実そうな声とルームミラーに見えた柔和な表情に親しみを感じた。珍しくもタクシーに名前が付いていて、それが《ラブ タクシー丸28号》という緩いものだったので 気が和んだ。

 よくあるではないか。なかなか捕まえられず、やっと乗れたタクシーなのに 運転手が無愛想だったり言葉遣いが汚かったりでガッカリするケースが。

 しかし今回の運転手であれば問題はない。おおよそ30分の道程、リラックスして過ごせそうである。

 《ここは人の良さそうな運転手と、軽い雑談をして気分を和らげよう》息子に会うまでに、仕事モードから穏やかな家庭モードに切り替えたい思いも有った。

 サトミは 運転手との雑談のキッカケを探した。しかしそれを見つけるのに時間は要らなかった。すぐ目の前に雑談のネタが ぶら下がっていたからだ。

 「運転手さん、ずいぶん可愛らしいピアスをされてるのね。それは奥様からのプレゼントか何か?」

 「いえ、これは自分で選んだモノです。実は、仕事道具でもあるのです。お客様に喜んでいただけるように購入しました。」

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 近頃 ピアスを着ける男性は増えてきた。乙女が好むようなキラキラしたデザインのものを着けている若い男性も多い。だが、ハートマークのピアスを着けているタクシードライバーに出くわした経験がサトミには無かった。

「確かに運転手さん、そのピアスを見ればお客さんの気持ちは和むでしょうね。フフッ!私も今、肩の力が抜けたように感じたわ」

「お客様ありがとうございます。そう仰言っていただけると嬉しいです。リラックスしていただくのが1番ですから。そして実は...」

〈キーッ!〉

 会話の途中で 隣りの車線から大型車の荒い割り込みが入りかけた。急なブレーキになり即座にクラクションを鳴らしたサセツザキ。彼は卓越した運転技術を持っていて、20年間 無事故・無違反の優良ドライバーである。

 しかし... 急ブレーキを踏んだ後に鳴ったのは、彼のキャリアを疑いたくなるようなクラクション音だった。

《パミュ! パミュ!》

 荒い割り込み運転をした若い茶髪ドライバーも、近くの通行人も キョトンとした顔でこちらを見ている。こんなクラクション音を聞くのは初めてである。これでは危険を知らすことが出来ず、緊張感の欠片も無い。

 だが乱暴な割り込みをしたトラック運転手は、笑って手を上げながら割り込むのを止めてくれた。

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 「お客様、すみません。急なブレーキになってしまいました」

「運転手さん、私は大丈夫よ。でも変わったクラクションの音なんですね。《パミュ》なんてクラクション音は初めて聞いたわ。」

「長年、わたくしが個人的に研究した結果、この音が最も相手に安全運転を促しやすいと分かったんです。有名女性アーティストの名前も参考にして 改良したんです」

 サトミは、クラクション音にまで気を配る仕事熱心なサセツザキの姿勢に胸を打たれて「私も見習わなきゃ」 と小さく つぶやいた。

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 独特のクラクションを鳴らして危険を避けた後、運転手サセツザキは サトミに不思議なことを話し始めた。

 「まだまだ勉強不足で未熟な運転手のわたくしなのですが。唯一、自慢できる事も有りましてね。実はこのラブリータクシー丸は、乗っていただいたお客様の恋愛運が上がると評判でして。〈恋人が見つかりました〉と今日も会社のホームページの方に御報告を3件もいただいたんですよ。」

「タクシーで、恋愛運が上がる?」

 サトミは、驚いて子供のような大きな声を出してしまった。軽い雑談をして気分を解せたら良いとは思っていたが。まさか恋愛をネタにタクシー運転手が話し始めるとは思わなかったのだ。

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「運転手さんって面白いわね。いつもそうやって冗談を言ってお客さんを楽しませてるのね。まさか恋愛ネタで話を切り出されるとは思わなかったわ」

「いえ、冗談ではありませんよ。本当に恋人が見つかるんですから。SNSってヤツ、有りますでしょ?それでラブタクシー丸の恋愛運アップの噂が昨年の夏くらいから広まって 今では予約が殺到です。

 今夜は たまたまキャンセルが入ったので、こうしてお客様に御利用いただけましたが。通常であれば予約外での御利用は有りませんからね。」

 恋愛運アップの観光スポットが存在することは知っている。テレビや雑誌で そういった企画を組んで当たれば若い女性が殺到するらしい。神社でも一般的な厄除開運にプラスして 恋愛運アップの案内を置いてるのを見た事がある。恋愛運アップという言葉には、強い集客力があるのだろう。

 だが客の恋愛運UPをアピールするタクシーなんて聞いた事が無い。 占い師や雑貨店なら、そういった宣伝文句で客が集まり繁盛するのかも知れないが。タクシーに乗る目的は移動である。恋愛運をアップを目的に、タクシーに乗る者などいないだろう。

 人の良さそうな運転手ではあるけれど適当にデタラメを言うタイプなのかも知れない。

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 【恋愛運】というワードを耳にして、サトミには少し話題を変えたい思いもあった。窓の外を見る。今は恋愛感情や男女関係とは無縁の暮らしをしている身である。

 離婚してから3年が経つ。正直、暮らしは楽ではない。色恋に浮かれてる余裕など無い。日本はまだまだ男社会であるから《とにかく男性に負けないくらい仕事の成果を出さなければ》と この3年間を頑張って来た。

 窓の外から車内に視線を戻す。《恋って どんな感覚だったかな?》ふとそんな思いが浮かんでしまい、サトミは急に不安に包まれた。まだ30代半ば。恋を忘れてはいけない年齢である。

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 恋する状態にはないが、恋話を聞く事は可能だ。《良い機会なのかも知れない。陽気に恋について運転手と雑談するのも悪くはないし。恋に夢中だった若き日を思い出す事で気分をリフレッシュ出来るかも》

 元・夫との思い出は 固く封印している。サトミは、それよりずっと前の淡い恋を思い出そうとした。

 高校時代。休み時間に友達と交わした話の半分以上は、恋話であった。《そう、あの頃はサッカー部のS君に恋してたんだわ。誕生日とバレンタインにプレゼントを渡したのよ》両想いにはなれなかったけどドキドキ ワクワクの日々が有った。

 自分にも恋心はある。こんな当たり前過ぎる感覚を、まさかタクシーの中で思い出すとは... さとみは苦笑いに似た表情で運転手に問いかけた。

「運転手さん、いつもお客さんと恋話をされるんですか?相談を受けたりとか?」

「いいえ、私は恋の話なんてしませんよ。経験不足ですからね。若い頃からモテませんから。恋愛相談なんて こちらがしたいくらいです」

 信号待ちで。笑いながらサセツザキは答えた。

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 サセツザキの方から 客に向かって恋話を振るわけで無いらしい。

 「本当にお客さんの恋愛運がアップする話が有るの?」

 「はい。本当です。この半年間は当タクシーをご利用のお客様にアンケートをお願いしてましてね。会社のホームページのお問い合わせフォームに、御利用後の恋愛状況を入力して頂いてるんですよ。」

 声を出して驚くサトミ

「嘘っ?そこまで恋愛運のサービスに会社が力を入れてるんですか?」

「はい、そうなんです。今は恋愛運をアップさせるためのグッズ製作も進めてるようです」

 そして事業としての恋愛運サービスについて、長い信号待ちの時間を使ってサセツザキは説明をした。8号線と環状線の交差点。信号待ちの時間は2分近くある。

 「私がお話をして お客様の恋愛作動スイッチを押すんですよ」

  聞き慣れ無い事を言われて、サトミの目はクエスチョン マークになった。

「恋愛作動スイッチ?」

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 サセツザキの説明では、人の心には〈恋愛作動スイッチ〉なるものが有る。そのスイッチがONになるような話を こちらがしてあげれば相手は恋をしたくなり、結果 恋が成就すると言うのだ。

 たとえ好きな人がいない状態からでも。必ず恋を成就する事が出来るらしい。

 《恋をしたくなる話って何だろう?》

 掴み所のない感覚。サセツザキとラブリータクシー丸が持つ不思議な〈雰囲気〉に サトミは翻弄されていた。

《でも なんだか面白そう。今 恋をしたい訳では無いけれど。もし本当に恋をしたくなるような話が有るのなら、聞かせて貰おう》

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 《その恋愛運アップの話を聞かせて》と率直には言い難い。しばらくタクシー内に沈黙があった。そしてトンネルに入る直前、また妹からラインが入った。

〈お客様あり。ビール買って〉

 タクシーが到着してからの予定を頭の中で組み立てる。妹宅に来客が有るのなら長居は出来ない。息子を連れて帰り、自身の食事はインスタントか何かで済ませよう。

 ラブリータクシー丸は、トンネルを出た。サトミの意識はサセツザキの話に戻る。人の心にある〈恋愛作動スイッチ〉、それをONにする話とは 一体どんな内容だろう?恋がしたくなる話なのだから 明るい内容である事は間違いない。

 「運転手さん、恋愛作動スイッチに恋愛成就。なんだか面白そうね。もうすぐ家だけど、短時間でも話せる?」

 もちろん話せます。そう言って、サセツザキは少し表情を強張らせた。それはまるで この話をすることが運転手としてのメイン業務であるかのような表情だった。

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 サセツザキが話し始めたのは恋とは無関係に思われる内容で、むしろ全体としては重たいものだった。

「いえ、大した話ではないんです。料理の話なんです。」

「えっ?料理? あっ、オススメのレストランなんかを乗客に教えるのね。タクシーの運転手さんって、そういうお店の情報をたくさん知ってるのよね」

「いえ、違います。私の祖母の料理の話なんですよ。もう今は この世には居ないのですが。私は子供の頃から、祖母に可愛がられましてね」

 車体が古いので大きなエンジン音を立てながら、ラブタクシー丸 28号は、急な勾配の高台を登っている。頂点に達する手前で、北に妹宅の近くに立つ高圧電気鉄塔が見えた。あと10分もすれば到着だ。

 「子供の頃、弟を連れて祖母宅に遊びに行くと 肉ジャガをよく食べさせてくれたんですよ。特別な食材が入ってる訳でもなく、高価な調味料を使ってる訳でもない。でも とても美味しかったですね。〈元祖、おふくろの味〉って感じで。

 その肉ジャガを孫の私たちと祖母でよく食べたんです。育ち盛りの男の子でしょ?そりゃ、中学生くらいだと驚くほどの量を食べる訳ですよ。その姿を見て祖母はいつもニコニコと笑ってくれました」

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《高橋君 来てる。ツマミ買って》

 妹からラインが入った。《高橋君》とは妹の職場の同僚のことだ。以前に2度、妹の家で一緒に食事をした事がある。サトミとは映画や音楽の好みが合った。真面目でシャイな青年だが いわゆる聞き上手なのだ。来客者が高橋なら、多少は気を遣うが妹宅で自分も食事を済ませられる。

 サトミは、サセツザキの話に意識を戻した。一体、サセツザキの祖母が作った肉ジャガに、何の意味が有るのだろう?祖母と孫の思い出話なら、恋話とは結びつかないではないか。

 《ツマミ 了解》

 短めにラインを返して サトミはサセツザキに話の続きを促した。

 「お料理上手のお祖母様だったんですね。楽しい思い出をお持ちで羨ましいわ。それで?お祖母様が恋について何か教えてくださったの?」

「いえ、恋について祖母が教えてくれた訳ではありません。いろんな事をいつも優しく話してくれましたが。恋の話をした事は有りませんね」

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 「祖母は肉ジャガ以外のものも いろいろ食べさせてくれました。でも最も機会が多かったのは、やっぱり肉ジャガで。3回に1回くらいのペースでした。これって多過ぎるでしょう?それで私は成人してから祖母に尋ねたんですよ。

“お祖母ちゃんは僕たちに いつも肉ジャガを食べさせてくれたよね。どうして いつも肉ジャガだったの?” 

 それまでにも同じように尋ねた事はあったのですが。いつも、はぐらかされる感じでした。でもその日、初めて祖母の肉ジャガへの思いを聞くことが出来たんです」

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「祖母が話してくれたのは、亡き祖父との思い出でした。祖父は真面目で物静かな人だったそうです。着物の帯を作る家業を継ぐ長男。問屋の娘である祖母と お見合い結婚をしたのです。

 祖父は家庭でも静かな人だったそうですが。幼い我が子(私の母や叔父)のことを溺愛して、昔の男性にしては珍しく家事や育児に協力的だったそうです。」

「へえ〜 とても優しいお祖父様だったのね。素敵だわ。お祖母様、とても幸せだったんですね」

「商売も順調。家庭も優しい妻と1男1女の子供に恵まれたので、とても幸せだったでしょうね。

 でも残念な事に戦争が始まってしまったのです。2人目の子を産んだ頃くらいから雲行きがどんどん怪しくなってきたそうです。

 貧乏と飢えが庶民の暮らしに襲いかかる。最後は召集令状です。ご存知ですかね?赤紙ってヤツが届いて、祖父は28歳で戦場へ赴く訳です。そして...」

 サセツザキの声のトーンから、サトミは言葉の続きを読み取った。サセツザキの祖父は若くして、妻と幼い2人の子供を遺して亡くなったのだ。

 ラブタクシー丸28号の〈28〉は、祖父の享年を表しているのだろう。

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 車内の空気が重くなることを避けるために、サセツザキは出来るだけ張りの有る声で話を続けた。

 「戦争は残酷ですね。戦争からは悲しみしか生まれない。ですがその後の祖母は、悲しんでる暇も無いほど慌ただしく過ごしたそうです。未亡人となったので幼い子供2人を育てなければなりませんからね。

 祖母は大正生まれの強い女性なので 私にも愚痴を言わず、ただ “慌ただしく働いた”とだけ教えてくれました」

 家族を日本に残して戦死したサセツザキの祖父。そして若くして未亡人となり、懸命に我が子を育て上げた祖母。さとみは胸を締め付けられる思いで話を聞いていた。

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「それで料理の話に戻るわけですが。祖母が言うには、自分が作る料理を祖父はすべて美味しい、美味しいと言って食べてくれたそうです。そんな中でも特に喜んで食べてくれたのが、肉ジャガだったのですね。

 戦時中は食材が思うように手に入りませんから。《肉ジャガ風の煮込み料理》だったようですが。とにかく祖父は喜んでそれを食べたそうです。

 鶏肉がほんの少しのジャガイモがゴロゴロと目立つ煮込み料理。まだ2人の子供は幼かったので、その味を理解は出来なかったけれど。《この子たちがスクスクと育つように、戦争が終わったら肉や野菜がたくさん入った美味しい料理を作ってやってほしい》こう言って祖父は戦地に赴いたのです。

 祖母は、この祖父の言葉を子育て中はもちろん、子育てが終わってからも守って。僕たち孫が成人するまで肉ジャガを食べさせてくれたのです」

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 車内に サトミの泣く声だけが聴こえた。

 愛する女性と家庭を築き、子供にも恵まれた28歳の青年。サセツザキの祖父は、どれだけ辛かったであろうか。どれだけ妻や我が子と 食卓を囲み一緒に過ごしたかったであろうか。そう思うと、さとみは涙が堪えられなくなったのである。

 自分が当たり前の光景として目にする我が子の成長する姿。その当たり前をサセツザキの祖父は、見られなかったのだ。悲し過ぎるではないか...

 1つ咳払いをしてからサセツザキは言った。

「祖母は我が子にも、そして孫にも たくさんの手料理を食べさせてくれました。立派に育て上げてくれました。そして一昨年の夏に、最期は老衰のため逝きました。」

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 もうすぐ目的地に着く。最後の信号で停まった時に、サセツザキは笑って 祖母の話の最後を結ぼうとした。さとみは相槌を打てないままでいたが、話を細部まで聞き逃してはならないという思いで聴いていた。

「亡き祖父との思い出を祖母が話してくれた時に、私は初めて祖母の強い口調を聞いたんですよ。初めて祖母の厳しい表情を見たんです。それはこういった言葉を発した時でした。

“もしもあなたに、妻や子供といった心から愛する人が出来たなら。共に過ごせる時間を何よりも大切にしなさい”

 その言葉を私は祖母の口から直接 聴いたのですが。既に高齢になっていた祖母の言葉にしては、余りにも力強く感じたのです。それはまるで天国の祖父と声を合わせて伝えてくれているかのようでした」

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 ラブタクシー丸28号は、目的地に着いた。妹の家の近くのドラッグストア前。涙をハンカチで拭きながら料金を払おうとしたサトミに向かって、サセツザキはこう伝えた。

 「当タクシーの料金は無料となっております。もしもサービスにご満足いただけたようでしたら、次の2点だけ御協力くだされば結構です。

 お伝えしました祖母の肉ジャガのエピソードをしばらく胸の内に留めておいてください。そして、もし新たな恋が始まり明るい気持ちになれた時が来たら、当社ホームページのお問い合わせフォームにその旨をお伝えください。

 本日の御利用、誠にありがとうございました」

 その最後の説明を聞いた瞬間、既にサトミの体は車の外にあった。そしてラブタクシー丸 28号のドアはバタンッと閉じられて、ハザードランプが点滅、

《パミュ!》

 クラクション音を1つだけ残して、サセツザキは去って行った。

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〈お帰りなさい。姉さん入ってよ。ケンちゃんも高橋さんも待ってるわ〉

 インターホン越しに妹の声が聴こえた。ドラッグストアに寄って化粧を直していたために少し余分に待たせてしまったのだ。

 つい先程のサセツザキの祖母の話やラブタクシー丸のことを妹たちに話したとしても、聞き入れてくれる筈が無い。体験した自分自身がどう受け止めて良いのか分からずにいるのだから、伝えようも無い。

 《この不思議な体験は、気持ちが落ち着くまで自分の胸の中で眠らせておくことにしよう》そう決めて、サトミは平然を装って妹宅に上がった。

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 玄関から直ぐの和室から、息子の大きな笑い声が聴こえた。息子がグズらないように高橋が遊び相手をしてくれていたのだ。

「ママ、お帰りなさい。高橋さんより僕の方が強いんだ。見て見て!」

「ケンちゃん、ただいま。高橋さんを困らせちゃ駄目よ」

 見れば息子が四つん這いになった高橋の上で 得意気になって笑っている。最強のヒーローのつもりなのだ。

「いえ、良いんです。最近、運動不足なので。怪獣になったり、恐竜になったりは良い運動になるので」

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 リビングでは義弟のヒロシが、テレビのサッカー中継を観ていた。

「あっ、お帰りなさい。あっちは賑やかでしょ?高橋君は若いし、高校まで陸上部で体を鍛えてたらしいから。怪獣役にピッタリで。さっきからケンちゃん大喜びですよ。ハハハッ!」

 ヒロシはスーパーの生鮮食品売場の店員だ。少し嗄れた(しゃがれた)声で、場を明るくするような事を言った。


 キッチンから カオリが声をかける。

「お腹 空いてるでしょ?私たちは先に食べたから、姉さんも遠慮せずに食べてね。今夜はハンバーグにしたの。高橋君が持って来てくれたデザートもあるわ。」

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 ハンバーグは息子の好物に合わせてくれたのだ。その妹の優しさのお蔭で空腹の半分は満たされた気がした。息子が高橋に飛びかかっているドタバタ音を聞きながら、サトミは妹に礼を言った。

「美味しいわ。ケンも喜んでたくさん食べたでしょう?しかもヒロシさんや高橋さんに遊んでもらって... ありがとう」

 離婚後 女手1つで息子を養う生活は、学歴や職歴の無いサトミにとって確かに大きな困難ではあった。だが離婚した事に後悔は無い。冷ややかな受け止め方と思われるかも知れないが、夫婦は元々は赤の他人。それなりの理由があって男女の関係を絶ったまでだ。

 だが唯一、離婚後に心苦しく感じている事があった。それは息子を片親にしてしまった事である。

《この子に寂しい思いだけは、させたくない》

 離婚後の3年間、この願いだけは薄れはしなかった。言葉にした事は無いけれども。サトミの心の叫びをそっと聞き取って支え続けているのが妹夫婦なのである。

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 息子がいる状況で、妹たちの優しさに涙ぐむ訳にもいかない。平然を装いながら、サトミは食事を済ませた。そして怪獣役を終えて息子との遊びに区切りをつけた高橋が、テーブルに着いて改めて挨拶をした。

「こ、こんばんは。お帰りなさい。またお邪魔してます...」

 前にも2度、妹宅で食事をしたのだが。その時と同じように、シャイな高橋は拙い挨拶をした。

「今夜もまたケンの遊び相手をさせて ごめんなさいね。高橋さんも今日は、お仕事だったんでしょう?さっきビールを買ったので。一緒に飲みましょうよ。」

「ありがとうございます」

 するとカオリが笑いながら高橋とサトミに声をかけた。冷蔵庫から出したビールを手にしている。

「高橋君、姉さんにお礼なんて言わなくて良いわよ。あんなにケンちゃんの相手してくれたんだもの。ねっ、姉さん。あんなに楽しそうな息子の笑い声を聞けたら嬉しいわよね?」

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 カオリは自由奔放。特に姉には思った事をそのまま口にする。典型的な妹キャラだ。サトミなら空気を読んで言えないような事を 人前でも平気で言ったりする。

 この場を盛り上げようと、ビールを口にしながら姉や高橋をからかい始めた。

 「高橋君ってシャイで口下手だけど、とても真面目でしょ?職場でも皆に頼りにされてるのよ。姉さん、どう?高橋君とお付き合いしてみたら?」

「カオリ。バカ言うの止めなさい。こんなオバチャンの相手させたら高橋さんが気の毒でしょう?しかも私には、小さなヒーローが付いてるのよ。」

「いやっ... 僕は あ、あまり歳のことは...」

 ニヤニヤ笑いながら 更にカオリが高橋をからかった。

「高橋君、もう28でしょ?良い大人じゃない!姉さんと大差ないわ。しかも姉さん、聞いて。高橋君は恋愛運が今月は良いんだって!」

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 《恋愛運?こんなにシャイで奥手そうな男性でも、恋占いは気になって見るのか?いや、奥手だから占いに頼るのか...》

 高橋のキャラクターと恋占いが繋がらず、サトミは高橋の表情を伺った。そして妹に からかわれて困惑してる高橋を庇うために勢い良く話かける。

「へえ〜 最近、占いに行ったのね?高橋さんってロマンティストなんだ?」

「い、いや、違うんです。占いじゃなくて... 今日、タクシーの運転手に言われたんです。“恋をしたくなって、きっとその恋が叶いますよ”って」

「姉さん、高橋さんって変な話をするのよ。ここへ来る時に乗ったタクシーで、幻覚体験したらしいの。胸にある恋愛のスイッチを運転手に押されたのよね?ホント、変な話よね〜」

《えっ... まさか...》

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 「僕は幻覚じゃないと思ってるのですが... 感動する話を 本当にタクシー運転手から聞いたので。でもカオリさんたちに信じて貰えなくて...」

 ソファーでサッカーのテレビ中継を観ながら、息子は眠ったらしい。テレビを切り、義弟のヒロシがテーブルに来て話に加わった。サトミと同じく、妻の“からかい”から真面目な高橋を庇おうとしている。

「カオリ、俺は幻覚じゃないと思うぞ。今時はタクシー会社も客の獲得で奇抜なアイデアで勝負しているのかも知れないだろ?」

「でもあなた、それなら話の辻褄が合わないわ。だってお客の獲得のためにサービスしといて、でも料金は受け取らないなんて。絶対に変よ。高橋くん今月も仕事がハードだったから疲れてるのよ」

「確かに不思議な話だけどさ。俺は ホントの部分も有ると思うな」

《まさか... 高橋さんもラブタクシー丸に?》

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 「い、いや、信じて貰えなくても仕方が無いんです。タクシーに乗って運転手から恋愛運がアップするという話を聞いて... 自分では現実に起こった事だと思ってるのですが。証拠が無いですから...

 運転手の名前や会社のホームページが載った名刺を、降りる時に受け取ったのに。どこかで落としちゃったみたいで...」

 「高橋君、私たち嘘をつかれたとは思ってないから。気にしなくて良いわよ。疲れが溜まってるのよ。きっとその名刺も何かの勘違いよ。」

 自分の話に嘘や偽りが無いことを伝えようとして焦る高橋。その姿を見て流石にカオリも からかうのを止めた。


《高橋さんの話に 嘘は無い...》

 サトミだけが高橋の話を信じていた。なぜなら自分も同じ体験をして、その証拠となる物も持っているからだ。タクシーを降りる時に、サトミも名刺を受け取っている。

《そうだわ。確かめよう》

 サトミは財布から急いで サセツザキの名刺を取り出した。これを高橋に見せて確認が出来れば、ラブタクシー丸の件をカオリたちも分かってくれるだろう。

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「高橋さん、もしかしたら あなたが落とした名刺ってこれのこと?家の前に落ちてたんだけど、違う?」

 高橋は名刺を受け取り、険しい表情で確認をした。

 もちろん確認をするまでもない。先程、高橋もタクシー運転手から恋愛成就を告げられたと言った。そして運転手が料金を受け取らなかった事実もカオリたちに話していたのだ。更には運転手から《恋愛作動スイッチ》という言葉を聞いた様子もある。高橋もラブタクシー丸に乗ったに違いない。

 マジマジと名刺を見つめていた高橋。だがその反応はサトミの予想を裏切った。

 「サトミさん、す、すみません。違います。これは僕が落とした名刺ではありません。」

 「嘘でしょ?高橋さんもラブタクシー丸に乗って、変なクラクションの音を聞いたり、運転手さんから お祖母ちゃんの肉ジャガの話を聞いたでしょ?」

「は、はい。確かに肉ジャガの話を運転手から聞きました。でも...」

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 サトミと高橋との“やりとり”を見て、妹夫婦はポカンと口を開けている。《この2人は、一体 何の話をしているのか?2人で一緒に映画でも観に行った事があり、その映画の話でもしているのだろうか?》余りにもトンチンカンな会話に 妹夫婦は全く口を挟めずにいた。

  高橋がもう一度 サトミに謝りながら言った。

「いえ、確かに僕が落とした名刺と、ほとんど同じですよ。運転手の名前も会社名も同じでした。でもなぜか車の名前だけが これとは違ったんです。

  僕が乗ったタクシーの名前は、確かにラブタクシー丸だったのですが...

その番号は 34号でした」

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 サトミは 酷く混乱した。

 《私が乗ったのが28号で、高橋君は34号...》

 号数はサセツザキの祖父の享年ではなく恋愛する相手の年齢だったのだ。

 正直、高橋のことを異性と意識した事は無い。ただ真面目で優しい青年とは思っていた。何度か息子の遊び相手をしてくれた時に、ありがたいと感じた時もある。だが、高橋のことを異性として見たことは無かった。

 今後、恋に落ちるかは分からない。今までのように今後も 一緒に食事をしたり、映画の話をしたいとは思う。だが、この親しみや信頼の感情が恋に発展するかは、全く分からない...

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 そして自分よりも6つも若い高橋が わざわざシングルマザーの自分を選んで恋をするともサトミには思えなかった。サセツザキの語った恋愛成就については、きっと叶わぬケースも有るのだろう。

 揺れる女心。

 だが揺れるのは女心ばかりではない。この点については高橋も同じように揺れていた。鏡のように裏返しの心模様で 揺れていたのだ。

 《確かに僕はサトミさんに好意を持っている。でもサトミさんと両想いになる事は有るのだろうか?年の差もあり、しかもサトミさんには子供もいる。わざわざ僕みたいに頼りない男を選ぶ訳が無いのではないか...》

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恋する者は滑稽である。

まるでピエロのようだ。

 サトミと高橋がラブタクシー丸に乗った日。ラブタクシー丸 運行会社の【恋愛者データベース】には、既にサトミと高橋の名前は登録済みとなっていた。登録したのはサセツザキである。

 サトミや高橋の名前が【恋愛者データベース】に登録されたタイミングは、サトミたちが乗車して行先を告げた直後。サセツザキが勢い良く計測メーターを倒した時である。

 あの計測メーターは料金メーターではなく、乗客の恋の熱量を計るメーターだった。つまりラブタクシー丸は、既に恋に落ちた者だけが乗れるタクシーだったのである。

 乗客の恋の熱量が多い時に クラクションがユニークな音で鳴るのだ。普通のクラクション音しか出なければ降車させられる。たとえ高速道路を走行中であっても。

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 本人に自覚は無いが。サトミは既に 高橋の真面目で優しい人柄に惹かれていた。そして高橋もサトミと出会って直ぐに、その息子を守る女性らしい姿を見て惹かれていたのである。


 意図的に、作為的に恋を掴むことや

正確に自身の感情を把握することなど

人間に出来はしない。


《気付けば落ちていた》

これが恋の真相である。

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 サトミと高橋は、既に自分たちの名前が【恋愛データベース】に載ってるとも知らずに。それぞれ悶々と 自身の感情の把握や整理に時間を費やした。

 だがラブタクシー丸に乗った2週間後、サトミは自身の恋を自覚し、それよりも早くに高橋は抑え切れない激しい感情を自覚していた。

 ラブタクシー丸は恋を提供するタクシーではなく、既に恋に落ちた者たちに その気付きを提供する乗り物だったのだ。

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 生活に追われながらも

我が子のために強く生きようとするサトミ。

真面目で不器用ながらも、心に真の優しさを持つ高橋。

 2人は互いの弱さを支え合い、ラブタクシー丸に乗車した日から数えて100日後、初めてキスを交わした。

 そして更に100日後、結ばれた2人と小さなヒーローが囲む食卓には、大きく盛られた肉ジャガと家族団欒の笑い声があった。

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 その後、律儀な高橋がラブタクシー丸 運行会社に恋愛成就の報告を試みた。だがアクセスすら出来なかった。ホームページのURLは全くのデタラメだったのである。

 それでもサセツザキのお蔭で恋愛を成就させた2人の心の中には、ラブタクシー丸は実在する。

 恋する者がいる街で。サセツザキは今夜もラブタクシー丸のハンドルを握り、乗客に祖父母の手料理エピソードを語っている。

《完》

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【作者 後書き】

 コロナ騒動で、現在は何度目かの緊急事態宣言が各地に出てる状況がありまして。

 ウイルスをばら撒いた国や組織への憤りと、だらしない対応をする日本政府への不信感でイライラ イライラ。胃に穴が開きそうなくらいに ストレスを感じながら今回の短編小説を書きました。

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 胃に穴が開きそうなら、お粥でも食べて寝てなさい!と思われるかも知れませんが。それなりに書く理由が有るんですね。

 コロナの影響で僕自身、経済的損失を被ったり変なトラブルに巻き込まれたりもしたのですが。《これくらいの苦しさなら、へっチャラだい!》と強がる自分が胸の中におりまして。

 ついでに勢いで。《男なら こういう時こそ自分よりも困ってる人のために動くべきだろう!》と カッコつけたくなったのです。

 で、このコロナ禍で最も辛い思いをしてるのは誰なんだ?と考えた訳ですね。

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 仕事を失った人は多い。体調を崩した人もいるだろう。そういった苦しみや不安を抱えた人の中でも、小さな子供さんや御老人を養ってる人が最も苦しいのではないかと。推測したのです。

 パッと頭に浮かんだのが、今回の『ラブタクシー丸 28号』に出て来る女主人公、サトミのイメージでした。

 仕事や恋愛について なかなか良い方向には進まずで。心が折れそうな時がある。それでも歯を食いしばって小さな子供を一所懸命に養っている。

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 現実の世界では、もっと酷い状況の人もおられるんです。急に雇い止めをされて住居も失って。相談ができる相手もいないとか。テレビの報道番組では、職を失った若い女性の自殺の増加を取り上げていました。3度の食事を摂れない子供の増加も報道がされていましたね。

 本来なら本当に、食べられなくなって困ってる社会的弱者に給付金を支給すべきなのに。腰抜けの政治家たちは無難に一律給付をしてしまう。

 イメージとして。もしも幼い子供の手を引いて、昨日から何も食べずに路頭に迷ってるシングルマザーがいるなら。政治は救いの手を差し伸べなければならないのに。政府もマスコミも ほどほどの所で有耶無耶にして 最後は見て見ぬフリをするんですね。

本当に薄情だ。

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 本当に気に入らない。今の政治家やマスコミ。彼らは救いようのないくらいに臆病で、不誠実です。

 空腹の子供や不安で苦しくなってる女性を救いたくなったのです。せめて自分の創作の中だけでも。シングルマザーと そのお子さんには満足できる食事を摂って、笑って欲しいと思ったのです。

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 「バカヤロー!そんなタクシー運転手がいる訳がないだろう!」と怒られるのは良いけれど。「その母子がそんなに簡単に幸せになれる訳がないだろう!」とは絶対に言わせない。

 この母子が幸福になれたという点についてはフィクションではなく、事実なんだと言いたい。

 プロット、人物設定などは かなり単純にして急いで書き上げました。もしご覧くださったフォロワーさんの中に 同じように苦しい状況の人がおられるなら、少しでも早く笑って欲しくて。

 少しでも明るい希望を持って貰いたくて。

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 ささやかながらも温かいものを。

 拙いながらも正直なものを。

今後も描けたらと思っております。

 拙文、最後までご覧くださりありがとうございました。


作・ひろまる愛理

投稿日:2021年 9月23日 秋分の日

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