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#これが私の生きる道
一瞬分のチャージと、受け継がれる聖火
前の記事「気分と直感」に書いたことなのだが。
「気分」と「直感」は、まるで違ったもので。
「気分」に従うことを「直感」だと錯覚していると、本当に何も積み重なっていかない。
決まらない、進まない。
気分がよい時ほど、この「違いがわかってないことによる錯誤」で、自らを振り回すことになる。
一時的にアッパーな感覚になり、万能感みたいなものもあり、とても調子がよく感じる。
だから、「これだ!この方向
ぜんぶ いっぽんのせんのうえ
なんで、コレに惹かれるんだろう…
とある書籍を眺めながら、考えた。
その書籍は、書道の教本。
わたしは字を書くのは下手だが、書は好きなのだ。
書道をやっている、とは、口が裂けても言えない。
書道としての基本は、まるで無視だから。
墨の黒が好きで。
文字の「カタチ」が好きで。
書も、絵と同じような感覚で見ている。
だから、わたしの「書」は「画」でもある。
いや、そんなことは、どうでもいい
領域の境界線/開運の、その先へ
最近とても意識に上る。
あるモノ同士の境界線。
例えば、
“アクセサリー”と“ジュエリー”
“ハンドメイド”と“プロダクト”
“プロ”と“アマ”
“美しい”と“キレイ”
“高価”と“高値”
人の“感情”と“感性”と“感覚”は、それぞれどう担当を分けるのか。
似ていても確かに違う。
源流がそもそも違うのか。
途中で分岐するのか。
だとしたら、分水嶺はどこか。
そもそもの源流が違う…と
タロットⅦ“戦車”の絵が重なる時
川口緋呂という作家の本体は、手である。
左手と右手。
それぞれに役割がある。
属性も違う。
そして、人間としての本体を担う「頭=意識」の指示をはねつけ、時には無視するのは、主に左手だ。
私は右利きのため、道具は右手で持つ。
だから、主導権は右手にあると思いがち。
私自身もそう思っていた。
ところが、主体は左手にあった。
なぜなら、「見えない受信装置」としての機能の要は、左が担っているからだ。
祝えよ讃えよ。「いのち」は美しい
言祝ぐ/寿ぐ(ことほぐ)
という言葉が好きだ。
弥栄(いやさか)
という言葉になると、好きだけれど少し、使いにくさを感じる。
なんだか、一定の、思想的なものをはらんでくる感じがして。
けれど、この言葉は、本来とても重要なもので。
思想どうこうで使いにくいと感じてしまうのは、少し情けなくはある。
ここ最近、創作の源泉だとか、描く意味だとかいったことを言語化しなくてはならない場面が多い。
神だ仏
自分と世界を統合する これが私の生きる道
威勢の良い文章であれこれ「こう思う」と、たくさん書いていた時代があった。
多くは、自分の外側のことについて、その時感じたことであり。
その刺激に反応した己の内側について、過去の自分自身に向けて書いた。
その頃、繋がりがあった人たちには、そこそこの波紋を投げていた。
ブログを読んで、会いにきてくれる人達。
多くの人が集うと、初対面なのに私を知っている人がたくさんいた。
中には個展を開いてくれた人