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自分らしく生きろと言うけれど。

先日、友人と話していた時のこと。

「私たちって、デフォルトで気を遣う習慣がついているよね。」

彼女はフィリピン人。
私は中国と日本のクオーター。

2人とも日本で育った。
受けた義務教育も日本。
けれども家庭内では違う言語、文化をみながら育ってきた。

今ではこのルーツに感謝することが多いけれど、子どもの頃は全然だった。むしろ隠しておきたい事実だった。

なんであんなに嫌だったんだろう。
子供ながらに、何度も自分の生い立ちを否定していた。日本人になりたかったし、みんなにとっての「普通」にすごくすごく憧れていた。

母のカタコトな日本語が恥ずかしくって、みんなの前で喋らないで!って言ってしまったり、お弁当のおかずが中華料理ばっかりで開けることが恥ずかしかったり、授業で自分の家族のことを紹介する時なんかは、もう穴に入りたくなるほど、辛かった。

当時、日中関係は緊張感が増していた時代で、メディアでは連日中国に対する批判的な報道が活発にされていた。だからかな、なんだか自分も否定されいる気持ちになったり、罪悪感を感じたり。

でも誰にも相談できなかったし、こんな悩みは自分だけだ、自分がおかしい、そんな風に思いながらあらゆる葛藤を心に封印していた。そして溢れ出ないように、しっかりと鍵もかけていた。

どれだけ悩んでも毎日はやってきた。
学校に通って、学んで、友達と話して、遊んで。そんな中でフツフツと感じる疎外感。

集団の中にいるのに感じる「孤独感」。
なーにも悪いことをしていないのに、存在してはいけないと思う感じ。本当にあの感覚、なんだったんだろうね。

「中国、だいすきだよ!」「中国、行ってみたいな!」

もしそんな言葉をかけてくれる子がいたら、何か変わっていたのかな。

友達は、頻繁に「Hiroko、中国語話して!」と言ってきた。でも話すと「すごい!」とかじゃなくて、笑われることの方が多かった。発音が珍しいからなのかなんだか、より一層中国語を話すことが苦手になった。

自分自身のルーツが好奇の対象になっていることが、たまらなく嫌で仕方がなかった。でもそんな気持ちになってしまう自分のことも、もっと嫌だった。なんだか、両親のことを卑下してしまっているみたいで罪悪感で心が苦しくなっていた。

幼少期の私に刷り込まれた
「中国=イケテない国、ヤバイ国、モラルの無い国」

このままでは自分をキライになってしまうだけ。希望なんかありゃしない。自分のルーツは決して否定したくないし、逃げることもしたくない。じゃあどうすればいい?

私が辿り着いたのは、

みんなが持つだろう私のイメージを覆すような性格になるということだった。

中国=モラルのない国、品に欠ける国

そんなイメージとは真逆の行動を心がけた。
誰よりもルールや秩序を守り、気遣いができて、品よく立ち居振るまう。

これが私が日本で生きていくために身につけたスキル。私の母も同じように、誰よりも日本っぽく、日本人に好まれるような立ち居振る舞いを心がけていた。誰よりも深くお辞儀をし、気を配り、小さな声で会話をし、ルールも守り、誰に対しても愛想よく尽くし続けた。

おかげで、感じの良い人にはなれた気がする。そして周囲も、より温かく受け入れてくれる様になった気がする。

日本が好きだから、日本の人たちに受け入れてもらいたいからの行動。今ではこれらの行為が無意識レベルで行える様になっている。そう、気遣いがデフォルトになっているのだ。

でもこれって自分らしい?と言われると、すぐに頷くことは出来ない。だって自分らしく居たら、きっと嫌われるかもしれない、そんな怖さがあるから。

本当の私は、声は大きいし、食べるのも早いし、図々しいし、適当だし、大雑把だし、建前なんて言えるタイプじゃない。

でもこの一面を出すと、
中国人だから...
やっぱり中国人って...そう思われるんじゃない?

私だけへの批判じゃなくて、私の背景にあるルーツまで批判の対象になるじゃない?

私の家族のことまで否定される気持ちになるじゃない?

そんなの堪らない。絶対にイヤだ!
私にとって、自分のルーツや家族はとっても大事で、何があっても守り続けたいもの。守るためなら、多少の自己犠牲なら我慢できる。

だから今日も、私は誰よりも丁寧に、気を遣えて、感じの良い人を目指す。こんな私を「偽物」「偽善」だと思わないでほしい。自分で必死に探して身につけた、生きるためのスキルなんだから。こんな一面も、本当の私として受け入れてほしい。

自分らしく生きろって言うけれど、100%自分らしく生きれない人には、それなりの理由があるってことをどうか知ってほしい。

いつも過度なぐらい笑顔な人は、笑顔で居続ける理由があるかもしれない。誰に対しても優しい人だって、何かのきっかけで優しくあり続けることを決意したのかもしれない。いつも不機嫌な人は、何かをきっかけに負の感情を出しながら生きることを選択したかもしれない。いつも独りの人だって、好んでそうしているのかもしれない。

みんな理由はうまく言えないけれど、自分なりの正解の姿を探しながら、自分や置かれている環境にふさわしい人であろうとしている人が多いんじゃないかな。いろんなマスクを使い分けながら、一生懸命に生きているんじゃ無いかな。

でもさ、きっとマスクの奥には、尊い素顔があると思う。誰にも見せたことの無い素顔が。ピュアでもダークでもいい。それがあなたらしさならば、それでいいと思う。暴れたいなら、暴れてもいい場所で暴れたらいい。何かを壊したいなら、誰も傷つけず法にも触れない方法で壊せばいい。本当は甘えたいなら、甘えられる場所に行けばいい。

私が願うのは、どうかその素顔を出せる居場所が、この世で1ヶ所でもいい。どうか…素顔のままでいられる場所がありますように。

私は誰かの素顔に触れたとき、涙が出そうになる。それは誰かの感性に触れたときが多いかな。言葉、文章、写真、音楽、なんでもいい。その人の心の声や等身大の姿が垣間見れた時、なんか「ありがとう」って思うし、私もその人に対して素顔でいたいって思える。

だってこの世は、自分らしく生きることが、とてもむずかしてく、勇気が必要なことだと思うから。そんな中で、自分らしく生きる選択をしたんだよ?

私の思う"しあわせ"は、自分らしさを解放できていることなんだと、最近改めて思うな。

私は自分らしく生きる努力を、これからもし続けるつもり。それは自分の感性をもっと解放していくことで、叶えられる気がする。同時に、誰かにとって自分らしく居られる「居場所」にもなっていきたいな。誰かの言動に対して、判断や評価なんてせずに、できるだけフラットに、偏見を持たずに、否定もせずに。

今、この文章を書いている私は、まさに素顔のまま。
うん、とってもとってもしあわせです。

Hiroko

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