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十牛図風エッセイ(8/10)~人牛倶忘

仏教において難しい概念「空」。空とはそもそも何か、空と無との違いは名何か?、空を悟ることが何故重要なのか?ということについてまとめたいと思います。

≪バックナンバー≫

八、人牛倶忘について

これまで牧人(いまの自分)は、牛(ほんとうの自分)を求めて旅をして、6図(騎牛帰家)で一体化し、7図(忘牛存人)では、牛がいなくなって安心している自分が存在していました。8図ではその自分さえいなくなってしまいます。仏教において難しい概念「空」をこの絵はあらわしています。

八、人牛倶忘

ふりかえり(空について)

仏教において難しい概念「空」についてまとめます。

空とは何か?

まずは定義から。以前のノートに龍源先生に教えてもらった定義をまとめてますで、ご覧ください。

空と無の違い

まず自分という存在が「有」るとした場合の対比として「無」と「空」の違いを説明します。「有」にたいして「無」いというのは、存在自体が「無」いということ。存在が無いということは、変化がなく、そこから何も生まれない。(自我というものを否定する意味合いで無我という言葉を用いる場合もありますが、空との違いを説明するためにここでは非存在として説明してます)
それに対して「空」というのは、変化の中にあり、存在する可能性を有している。(固定的にとらえることはできないけど)
空席、空車という言葉を想像すればわかりやすいかと思いますが、席や駐車場が埋まる可能性を有しているのであり、無いのではない。

空を悟ることが何故重要なのか?

自分という存在を「有」ると思うな!というと虚無的なことを想像してしまいがちですが、固定的にとらえた瞬間に執着となり、苦しみが発生します。(喜びも発生しますけど)
物事は常に変化しており、あらゆる可能性を秘めていることに気づくと、執着することがなくなり、こだわりなく、自分らしく生きていくことができる。だから物事の本質は「空」であることを悟りなさいと仏教は主張してくるのです。

次回、「九、返本還源(へんぽんげんげん)」について

仏教のさとりが「空」であるならば、その先に何があるのだろうか?十牛図では更に2枚の絵が私たちに語りかけてきます。自分と自然が同一であるということはどういうことか?ということについてまとめます。

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