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幼児の夢中と大人の選択

幼児の一点を見つめた瞳や顔をみると羨ましくなります。
瞬きも忘れ、ただ見ている。
集中・・・いや夢中
とにかく周りを排除して自分の世界と目に入ってくる情報だけの世界。
(私がそう思っているだけかもしれませんが)

こんにちは、サラリーマンOBの谷です。

私が夢中で見続けた失敗談


私が小さかった頃、近所で溶接工事していたところがあり溶接用バーナーの青い光を見続けてしまった。
そして涙が止まらなくなり目に痛みも伴ったので、母と一緒に眼科へ。

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そこで先生が「何見たん?」
その答えは先程のシーンでした。
先生も母親も笑って
「そらアカンわ!」って笑われた様な記憶があります。

先生「そんなに面白かったか?」
私 「うん。面白かった」
青い炎が何かパチパチとオレンジ色の火の玉を飛ばしながら金属を繋いでいるシーン。
幼かった私は不思議でたまらなかったのです。

子供の頃の夢中は成長するにつれて減ってくる


子供を見ているとちょっとしたことで興味を抱き、のめり込む。
この感覚は残念ながら、成長するにつれて減ってくる。

教育、経験、環境などでどんどん常識という名の枠に収まる。

常識が悪いとは思わない。
でも常識に囚われすぎるのもよくない。


子供の頃の集中力、夢中になれる力が大人になっても発揮できればいいのですが、そうもいかない様ですね。

その理由を逆に考えてみましょう。

子供の視野は実際に狭かった

子供の集中力や夢中になれることの裏は、子供の視野が狭いから・・・。

実際、子供の視野は大人が思っているより狭く、飛び出しなどの交通事故が多い原因でもあります。
だからなおさら視野が狭いので、入ってくる情報量は少なく集中しやすい状況と言えます。

そして邪魔する知識が乏しく、ひたすら見つめることができる。

大人は逆に視野が広く子供に比べてたくさんの情報が入ってきます。
入ってくる情報が多いと取拾選択が働き始める。

結果的に子供は少ない情報から選択、大人は多くの情報から身を守るために選択する術を持つ様になる。
その選択が正しく行われるために教育が施されていると考えれば納得ができそうです。

教育がどう影響しているのか?

その視野が経験や教育で広がり始める。
取り込んだ知識が比較という操作を呼びおこし、純粋なものを見る目からフィルターを使った見方へと変貌する。
純粋に見つめたことだけを考えることができにくくなり、受け取った感情をそのまま出すことができなくなる。

これが大人になったと言われている状態かもしれない。

だとしたら、経験や学習、教育で培われてきたことは個人の才能を平準化してしまっていることなのか?
現在の教育の裏には多角的多様的に物事を捉える教育から、間違った判断を削減する方向性が見え隠れする。

結局
どちらが正しいとか間違っているのかではなく純粋に物事を見る目を維持し、培った力を最大限使っていい方向へ向かわせることができればいいのではないか。


子供が夢中になる様に物事を変える発想を持つ
大人が培った知識で失敗しない最適最良な選択を推進する

このバランスはアクセルとブレーキで絶妙な感覚が必要ですね。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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