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【建築】常識破りのデビュー作は神長官守矢史料館(藤森照信)

諏訪大社の下社秋宮、下社春宮、上社本宮、上社前宮の御柱を巡った旅の続き。


上社前宮と上社本宮との間には鎌倉街道の旧道が通っている。


数kmの短い遊歩道だが、山の中には「みねたたえ」という樹齢約200年のイヌザクラの巨木もあって、散歩にはちょうど良い。


ところで諏訪大社では古代から明治時代初期まで御神体は大祝おおほうりと呼ばれる現人神あらひとがみ、つまり"人"だった。その下で実際に祭事を取り仕切っていたのは神長官をトップとする五官祝ごがんのほうりという神職である。大祝も五官祝も世襲制で、上社では諏訪家が大祝を、守矢家が神長官を務めていた。

街道の途中、本宮と前宮の中間辺りに、その守矢家の敷地がある。


敷地内には7世紀頃の古墳や大祝・諏方家(江戸時代、諏訪家は政治を行う諏訪藩・"諏訪"家と神事を行う大祝・"諏方"家に分かれた)の墓所、


諏訪大社の記事でも紹介したミシャグジを祀る御左口神社などがある。この神社、ミシャグジ信仰の中枢ともされるとても重要な神社だ。


隣の小さな祠にも御柱が立てられている。



1991年、この敷地内に守矢家の貴重な史料、上社の神事に関する古文書や諏訪周辺の豪族の動向を記した記録・手紙などを保管・展示する史料館がつくられた。設計は、守矢家のあるこの集落で生まれ育ち、第78代守矢家当主の幼馴染でもあった建築家・藤森照信氏である。

建築家と書いたが、設計を依頼された当時、藤森さんは建築の歴史を研究する建築史家としては知られていたが、実際に建物の設計をしたことはなかった。そのため藤森さんは、諏訪に縁のある他の建築家に依頼することも考えたそうだ。例えば後に諏訪湖畔に諏訪湖博物館を設計することになるプリツカー賞受賞者の伊東豊雄さんは幼少期を諏訪で過ごしている。


しかし当時の伊東さんの建築スタイルは、お世辞にも諏訪大社の雰囲気に合っているとは言い難い。「ミスマッチがマッチする」という考え方もあるが、藤森さんはそうは考えなかった。そこで藤森さん自らが設計することにした。設計の経験がないとはいえ大学時代には設計の手法も学んでおり、また建築史の先生なので古今東西の建築もご存知である。
結果、藤森さん45歳にして、神長官守矢史料館が建築家デビュー作となった。


藤森さんがこの建築で目指したことは周りの景観を壊さないこと。
そして出来上がった建物がコチラ。


施工精度がビシッと揃った現代の建築とは異なり、まるで手作り感のある日本家屋のようだ。だがどこか違和感も感じる。もちろんコレは意図してのこと。

この景観に合うように民家風とすることも出来たろうが、一般にイメージする民家の建築様式は江戸時代以降のもの。しかし諏訪大社の起源は神話時代、文献上でも古墳・飛鳥時代である。当然その時代の建物など残っていない。寺院であれば飛鳥時代の建物もあるが、ここは神社だ。
なので色々検討した結果、神社でもなく民家でもなく外国の建物でもない、あえて無国籍風の建物としたそうである。


"保存"という特性から構造は鉄筋コンクリート造である。が、建築の工法はともかく、少なくとも仕上げに使われる材料は出来るだけ天然の素材を追求している。


入口の軒を突き抜けた4本の柱は諏訪大社の御柱に倣っている。素材は下社秋宮では御神体とされているイチイの木。この地区で採取された木だ。

鳥の形をした金属は、上社の御柱祭の時に使用される薙鎌なぎがま という祭器。


経年変化による色合いが素晴らしい外壁は、ノコギリや機械で製材した板ではなく、丸太にクサビを打ち込んで割った板を張っている。というのもノコギリが建築現場で本格的に使用されるようになったのは鎌倉時代で、それまでは割板が主流だった。そのため使われる木は、杉や檜のように割りやすい木目の通った針葉樹が多かった。この板もヒノキ科のサワラである。
キッチリ揃った板ではなく、それぞれが微妙に異なる板が並んだ壁には手作りならではの風情を感じる。


屋根の葺石は諏訪地方で産出する鉄平石。安山岩を板状に剥離させたもので、諏訪地方では屋根材として利用されていた。


建築面積は約135m2と大きくはない。しかし展示室は遠近法により少し広く見せている。


壁は藁を混ぜたモルタルで荒々しく仕上げ、さらに表面に土を吹き付けている。


また巾木を付けず、床と壁の角を丸くして一体的に仕上げている。これも空間を広く見せるための工夫の一つだ。


個人的に好きな箇所はガラス戸。


歪みのある手吹きガラスは味わい深い。



展示の方はといえば鹿と猪の首が目立つ。少々不気味でさえある。
これらは地元で獲れた本物の剥製。古代の諏訪大社上社では御頭祭という鹿や猪の首、魚などを生贄として捧げる神事が行われていた。御頭祭は現在も行われているが、さすがに生首ではなく剥製を使っている。

耳が割れた鹿は特に縁起が良いらしい。



この建築、今となっては多くの建築ファンが訪れているが、出来た当初は地元の方々には不評だったらしい。もっと現代的な建物をイメージしていたそうだ。確かに都会では自然へ回帰する建築を、地方(田舎)では現代的でスタイリッシュな建築を求める傾向はあると思う。


いずれにしても藤森さんはデビュー作にして、他の誰にも真似できないユニークな建築スタイルを確立した。建築史の先生なので様々な時代の世界中の建築をご存じであるにもかかわらず、いや、だからこそ今までの常識の枠に囚われず、他の建築家であれば採用しないであろうデザインや工法を積極的に取り入れた。


以降、藤森さんは人気建築家の一人となり、今では全国各地に藤森ワールドの美術館や商業施設ができている。



ところでこの地区には今でも藤森さんのご実家や土地がある。そしてそこにはいくつもの藤森さんが所有する建築がある。

それは…

(さらに続く)




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