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「職業、母親」第二話

第二話

 その平穏が壊されたのは、ルイが中学生になって最初のテストが終わった翌日だった。月に一度のテストが終わると、いつも翌日には私のタブレットにルイのテストの結果と一ヶ月間の学校でのレポートが送られてくるのだが、その日のレポートはどうも様子が違った。
 タイトルには【重要】。
 送り主はなぜか政府からになっていた。
 私はそのメッセージを開いて、息を呑む。難しいことが色々と書いてあったが、要約すると
『ルイの前回のテストが悪かったので、これ以上成績が落ちるようならば貴女の「母親」としての資格を剥奪します』
 というものだった。
 しかも、最近のルイの授業態度はとてもいいとは言えず、一週間に一度ほど行われる小テストでも、ずっと一人のレディメイドの子に負け通しだったというのだ。

 そのレディメイドの名は、玉坂リリコ。玉坂、リリコ。

 この瞬間ほど、頭に血が上る、というのを体感したことはなかった。
 ルイを問い詰めると、「ごめんなさい。テストの前日に徹夜で絵を描いていたから……」と素直に白状した。
 あんまりな理由に、私は思わず彼女の描きかけの絵を床に叩きつけた。

「絵を続けるのは、成績を落とさないことが条件だったでしょう!」
「おかあさん!」
「あなたはもう絵を描いちゃだめ!」

 私が何よりショックだったのはルイが成績を落としたことではない。
 このままでは私が彼女の『母親』ではなくなってしまうことだった。
 そうなったら、誰が私に『大好き』と言ってくれるのだ。
 誰が私を抱きしめてくれるのだ。
 私はどうしてもこの平穏を守りたかった。 

 彼女が毎日丁寧に手入れをしていた画材たちを、私は手当たり次第ごみ袋に詰めていく。すると、ルイが私を止めようと腕に縋り付いてきた。
 そして、私の大好きな言葉を吐く。

「私はお母さんが大好きなんだよ! 大好きなの! なのに、なんでこんなことするの!」
「私も貴女が大好きだからよ!」

 私の言葉にルイは泣きそうな顔になった後、腕に噛み付いてきた。あまりの痛さに悲鳴をあげて彼女を突き飛ばすと、ルイは置いてあったキャンバスに背中から激突した。瞬間、あの赤い花が描かれていたキャンバスが割れる。
「大好きだって言ってるのに!」
「うるさい!」
「『大好き』だって言ってるだろ!! この、クソババア!」

 この言葉を聞いた瞬間、時が止まったかのような心地がした。
 冷静に彼女が放った言葉を噛み砕き、改めてルイの方を見る。
 ルイは私に憎悪を向けていた。
 歯を剥き出しにして、まるで縄張りに入ってきた者を威嚇する動物のような表情をしていた。
 その顔見て、私は理解した。
 彼女の『大好き』は、大好きだから放たれる言葉ではないのだ。
 あれは、私を操るための言葉だった。
 好意に飢えている私に対する餌だったのだ。

 彼女からもらった『大好き』がどんどん汚れていく感覚。
 大切にしていた宝石が、ただの石ころだと言われたような感じがした。

 気がつけば、私はルイを折檻部屋に閉じ込めていた。
 折檻部屋というのは、窓もなく、ベッドもない、二畳ほどの狭い狭い部屋のことだ。
 彼女が小学校に入る前はよく使っていたが、最近は扉を開くこともなくなっていた場所である。
 私はその部屋の前で一人うずくまっていた。
 部屋の中からはルイの気の狂ったような声が響いてくる。

《あなたが『母親』なんて、やっぱり無理だったのよ》

 懐かしい声が聞こえて、私は顔を上げる。
 目の前には、なぜかお母さんが立っていた。

《本当にあなたはダメな子ね》
《いつになったら、その甘ったれた性格が治るの?》
《その調子じゃ、私にも迷惑がかかるわね》
《もう本当にいや》
《あなたといると疲れるの》
《あなたなんて育てなければよかったわ》

 お母さんは俯く私の後頭部にそう言葉を並べた後、大きくため息をついた。
 私は顔を上げて、お母さんに縋り付いた。

「私、どうすればいいのかな……」
《あなた、私の何を見て育ったの?》
《何をすればいいかなんて決まっているでしょう?》

 お母さんが、あの頃と同じように冷たい目で私のことを見下ろしていた。

「今すぐ、その子を廃棄しなさい」

◆◇◆

 あの教育が始まったのは、いつだっただろうか。
 お母さんは私に『母親』の適性があると知ると、私に様々な生き物を育てさせた。
 カブトムシから始まって、金魚に、亀に、ハムスター、シマリス、猫。
 育てる時には一つルールがあって、お母さんが決めた『課題』をその生き物にクリアさせなくてはならないのだ。例えば、金魚なら『一年以内に十匹以上繁殖させなければならない』とか、猫ならば『待てをできるように躾けなければならない』とか、そんな感じである。それをクリアできなかった場合、私は自分でその生き物を殺さなくてはならなかった。
 親も子も、もろともだ。
 最初の課題はカブトムシの繁殖だった。
 しかも、一匹でいい。
 今振り返ると、比較的簡単な課題だったと思う。
 私は繁殖の仕方を調べて、彼らの寝床を用意した。クヌギマットを敷き詰めて土の深さを調節し、転落防止のために枯葉や登り木を設置した。その時の私はなぜか自信満々で、カブトムシの幼虫なんて気持ちが悪いなぁ、なんて呑気なことを考えていたのだが。
 ――その夏、カブトムシは産卵をしなかった。

「ほら、早くしなさい!」
「やだやだやだやだ!」

 私はお母さんに言われるまま、出来損ないのカブトムシの番を泣きながらハンマーで潰した。鉄製のハンマーで、頭、身体もろとも潰した。パキッとカブトムシの外骨格が潰れた音がして、同時に鳴き声なのか何かなんなのかわからない甲高い声が耳を劈いた。ハンマーには固体と液体の間のカブトムシの中身がべっとりとついていて、それをなすりつけるようにもう一度ハンマーを振り下ろすと小枝のような足が痙攣しながらこちらに飛んできた。

「この子たちはあなたの子供なの。出来損ないができたらちゃんと自分で処分しないといけない。心を鬼にしなさい。それが国のためになるし、自分のためになるのよ」

「あなたはオーダーメイドの『母親』になるのだから、半端なものは作ってはダメよ。ちゃんとお母さんを見て学ぶのよ」

 亀を煮た日も、金魚をすり鉢で潰した日も、シマリスをコンクリートに打ち付けた時も、ハムスターを潰した時も、猫に刃を突きつけた時も、お母さんはそう言って、私を躾けた。
 私には二十五人の兄弟がいたけれど、廃棄を免れたのは、私を含めて十人だけ。
 他の兄弟たちは、みんな何かしら事件を起こしたことにされて処分場へ送られた。
 私がやらされていたのは、その訓練だった。心を鬼にして、自分の子供を殺す訓練。廃棄を躊躇わずに選択する精神を、お母さんは私につけて欲しかったらしい。

「辛いわよね。わかるわ。お母さんも最初は辛かったもの」
「優しすぎる十に教えてあげる。辛い記憶は書き換えればいいのよ。なかったことにすればいいの。出来損ないの子供のことは上書きするの。そうするとほら、もう辛くない」

 泣きじゃくる私にお母さんが教えてくれたのは【同じ名前をつける】という方法だった。
 出来損なった子供のことを忘れるために、前の子と同じ名前をつけるのだ。前の子と区別して呼ばなくてはならない時は『一代目の』とか『二代目の』とかを頭につけて呼ぶのだ。

 ちなみに繁殖に成功したカブトムシは、二代目の『カブ』と『クロ』だった。

 私にとって生き物を育てるということはとても苦痛だったけれど、お母さんからの試練だと思ったら耐えられた。だって、お母さんはすごい『母親』で絶対に正しいのだ。
 だってみんなそう言っているじゃないか。だから私は疑問なんて持ってはならないのだ。
 だから、お母さんがそう言うのなら、私は、ルイを――

◆◇◆

 私は段々とルイにひどく当たるようになった。
 絵画教室は当然辞めさせて、絵の道具だって捨てた。今までは学校に通わせていたけれど、中学生までの勉強までならば私が見られるということで、月に一回の学力テスト以外は通わせなくなり、起きている間はずっと勉強をさせるようになった。
 家からは一切出さなくなり、集中力が続いていないと判断したら、折檻部屋に閉じ込めて一日食事をさせないなんていうこともザラ。
 そこまでしてようやくルイの成績は上がり始めたが、それでも地区での順位はリリコに負け通しだった。

「おかあさん! 出して! ここから出してよ!」

 ルイが叩く扉に背を預けながら、私はじっと天井を見つめた。
 脳裏に、廃棄、という言葉がちらつく。

 お母さんからアドバイスをもらって一ヶ月が経っていた。けれど私は、まだルイを廃棄できないでいた。『母親』としてあるまじき選択を自分がしていることはわかっていたが、どうしても、どうやっても、私はルイを殺すことができなかったのだ。

「他の『母親』は出来てるのに、なんで私は――」

 うちの地区にはルイの他にオーダーメイドの子が二人いたのだが、幼い頃からリリコに負け通しで、もう随分と前に廃棄されていた。どちらも知的で静かで聡明な子だったのに。

《やっぱり貴女は出来損ないね》

 お母さんの言葉が回る。遅効性の毒のようにじわじわと全身に回っていく。
 廃棄にしないのならば、ルイを完璧なオーダーメイドの子供に育てないといけない。
 私を動かしているのは、ただその気持ちだけだった。

 そんな私の気持ちを知ってか知らずか、ルイはだんだんとおかしくなっていった。
 最初の二ヶ月ほどは勉強をさせようとする私に抵抗していたが、三ヶ月を過ぎるあたりで全く抵抗しなくなり、半年を過ぎたあたりで、受け答え以外で喋らなくなった。
 食欲がなく、眠れないようなので点滴と薬でなんとか補い、頭が痛いというので病院に連れて行ったが身体にはどこも異常がないというので、仮病を使ったのかと怒鳴り、また折檻部屋に閉じ込めた。

 そしてそれを皮切りに、ルイの成績は再び下がり始めたのである。 

◆◇◆

「今日は久々に、外に出ましょうか」
 私がそうルイに言ったのは成績が下がり始めて一ヶ月ほど経った、ある日のことだった。
 地区での成績はまだ二位を維持していたが、それは他の子がレディメイドだからで、全国的に見てルイはオーダーメイドにしてはかなり下の方を彷徨っていた。しかも、ルイの上にいるのは、玉坂リリコ。あろうことかレディメイドの子なのだ。こんなの、オーダーメイドとして許されるはずがない。
 しかし、もう怒鳴っても、叩いても、殴っても、彼女の成績は上がらないだろうということはわかっていたので、藁にもすがる思いで、私は彼女と久しぶりに出かけることを選んだのである。
「近くで美術展が開かれるんですって。行ってみない?」
 私がそう優しく声をかけると、ルイはノロノロと動いて支度を始めた。
 支度といっても、立ち上がり、靴を履くだけだ。顔を洗うこともしない。服もいつもの白いワンピースのままである。私は玄関で立ち尽くす彼女にコートを着せた。
 もう十二月だ。外も寒い。
 一年前に買ったコートだからキツくなっているかとも思ったがそんなことはなく、食事の大半が点滴になってしまった彼女にとっては少し大きいぐらいだった。

 私たちは並んで歩き出す。
 一緒に出かけるのが久々すぎてどうやって歩けばいいのかわからずに、私は黙ったまま彼女の半歩先を歩いた。
 少し前までは手を繋いでいたような気がしないでもないが、いつもルイから握ってくれていたので、私からなんてどう繋げばいいのかはわからなかった。
 しばらくそうやって歩いていると、急に背中の方から声がかかった。

「あ、ルイちゃんだ!」

 元気で弾けるような声だった。
 振り返るとルイと変わらない年齢の女の子がこちらに走ってきているのが見えた。彼女の後ろには年齢がばらばらな子供が十人程度いる。それをはさむように二名の大人もいた。
 私はそれを見て、あぁ、レディメイドの子たちだな、と、一瞬で理解した。どうやら、お出かけをしていたらしい。
 ルイは少女が声をかけてきた直後、一瞬だけ身体をびくつかせて、息を呑んだ。どこか怯えているようにも見えるルイを目の端に止めたまま、私は肩で息をする少女に声をかける。

「えっと、あなたは?」
「玉坂ホームのリリコです! ルイちゃんとは同じ学校に通っています!」

 その名前に私は息を詰めた。いつも名前だけは見ていたけれど、彼女を実際に目にするのは初めてで、私は思わず「あぁ、あなたが……」と漏らしてしまう。
 私の呟きにリリコは不思議そうに首を傾げた。

「私のこと、知っているんですか?」
「あ、えぇ。いつも成績で上位にいるのを見ていたから」
「えへへ、ありがとうございます! でも、ルイちゃんもすごいですよね? 小学校まではずっと一位でしたもん!」

 小学校までは、という響きに目の前がカッと赤くなった。意図して言ったわけではないだろうが、彼女のその失礼な物言いに「今だって、あなたさえいなければルイは一番なのに!」と口から滑り落ちそうになった。
 リリコは少し恥ずかしげに俯きながら、顔にかかる長い髪を耳にかける。その時、彼女の耳たぶに黒子があることに気がついた。
 瞬間、学生時代にレディメイドの友人が『耳たぶに黒子のある人は、お金にも愛情にも恵まれるんだって』と非科学的なことを言っていたのを思い出す。

 この子はお金にも愛情にも恵まれるのか。

 そう思ったら、どうしようもなくルイを抱きしめたくなった。
 リリコは私たちに声をかけてきた理由を思い出したらしく「そうだ!」と顔を上げて、私からルイに視線を滑らせた。

「ルイちゃん、今からどこ行くの?」
「え? 美術展に……」
「そうなんだ! 今私たちも見てきたんだよ! とっても良かったよ!」

 一年前のルイを思い起こさせるような笑顔で、彼女はそう言う。

「私ね、お母さんに頼んで絵画教室に通わせてもらうことになったの!」
「そう……」
「ルイちゃんが前に通ってたところと同じところなんだ! 今から楽しみ!」

 ルイが奥歯を噛みしめるのが顔を見ていなくてもわかった。
 そんな彼女の様子に気づくことなく、リリコはルイの手を握る。

「久々に会ったから嬉しくなって声かけちゃった。また、学校来てね! じゃぁね!」

 結局、その日私たちは美術展に行かなかった。リリコと遭遇した直後、ルイが家に戻るといって聞かなくなってしまったのだ。帰ると言われた直後は、そのまま引きずって美術展に行こうかとも考えたりしたのだが、そこまでして行っても何にもならないことに気がついて、ルイの好きにさせてやることにした。
 ルイは家に戻ると部屋にこもってしまい、出てこなくなってしまった。
 私も引き摺り出す気になれず、リビングのソファでこれからのことに思いを馳せていた。
 見上げた天井では、シーリングファンが私たちの吐いた重たい空気を懸命にかき混ぜていた。

「私は、間違っていたのかな……」

 そんな台詞が口から漏れる。
 今日、リリコを見て思った。正確にはもうちょっと前から思っていたけれど、彼女を見てふわふわとしていた考えがしっかりと輪郭を持ったような気がした。
 私はもしかしたら間違っていたのではないか、と。
 ルイを廃棄にしたくなくて『母親』らしくふるまっていたが、廃棄は私が勝手にしなければならないと思い込んでいただけだ。彼女が成績を落としても、私から『母親』の資格が剥奪されてしまうだけ。ただそれだけなのだ。それ以外、なんのマイナスもない。もちろん私の人生においてはマイナスかもしれないが、私だってオーダーメイドの端くれだ。『母親』をやめたってなんとか生きていくことぐらいはできるだろう。
 私が『母親』でなくなれば、ルイはレディメイドと同じ施設へ行くだろう。そうすれば彼女は無理やり勉強させられることもなくなり、絵だって自由に描けるようになる。私たちが引いた人生のレールからは降りることになってしまうかもしれないが、ルイにとってはそちらの方がいいかもしれない。
 それに、子供に情が湧いた人間なんて、そもそも『母親』失格だ。

 その時の私の願いはたった一つだった。
 あの時と同じようにルイに笑って欲しかった。
 一年前と同じように。
 今日のリリコと同じように。

 私は意を決したように立ち上がり、ルイの部屋の前に立つ。
 そして、扉をノックした。

「ルイ。ちょっといいかしら」

 しかし、中から返事はない。おかしいなと思い、もう一度声をかけてみるが、やっぱり中から彼女の声は返ってこなかった。
 私はなんだか嫌な予感がして、慌ててルイの部屋の扉を開ける。
 すると、部屋の中にはルイはいなかった。
 机と椅子が一セットとベッドだけが置いてある、がらんとした部屋。窓から月明かりだけが差し込んでいた。
 私は部屋の中に入り、彼女を探す。
 ルイは家に帰った後、すぐに部屋に籠ったはずだ。それは私が見ている。間違いない。

「それなら、どこに……」

 そうつぶやいたその時、窓から何かが垂れ下がっていることに気がついた。
 慌てて確かめると、それは、ベッドのシーツだった。何枚かのシーツを結んでロープ状にしたものが部屋の窓から垂れ下がっている。

「ルイ!」

 私は悲鳴を上げながら窓に近寄り、窓の下を覗き込んだ。部屋は地上三階の位置にあり、そのまま落ちたら怪我だけでは済まない。しかし、窓の下にはルイはおらず、結ばれたシーツだけが風にはためいていた。

「どうして、こんな……。もしかして、家出!?」

 辿り着いた答えに全身の血の気が引いて、私は慌てて彼女を探しに出ようと部屋から飛び出した。しかしその時、ちょうどタイミング良く玄関のチャイムが鳴ったのである。
 私は走って玄関の扉を開ける。
 そこにいたのは、やっぱりルイだった。
 私は怒鳴り声を喉の奥にしまい込んで、彼女を家に入れ再び家の鍵を閉める。
 そして、できるだけ優しく、声を押し殺しながら「どこ行ってたの?」と口にした。
 そこでようやく、彼女が顔を上げる。

「玉坂ホーム」
「え?」
「リリコちゃんに、会いに……」
「リリコに?」

 そこまで会話してから気がついた。
 よく見ると彼女の服は真っ赤になっているではないか。それも鮮やかな赤ではなく、少し黒が足されたようなくすんだ赤色。まるで血のような赤だ。
 それはワンピースの白がほとんど見えなくなるぐらい、彼女を染め上げていた。
 状況が呑み込めず唖然としていると、ルイは震える手でなにかを差し出してくる。

「これは?」

 それは、ビニール袋だった。

「本当は、首を、持って帰ろうとしたんだけど、切れなくて……」

 私はその言葉を聞きながらビニール袋を開ける。
 中に入っていたのは、血で真っ赤に染まった果物ナイフと真っ赤な肉の塊だった。血の海に浮かぶそれを、私は恐る恐る掬い上げた。
 それは、耳だった。人の耳だった。

「ひいぃいぃっ!」

 私は思わずそれを放り投げる。
 耳はコロコロと転がり、柱の角に当たって、こてん、と仰向けになった。
 その耳には見たことがある黒子がついていた。

 お金にも愛情にも恵まれる、非科学的な。
 だけど確かに羨ましかった、黒子が――。

 これは、リリコの耳だ! 間違いない、これはリリコだ!

「おかあさん、リリコちゃんに居なくなってもらいたかったんだよね?」
「ルイ?」
「私に一番になって欲しかったんだよね?」

 声に期待を乗せながら、彼女は一年前と同じような笑みを浮かべる。
 そうだ私はこれが見たかった。でもこれじゃない。これじゃないのだ。
 こんな平穏とかけ離れた――

「これで、私が一番だよ」

 全身から力が抜けて、私は膝から床に崩れ落ちた。
 そして、頭を抱えてその場に蹲る。

「リリコちゃんをどうしたの?」「殺したの?」「生きてるの?」「誰かに見られた?」「どうしてこんなことしたの?」「やめて」「嘘だと言って」「嫌よ」
「ごめんなさい」
「ごめんなさい」
「ごめんなさい」

 唇の端からこぼれた言葉たちはルイの耳には入っていかず、目の前の床に吸い込まれていってしまう。
 ルイはどうして私が蹲ってしまったのかわからないようで「おかあさん?」と私を見下ろしながら首を傾げていた。

 その時、玄関のチャイムが鳴った。
 私がゆるゆると顔を上げると、扉の奥から男性の固い声が聞こえてくる。
 同時に複数の人の気配を感じ取った。

「阿母さん、おられますか? 警察の者なのですが、ちょっとルイさんに話を聞きたくて」

 警察。その言葉を聞いた瞬間、私はルイに視線を向けた。そして考える間も無く、こう口にしていた。

「ルイ、逃げましょう!」

 私はすぐさま立ち上がり、彼女の手を握った。
 そして、ルイの部屋に駆け込み、シーツが垂れ下がった窓を見下ろす。

「私が先に降りるから! ちゃんとあとからついてくるのよ!」
「おかあさん?」
「わかったわね?」

 私は窓から身を乗り出すと、シーツを掴んで窓の外に躍り出た。
 こんなこと初めてだったけれど、意外にも器用に降りることができた。
 私が降りたのを見て、ルイも降りてくる。
 こちらは二回目とあって私より随分と手慣れていた。
 ルイが降りてくると、私は迷わず彼女の手を取った。

「走るわよ」
「……うん!」

 そう頷くルイの顔は、なぜだか少しだけ嬉しそうに見えた。

 こんなに走ったのは久しぶりだった。本当に随分と久しぶりだった。
 ルイと一緒に行った海でもこんなに息を切らして走らなかっただろう。
 運動不足の私に手を引かれながら、ルイは何かを確かめるような声を出した。

「おかあさん、いいの?」

 振り返ると、縋るような表情のルイと目があった。
 いいの?
 彼女はもしかしてこの状況のことを聞いているのだろうか。
 そんなの、そんなの、答えは決まっている!

「いいわけないでしょう!?」

 いいわけない。こんな状況がいいわけないのだ。だけど、このままだとルイは絶対に処分場送りだ。それどころかその場で処理されてしまう危険性だってある。
 だから私は、そんなこと――

「おかあさんと手を繋いだの、久しぶりだ」

 息を切らしながら、彼女は温度のある声を出した。先ほどまでの冷え切った感情のない声ではない。まるで、今から二人でどこかに遊びに行くような、そんなトーンの声である。跳ねる鞠のようなその声色は、何かを期待しているようにも聞こえた。

「ああああぁああぁああぁああああぁあぁあぁ!!」

 私はたまらず絶叫した。もう感情がぐちゃぐちゃだった。
 この状況には絶望していて、でもルイが笑っている事実は嬉しくて。
 後悔が胸の中を満たすと同時に、立ち止まってこのまま全てを投げ出したい気持ちと、彼女をなんとしても逃さなければならない気持ちで板挟みになる。
 でも無駄だ。無駄なのだ。私は無駄だとわかっている。
 だって私たちの身体には生まれた直後からGPSが埋め込まれているのだ。今頃警察は私たちの信号を見ながら、どうやって追い詰めようか話し合っているところだろう。
 逃げられるわけがない。だけど、逃げないわけにはいかなかった。

 私たちは学校に逃げ込んだ。
 特に策があるというわけではない。
 ただ、ずっと走っていられるだけの体力がなかったのだ。
 私は教室の隅で膝を抱えながら、小さな声で呻く。

「ルイなんか、大嫌いよ……」

 抱えきれない感情が言葉になった。

「私もお母さんのことなんて大嫌い」

 どこまでも楽しそうな顔で、ルイはそう返してきた。
 私が顔を上げると、彼女は一際なめらかに微笑んだ。

 ルイが何を考えているのかわからなかった。
 どうしてこんな状況で笑えるのか不思議でたまらなかった。
 私が黙っていると「でもね……」と、ルイの笑みが崩れる。
 一拍おいて泣きそうになった彼女は、ぎゅっと自分の膝を抱え込んだ。

「私、お母さんに褒められるとうれしいんだ」

 あぁ……
 彼女のことは理解できない。
 でも、その感情だけは私にも理解できた。

「そうね。褒められると嬉しいわよね」
「うん。私ね、お母さんが褒めてくれたから絵が好きになったんだよ。最初はね、勉強ばっかりで嫌だったから、絵を習いに行きたいって言ったの。でも、おかあさんがね」

 だって私も、それだけを頼りに今まで生きてきたのだから……

「私ね、嬉しかったの」
「うん」
「ずっと、ほめられたかったんだ」
「そうね。そうね」

 私も褒められたかった。お母さんにずっと褒めてもらいたかった。
 それは好き嫌いの感情ではなくて、あなたに認められたいという心の叫びだった。
 ルイの瞳から哀しみが一つ転がり落ちて、私の瞳からも哀しみが一つ転がった。
 続いて後悔が同時に流れ落ちて、飢えが頬を伝う。
 ルイの目から流れた苦しみは私が手で拭い、私の目尻からは謝罪が溢れ出た。
 私はこの時初めて、ルイの心に触れた気がした。

「公園でね、一緒に遊びたかったの」

 彼女がいつの時のことを話しているかすぐにわかった。ルイが初めて公園で私に「一緒に遊んで」と強請った、あの日のことだ。

「逆上がりがね、できるようになってね。お母さんに見てもらいたかったの」
「見てあげられなくて、ごめんね」
「みて、もらいたかったぁあぁぁ」

 しゃくり上げて泣き出したルイを抱きしめる。
 その資格があるとかないとか関係なしに私は彼女を抱きしめた。
 だって抱きしめたかったのだ。仕方がないだろう。

「なんでみてくれなかったの。いっしょう、けんめいっ! だって、わたし!」

 そうか。この子はこんなふうに泣く子なのか。
 知らなかった。
 私は何も知らなかった。

 遠かったサイレンが大きくなり、数も増えてきた。
 終わりが近いことを私たちは悟っていた。
 複数の足音が私たちのいる教室の前で止まり、怯えたルイが私の背中に手を回す。
 私はさらにぎゅっと彼女を抱き寄せた。
 ルイの鼓動が早まっているのがわかる。私の鼓動も呼応して早くなる。

「お母さんが、なんとかしてあげるからね」
 彼女を落ち着かせるためにそう言って、私はルイの頭を撫でた。
 最初に彼女の頭を撫でた時は、目の前にお母さんの影がちらついていたけれど、今は思い出しもしなかった。そんな人がいることでさえ忘れていた。だって今ここでルイを守ることができるのは、お母さんではない。
 私、ただ一人だけなのだ。

 教室に入ってきたのは、武装した警察官だった。
 手にはルイを処分するための銃を持っている。それが五人。
 その中の一人が、感情のない声で私にこう告げる。

「その子を離しなさい。処分します」

 私はその声に答えるように、ぎゅっとルイを抱きしめた。
 私の答えを受けて、警察官はさらに声を硬くする。

「そのままだと一緒に処分することになりますが、いいんですか?」
「おかあさん」
「大丈夫よ」

 覚悟なんか決まっていない。
 身体だって震えているし、歯は先ほどからカタカタと鳴っている。
 銃口がこちらに向いたのを見て、呼吸が荒くなった。
 恐怖が全身を包む。
 今からでも遅くない。ルイを差し出せばきっと、私は助かる。

 ここが運命の分かれ道だ。

「おかあさんっ」

 あぁ、無理だな。
 ルイの震える声を聞いた瞬間、私はそう悟ってしまった。
 背中に回った手の感触に、ちょっと涙が出てくる。
 怖い、怖い、怖い。
 私は彼女の頭を抱え込みながらぎゅっと目を瞑った。

 次の瞬間、何かが弾けるような音が二回聞こえた。
 それが銃声だと気がついた時には、私の身体はのけぞっていて、ルイがこちらを見て何かを叫んでいるのが目に入った。
 そして、彼女の側頭部も爆ぜる。
 
 ――ルイ!

 その叫びが声になったかどうかもわからなかった。
 私の頭はまるでバスケットボールのように地面に落ちて僅かに跳ねる。
 目の前が真っ暗になり、痛みも、感覚も全てが一瞬にして消え去った――はずだった。

 ブ――――――!!

 それは、ブザーの音だった。
 人生の終了を告げるような、物語の開始を知らせるような空気の震えだった。
 私はその音で、全てを思い出す。どうして私がここにいるのか、今まで何をしていたのかを思い出す。

『シミュレーション試験を終了します』

 機械的な音声に従って、私は目を開ける。
 同時に私のことを包んでいた透明なガラスが左右に割れた。
 仰向けになっていた身体を起こすと、私と同じような年齢の女性が次々と透明な卵のようなカプセルから起き上がってきた。

 第一級母親試験の最終選考である実技試験が、たった今終了したのだ。

 試験時間は一時間。つまり、ルイなんて子はいないし、私も十八歳のまま。
 何年もの記憶は全て虚構だったのだ。

 私の試験結果だが、もちろん不合格だった。
 ルイがリリコを殺してしまったところで、私は彼女を警察に突き出すべきだったらしい。
 確かにあれは、運命の分かれ道だったのだ。

 そうして一年後、私は第一級母親試験に合格した。
 生まれた子には、ルイとは名付けなかった。

#創作大賞2023  


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