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「職業、母親」第一話
あらすじ
人類が生まれによって、一点ものの『オーダーメイド』と、量産型の『レディメイド』の二種類に分けられてしまった世界。
母親試験に合格した十(みつる)は、お母さんのような立派な『母親』になるために、娘・ルイを産み育てていく。
ルイはとても優秀だった。しかし、その地区には更に優秀なレディメイドのリリコがいた。彼女の存在が、歪だった親子関係を更に歪ませていく。
結果、ルイはリリコを手にかけてしまう。
十はルイが警察に捕まる直前で、彼女に共感と愛情を見いだし、最後は共に射殺されてしまう。
しかし、それは全て虚構だった。母親試験の実技試験だったのだ。
十はルイの事を想いながら、この歪な世界をこれからも生きていく。
第一話
『合格通知書
合格通知番号:第三四-三二〇四六三号 氏名 阿母 十(あぼ みつる)
上記のものは児童福祉法第十八条に基づき実施された第一級母親試験に合格し、『母親』として国家に認定されたことを通知します。
合格通知日 永安二十年 一月十五日』
その通知をもらった瞬間、私は手に持っていたタブレットを落としそうになった。全身が熱くなり、手が震え、目は何度も瞬きを繰り返す。呼吸が浅くなっていることに気がついたのは少し苦しくなってからで。深呼吸をすると、滞っていた血液が酸素と一緒に喜びまでもを全身に行き渡らせた。
「やっと!」
私は感情を押し殺したような小さな声をあげる。本当は跳ね回りたい気持ちでいっぱいだったけれど、そこはグッと我慢した。だって、私はもう立派な大人だ。『母親』だ。そんなことで、子供のように跳ね回ったりなんかしない。
心は浮き立っているけれど、足は地につけて……
私は居住用に政府から貸し与えられている3LDK、そのリビングにあるソファーに、いつの間にか浮かせていた腰を落ち着かせた。そうして信じられない面持ちで、もう一度政府から来た通知書をじっと見つめる。穴が開くほどに見つめる。
確かに、一次試験の一般教養試験も、専門試験も、DNA試験も、ほとんど満点だったし、面接だって緊張することなく受け答えすることができた。
最後の実技試験だけは緊張してよく覚えていないが、こうして合格通知をもらっているのだ。きっと大したヘマはしなかったのだろう。
でもまさか、倍率一〇〇〇倍とも言われるあの難関な試験を自分が突破しただなんて信じられなかった。しかも、第一級だ。『オーダーメイド』の『母親』だ。
私はタブレットを胸に抱き、瞳を閉じて、震える心臓を落ち着かせる。
全力疾走後のような鼓動がようやく落ち着きを取り戻し、呼吸が整って、私はそこでようやく自分が『母親』になれるのだという実感を得た。
昔『母親』は職業ではなく、子供を産んだ女性全員に冠される役割の名称だったらしい。男性の『母親』がいないというのは今では考えられないが、生殖機能の関係でそうなっていたのだろうということは想像に難くない。
立場であり、身分であり、境遇だった『母親』は、今やこの世の中で最も尊い職業とされている。
そして、『母親』は二種類ある。いいや、正確には、人類は二種類あると言った方が正しいかもしれない。
それが、『オーダーメイド』と『レディメイド』だ。
オーダーメイドは、上位数パーセントの選ばれた人間の卵子と精子を組み合わせ、将来の職業もある程度決めた上で生み出す一点ものである。彼らは将来、国を動かしたり、偉大な発明をしたりして、国に、世界に、貢献をすることを求められる。
反対にレディメイドは、適当に選ばれた卵子と精子を無造作に組み合わせただけの大量生産人だ。使われるのはもちろん、私たちが十八歳になると提出する卵子と精子である。彼らの目的は人口の調整で、レディメイドのおかげで人類は人が増えすぎることも減りすぎることもなくなり、安定的な種となった。
そして、オーダーメイドを育てる『母親』を第一級。レディメイドを育てる『母親』を第二級と区別する。もちろん、第一級の資格を取る方が第二級を取るよりずっとずっと難しい。
生まれる前に将来がある程度決まってしまうこの制度を批判する者もいるが、私はこの制度をとても良いと思っていた。この制度のおかげで私たちの世界は随分と効率的で、機能的で合理的になっているからだ。
それに、お母さんもこのシステムに賛同する一人だった。
私のお母さんもオーダーメイドで、第一級の『母親』だった。しかも、オリンピック選手と、政治家と、世界屈指の名医を育て上げ、国からも表彰された素晴らしい『母親』だ。ニュースにも何度も取り上げられて、その度にキャスターAIが『「母親」適性のみなさん、彼女みたいな「母親」を目指しましょうね』と、私の代わりにお母さんのことを全国に自慢してくれた。
私はそんなお母さんが誇らしくて、自慢で、尊敬していた。だから私も、お母さんみたいな『母親』になりたくて、今まで頑張ってきたのだ。
「優秀な子供を育てたら、お母さん、褒めてくれるかな」
私の唇からはそんなふうに漏れていた。
合格通知を受け取った次の日から、私の仕事は始まった。
最初の仕事はもちろん、いい父親選びである。最初にして最大の仕事だ。
第一級の『母親』になると、国から子供を育てるための十分な衣食住と父親のカタログが与えられる。当然、私の元にも同じものが贈られていた。
私はタブレットに表示された父親のカタログを捲る。
年齢、身長、体重、性格傾向、遺伝子的な相性にどこの大学を卒業して、どんな職についているか等々。最後には、生まれて来るだろう子供の予想写真と予想される職業が添えられていた。
それが二十人分。
遺伝子的にはどれを選んでも優秀な子供が生まれて来るはずだ。そのどれもが嫌だという話ならば、申請後、また違うカタログが送られてくる。
私がカタログで重要視した項目は二つ。
一つはもちろん、どんな子供が生まれてくるか、だ。これが最も重要である。政府の発表によると、最近足りないのは、法律・士業・政治系の素質がある子供らしい。特に官僚に適性がある子が足りないと書いてあった。逆にアスリート系の素質がある子供は数年前のブームもあり、少し飽和状態だという。
このへんの見極めも『母親』の仕事だ。特に第一級の『母親』にとって子供はトロフィだ。自分の子供が将来より優秀なポジションにつけるように、素質人口の分布まで見極めて子供を作らなくてはならない。
「廃棄になるような子だけは、作らないようにしないと」
私は気になった父親にチェックをつけながら、そう零す。
傷害や窃盗などの重大な罪を犯した子供は、『母親』の申請により、廃棄されることがある。ここら辺は『母親』の裁量なので、子供に情が移ってしまい問題児を一生懸命育ててしまう『母親』もいるのだが、大抵は碌な結果にならないらしい。もちろん殺人などを起こした子供は問答無用で廃棄なのだが。
カタログをさらに捲る。
私が重要視したもう一つの項目、それは古典的受精をしてくれるか否かだ。
古典的受精。つまり、性行為である。
今はもう子供を作るためにそんな蛮族的な行為を人間に求める人はほとんどいないけれど、今でも稀にそういうのを許容している男性がいて、カタログにも古典的な受精方法をしてくれるか否かが記載されているのだ。
私がこんな不良的な行為を望むのには理由があった。
とても信じられない話かもしれないが、私は自分の子供を自分の腹で育ててみたかったのだ。
「なんでわざわざそんな危ないことするの?」
「人工子宮と人工羊水で育てた方がIQの高い子が生まれるって話もあるのに!」
「そんな時代遅れなことやめなって!」
私の話を聞いて、友人たちはそんな悲鳴をあげていた。
「でも、昔はみんな自分の腹で自分の子供を育てていたんだよ」
「水泳の衣手選手だって、古典的受精と古典的出産で生まれたらしいじゃん」
「優秀な子供が産まれないなんてのも嘘だよ」
私がそんなふうに反論すると、彼女たちはまた気炎を上げた。中には「行為に興味があるだけなら、そういうの好きな人、紹介してあげるからさ」なんて、侮辱的なことを言う人だっていて、優秀な子達だと思って仲良くしていたけれど、レディメイドの見識なんてそんなものかと少しがっかりしたりもした。
それに、私のお母さんも最初の子だけは人工子宮に頼らずに自分の腹で育てたと言っていたのだ。なら私も、お母さんがやったようにやらなくっちゃいけないだろう。
程なくして私は、古典的受精によって第一子を授かった。
父親は医師をしているドイツ人で、遺伝子的な相性は最高。将来は彼と同じように医者か、弁護士か、外交官あたりの子供が産まれてくるらしい。官僚の素質だって十分に確保できたと思う。
受精に至るまでの行為自体は気持ち悪いとしか言いようがなかった。痛かったし、内臓が引っ掻き回される感覚が苦しくって、私は何度も行為中に泣いてしまった。興奮しているのか、男の息遣いが荒々しくて、しかも乱暴で。会った時はどちらかといえば紳士的だったのに、その豹変ぶりも本当に恐ろしかった。しかも一度だけでは受精に至らなかったので、それから五度ほど彼と私は行為をした。五度目の行為になるともう慣れてきて、さすがに泣きはしなかったけれど、子供を授かったとわかった時はもうあんなことをしなくていいのだと、別の意味で泣いてしまった。
私はまだ大きくもないお腹を撫でる。自分の中に違う生き物が入っているのだと思ったら、ちょっとどころかだいぶ変な気分だ。
「私、ちゃんとしたお母さんになれるかな……」
メンタルケアを怠っていたからか、そんな不安が口から漏れる。
こんなことではいけないとわかっているのに、頭の中には得体の知れない靄が広がり、呼吸が浅くなった。
お母さんのような『母親』にならなければ。
誰もが認めるような、お母さんが褒めてくれるような、素晴らしい『母親』にならなければ。
期待と不安と願望が入り混じって、頭の中を駆け巡る。
これが教科書で読んだマタニティブルーというやつなのだろうか。
私は現実から逃げるように瞳を閉じた。すると、すぐに睡魔が足元から這い上がってくる。
妊娠すると眠たくなるのだと知識の上では知っていたけれど、実感するのはその日が初めてだった。
◆◇◆
レミーが自分の子供を食べたのは、私が十歳の時だった。
その時の光景は、今も鮮明に覚えている。昨日のことのように思い出せる。
透明なプラスチックのゲージの中に敷かれた木屑。
陶器で出来た小さな餌の器。
壁際には回し車があって、手作りの巣箱の中にはいつものようにレミーがいた。
彼女は巣箱のまあるい穴から顔を出したり引っ込めたりしながら、まるでいつも通りだった。可愛い可愛い、ジャンガリアンハムスターだった。
しかし、そんないつも通りのレミーの側に、いつもは見かけないものが落ちていた。
それは肉塊だった。
正確には彼女の腹の中にいたはずの子どもの頭部だった。
生まれて間もなく食べられたのだろう。小指の先ほどもないその小さな頭部は、目を開くこともなく、ただ静かに転がっていた。
私は悲鳴さえも上げることなく、ただただ無言で、彼女が産み落とした命のかけらを見つめていた。
その時の気持ちは、今振り返ってもよくわからない。
悲しかったのか。
怖かったのか。
羨ましかったのか。
ただ驚いてしまっただけなのか。
もしくはその全部だったのか。
私は子どもに向けていた視線を、餌の器にスライドさせる。そこには私の予想と反して昨晩やった餌がまだ残っていた。
「どうして……」
呆然と立ち尽くす私に、いつの間にか後ろにいたお母さんが優しく声をかけてくれる。
私の肩に手をかけて、耳元で囁いてくれる。
「レミーはいい『母親』ね。この子は育てられないって、自分で判断したの」
お母さん曰く、ハムスターなどの動物は、産んだ子どもが弱っていた場合、育てられないと判断して胎盤と一緒に食べてしまうことがあるそうなのだ。だから、決して餌が少なかったとか、栄養が足らなかったとか、そういう理由でレミーは自分の子どもを食べてしまったわけではないらしい。
自分のせいではなかったとほっとする私に、お母さんは更に教えてくれる。
「自然界ではよくあることなのよ。他の子どもを育てるために、出来が悪い子は仕方なく食い殺すの。レミーも辛かったでしょうね。でも、仕方がないことなの」
お母さんの言葉に私は、そうか、と思った。
レミーは自分の子どもを『食べた』のではない。『殺した』のだ。
殺す手段として食べたのであって、レミーの目的は栄養を取ることでも、お腹を満たすことでもない。子どもを処分することにあったのだ。
他の子供を育てるために。優秀な遺伝子を残すために。
お母さんはレミーを自身の手のひらの上に乗せると、まるで褒めるように彼女の背中を撫でた。私にもめったにそんなことしてくれないのに……とちょっとむくれそうになったが、お母さんには何も言わなかった。
だって、お母さんに褒めてもらえるようなことをしない私が悪いのだ。優秀でない私が悪い。オーダーメイドなのに、適性が少ない私が悪いのだ。
そういえば、レミーだけだった。失敗しても殺さなくてよかった子は。
あの子だけは最期までお母さんに可愛がられていた。
レミー、レミー、レミー……
あのレミーは一体何番目だっただろうか。
あぁ、そうだ。三番目だ。
子供を食い殺したのは、確か三代目のレミーだった気がする。
◆◇◆
それから月日はあっという間に過ぎ、私は第一子を出産した。
麻酔薬を使用する通常分娩と、昔ながらの有痛分娩のどちらで出産するか問われて、医療行為である有痛分娩を選択したことを、私は分娩中に後悔した。すごくすごく後悔した。なんでも昔に準じればいいという話ではないらしい。こんな痛みを味わうぐらいならば子供なんてもういらないと、私はいきみながら何度も思った。昔の『母親』が子供を一人か二人しか作らなかったのも頷ける。
そういった経験から、新生児の子育てはあまり古典的な方法にこだわらないことにした。乳児用の酸素カプセルだって使ったし、母乳ではなくミルクにした。夜泣きがひどい時はヒューマノイドを申請したし、新生児教育の教材だってホログラムを採用した。もちろんカリキュラムは私が組んだけれど。
そして、生後半年を過ぎたあたりで、出産した医療機関から通知が届いた。
子供のDNA検査の結果通知だ。DNAから予測される将来の性格や、行動。生活習慣病のリスクやそれぞれの病気のなりやすさ。IQ、EQ、AQなどといった指数の予測。それらから推測される職業適性。言うなれば、子供の初めての通知表である。
私は第一級母親試験の合格通知を開く時以来の緊張感で、タブレットに表示された通知を開く。
そして、再び歓喜した。
健康面はもちろんのこと、性格面も問題なし。医者の適性も、弁護士の適性も、外交官の適性ももちろんあったし、官僚の適性も揃っていた。引っ込み思案の気があるというのだけは気になったが、ほとんど思った通りだ。望んだ通りの子供である。
完璧だ。これ以上ないほどに完璧だ。
私は寝ていた子供を抱き上げると、ぎゅっと抱きしめた。安眠を妨害されたからか、子供はすぐに泣き出してしまう。けれど、しばらくゆするとおとなしくなった。
「すごいわ! ルイ、本当にすごい!」
私は頬擦りをしながら子供の頭を優しく撫でる。それはまるで、お母さんがレミーにしていた行動そのもののようで、私は胸が熱くなった。だって、自然にお母さんと同じような仕草が出てきていたのだ。私もお母さんと同じような立派な『母親』になれるのかもしれない。
私が喜んでいることが伝わったのか、子供は大きなまんまるほっぺを引き上げて、「あー!」と声を上げた。そして「えっえっえっ」と目を糸のように細めて笑う。
ちなみに、ルイというのは私が産んだ子供の名前だ。
生物学上の性別は女性だったけれど、今後のことも考えて女性でも男性でも違和感のない名前をつけた。
これならもし失敗して、次をはやくもうけることになっても大丈夫だからだ。
今の科学をもってしても男女の産み分けは難しい。
再び眠ってしまったルイをベッドの上に降ろすと、私は胸に手を当てた。大丈夫だ。お母さんの教えはずっとこの胸に生きている。先ほど自然に出てしまった行動がその証拠だ。
私だって、あの時のレミーのようにお母さんに撫でてもらうんだ。
◆◇◆
ルイは順調に大きくなった。大きな病気も怪我もすることなく、偏食と少しの癇癪は私を困らせたけれど、それもさしたる障害とはならず成長した。
正確には、その時々で私は困ったし悩んだけれど、振り返ってみればどうとない話だったという話なだけだ。
ともかく彼女は五歳になった。
その頃の私には二つの大きな悩み事があった。
一つはもちろんルイのことだ。
五歳になり、初等教育の前段階として私は彼女にいろいろなことを教えていたのだけれど、彼女はとても落ち着きがなかった。勉強が始まってから最後まで机についていられないのだ。最初の十五分などはきちんと机に座って私の話を聞いているのだが、段々と姿勢が悪くなり、ペンを手で弄ぶようになり、タブレットにも集中しなくなる。勉強に身が入っていないのは明白で、何度注意しようがそれは変わらなかった。
私としては、育児にも慣れてきたし、次の子供をそろそろ……なんて考えていたのに、これではちょっと次などは考えられない。
さらには、五歳になった月から、月に一回の学力診断テストが始まっていた。
オーダーメイドとして生まれた者の義務であるそのテストで、ルイは常にうちの地区一番の成績を残していたのだが、その成績順位表でルイとは別に気になる子がいたのだ。
玉坂リリコという、レディメイドの子である。
ルイ以外にも二人ほどオーダーメイドがいるその地区で、リリコはルイに次いで二番目の成績を残していた。しかも、点数はルイとあまり差がないのである。
これに私は危機感を覚えた。
オーダーメイドの子が、レディメイドの子に負けるわけにはいかない。
これは第一級の『母親』が持つ共通認識で、ゆえに私も今までに増してルイに勉強をさせなくてはと、妙な焦りを持っていた。
「おかあさん、わたし、絵がならいたい」
ルイがそう言ったのは、私が彼女に対する指導をさらに厳しくし始めて一ヶ月ほどが経ったある日のことだった。
彼女が両手で抱えるようにして持っていたのは、先日図書館で借りた西洋絵画の分厚い本。
普段は勉強に必要な本以外読ませないようにしているのだが、どうしても借りたいと言うので渋々借りるのを許可した本である。
きっと断られると思っているのだろう、ルイの顔は緊張でこわばっていた。
私はそんな彼女を見下ろし、しばらく考えてから、口を開く。
「いいわよ」
「え?」
「いいって言ったの。いい先生を探しましょうね」
瞬間、彼女の顔はまるで太陽のように輝き「ありがとう!」と頬を染めた。
正直に言えば、私はルイに絵を習わせたくなかった。
当然だろう、彼女には芸術系の適性がないのだ。それはDNA検査の素養適性でもはっきりしていることで、そこを伸ばしたところで、将来なんの役にも立ちはしないことは明らかだった。だから、本当はそんな無駄なことさせたくなかったのだ。
それに、ルイには今まで以上に勉強に打ち込んでもらわないといけないのだ。そんな無駄なことに使える時間なんて一秒たりともないのである。
それでも、私がいいと言ったのは――
「その代わり、今まで以上に勉強を頑張ること。いいわね?」
「わかった!」
彼女とこの約束をするためだった。
人に思うように動かすためには、時にはその人間の要求を飲まなければならない。
人を従わせるためには、その人間の大切なものを握っておかなければならない。
どちらも、お母さんに学んだことだった。
お母さんの教え通りに動いたからか、絵を習い始めてからというもの、ルイはさらに勉強に打ち込むようになった。リリコとの点数の差も広がり、私は改めてお母さんの偉大さを実感した。
……同時に打ちのめされてもいたのだが。
「やっぱり、返ってきていないか」
ルイに絵を習わせ始めてから数ヶ月後、私はメールアプリをスクロールしながら、肩を落としていた。
これが、私の二つ目の悩みだった。
実は数年前から、お母さんからのメッセージが返ってこなくなっていたのだ。
最初の頃、それこそ『第一級母親試験』に合格した時は、私のメッセージにお母さんは何行ものメッセージを返してくれていた。
驚きの言葉から始まって、『それは、よかったわね』という私の努力を労う言葉が後に続き、その後は私のよくないところが書き連ねてあり、お母さんの頃の母親試験の方が厳しかったなんて昔話も入っていたりして、最後には『私に迷惑をかけないように、これからも頑張りなさい』なんていう、叱咤激励なんかも書いてあった。
ルイを身籠った時も、産んだ時も、一才の誕生日を迎えた時も、私の写真付きメッセージにお母さんは『そう』『わかったわ』『よかったわね』なんて、簡潔だか律儀にメッセージを返してくれていたのに、今では全く返してくれなくなっていた。
今回だって、お母さんの教え通りに動いてルイの成績が上がったことも報告したのに、全く反応を返してくれない。
お母さんが返信しやすいように幾重にも重ねてお母さんのことを褒めちぎったし、
『ルイもお母さんのこと尊敬しているみたいだよ』
なんて、ありもしないことを書いたりもしたのに……
「まだ、足りないんだろうな……」
私は唇を噛む。
優秀な子を産んだからなんだ。
成績が少し上がったからなんだというのだ。
お母さんはもっと優秀な子を育ててきたし、きっとこれからも私の優秀な兄弟たちは増えていくのだろう。
ルイをもっと優秀な子に育てなければ。
ニュースになるような、世間の注目を浴びるような子に育てなければ。
そうすればきっとお母さんは私のことを見てくれる。
褒めてくれる。
全てはルイだ。
ルイが優秀な子に育てば私は。ルイを、もっと――
「おかあさん、あのさ」
私の思考を止めたのはそんなルイの声だった。
私が「なに?」なんてつっけんどんな言葉を返すと、彼女は少し身体をびくつかせた後、もじもじとつま先を擦り合わせた。
「今度ね、絵の発表会があって。お母さんに見に来てほしいんだけど……」
「お母さんは忙しいの」
イライラしていたからか、口から出た言葉は思ったよりも刺々しかった。いつもならばこんなふうに感情を表に出すようなことはしないのに、タイミングが悪かったのだろう。
しかし、いつも通りではないのは私だけではなかったようで、「ちょっとだけでいいから!」とルイはめずらしくかぶりついてきた。
「おねがい。勉強、頑張るから……」
「考えとくわ」
私がため息混じりにそう言えば、彼女は「うん」と一つだけ頷き、自分の部屋に帰っていった。
正直、ルイは甘えていると思う。私はあんなふうにお母さんに何かを強請ったことはなかった。
この前、公園に連れて行った時もそうだ。
子供の成長に必要な運動量の確保に週に二回は彼女を公園に連れて行っているのだが、そこで彼女は私に「一緒に遊ぼう」と言ってきたのだ。
私はこれに驚きを禁じ得なかった。
だって『母親』は彼女の庇護者ではあるけれど、監督する立場ではあるけれど、お友達ではないのだ。あまりの言葉に言葉をなくしていると、彼女はさらに「あそこのお母さんは一緒に遊んでるよ」と、たまたまそこに来ていたレディメイドの『母親』を指したのだ。まるで、彼女たちよりも私が劣っているかのような台詞にカッとなった私は、そのまま彼女を引きずって家まで帰ってしまった。
後からお仕置きとして二、三度殴ったが、もう少し殴っておけばよかったと後になってから後悔した。
「なんでこんなにわがままなのかしら……」
ルイが去っていった方向を見ながら、私はそうため息をつく。
私はあんなふうにお母さんになにかを強請ったり、お願いしたことはなかった。
子供の成長に必要な運動量の確保だって公園に行かず家で済ませていたし、一緒に遊んでもらった経験なんて全くない。強請ったことならば一度だけあったけれど、その時は「貴方に遊んでる暇があると思うの?」と手の甲をペンで刺されてしまった。その時の傷は未だ手の甲にほくろのような形でしっかりと残ってしまっている。
「ずるい」
漏れた声に自分自身が一番驚いた。何がずるいのかわからなくて思考が停止する。
もしかして私は、ルイに嫉妬しているのだろうか。お母さんに何かを強請れる、わがままを聞いてもらえる彼女を、羨んでいるのだろうか。
そんな自問自答に答えが出ないまま、やっぱりお母さんからの返信は来ずに、それからまた一週間ほどの時間がたってしまった。
◆◇◆
ルイと約束した絵の発表会を翌日に控えた日、私はいつになく憂鬱な気持ちでいた。
その理由は手に持っているタブレットにあった。
画面には、私のお母さんのインタビューが表示されている。
どうやら私の兄弟が将棋で新しいタイトルを取ったらしく、素晴らしい子供を育てた『母親』として、お母さんはインタビューを受けたようだった。
『五紀の才能は最初から抜きん出ていました。全てはあの子の努力によるもの。努力ができる子供を育てるのに少しコツはいりますが、それについてこられたのも、あの子の実力です』
続けてお母さんは、自分の子供たちのことを並べて褒めていた。
豪胆な政治家。素晴らしいアスリート。偉大なる芸術家。屈指の名医。卓抜した俳優……。
しかし、そこには私の名前がなかった。
兄弟の中で私だけ。私だけ、名前がなかったのだ。
胸の中に焦げ茶色の感情が広がる。
心臓が嫌な音を立てて、そわそわと落ち着かない。
叫び出したいような、走り出したいような、なにかを殴ってしまいそうな衝動が身体中を巡って。だけど実際の身体は鉛のように、指一本も動かす事が出来ない。
この感情は、劣等感、だろうか。
それとも、焦燥? 怒りが近いような気もしてくる。
「うっ――」
私は、直後に走った腹部への痛みに身体をくの字に曲げた。
それは覚えのある痛みだった。長年付き合っている痛みだった。
私はカレンダーを確かめて、頭をかきむしる。そして、諦めたようにトイレに向った。すると、やっぱり下着が鮮血で真っ赤に染まっていた。
生理だ。
生理がやってきたのだ。
毎月やってくるこの不快感と痛みを味わうたびに、みんなのように避妊手術をすればよかったと後悔してしまう。
今や避妊手術をしない女性は十%にも満たない。だって、その方が合理的だからだ。股の間から血が垂れ流される一週間なんて、普通の神経をしていたら耐えられるものじゃないし、PMSなんて不快感極まりない。過激な人だと子宮をとってしまう人もいるが、その場合は女性ホルモンを定期的に打ちに行かなくてはならなくなるので、あまり人気がある処置とはいえなかった。
そんな中、私が避妊手術をしないのには理由があった。
『あぁ、ちゃんと生理が来たのね。よかったわ。これでちゃんと「母親」になれるわね』
初潮を迎えた日、私は初めてお母さんに褒められた。
お母さんは『母親』であることに人一倍誇りを持っている人だった。
お母さんからしたら子宮というのは母親の象徴で、人体において最も神聖な器官だったのだ。いろいろなものに合理的なお母さんだったが、避妊手術だけはしていなくて、閉経だってとても残念がっていた。
人間が生殖という機能を手放し始めてもう百年という月日が流れている。中には、子宮が進化してしまい、妊娠はできないが生理も来ないなんて人間も生まれてきていて、もし私が生理が来ない側の人間だった場合、お母さんは容赦なく私を見放すのだろうな、ということは、初潮が来る前からなんとなく理解していた。だから、私は初潮が来てとてもほっとしたし、すごく嬉しかったのだ。
その時の思いが、恐怖が、安堵が、今も私のなかでしこりとなって残ってしまっている。
(でももう、手術をしてもきっと怒られたりはしないわよね……)
お母さんは、きっと私などにはもうなんの興味もないのだろう。
お母さんの元から離れて、『母親』になった時はまだ希望があったが、今はもうさすがにわかっている。理解している。
でもそれなら、私は何のために『母親』になったのだろう。
お母さんに褒めてもらいたくて、頭を撫でてもらいたくて、ここまで一生懸命頑張ったのに――
「このひと、だあれ?」
トイレから戻ってきた私を迎えたのは、そんなルイの声だった。
リビングにいる彼女の手には、タブレットが握られている。その画面にはインタビューに答えているお母さんの写真がでかでかと表示されていた。
私は慌ててルイに駆け寄り、タブレットをひったくる。そして、咄嗟に背中に隠した。
「なにしに来たの?」
そう低い声を出すと、ルイは紙の束を差し出してくる。
「きょうやった、おべんきょうのほうこく」
「そう……」
「この人、だれ?」
「それは……」
「おともだち?」
「……おかあさんの、お母さんよ」
『あなたのおばあちゃん』とは言いたくなかった。
だって、お母さんは私のお母さんなのだ。
決してルイのおばあちゃんなのではない。
「そっか、おかあさんのおかあさんか」
ルイの声色は少しだけ柔らかくなる。
そして、何かを逡巡したのちに「おかあさんも、自分のおかあさんが大好きなんだね」と無垢の笑みを見せた。
その言葉に私はしばらく呆けたあと、目を泳がせた。
そして、震える指で自分を指す。
「ルイは、お母さんのことが好き?」
「うん。大好き」
その響きに私は思わず膝を擦り合わせたくなった。
なんだか変な感覚だ。
胃のあたりがじわじわと温かくなって、身体の奥がむずむずする。
『大好き』なんて、どこにでもある言葉だ。
でも、彼女以外の誰かに私はそんなことを言われたことがあっただろうか。
父親譲りの緑色の目を細めてルイは笑う。
手入れをしていないボサボサの栗毛に、細長い手足。
国から支給されたあじけない半袖の白いワンピースを着た彼女がそこにいた。
ルイの口元に黒子があったのを、私はこの時初めて知った。
というか、彼女はこんな顔をしていたのかと、働かない頭でぼんやりと考えたりもした。
翌日、チケットを携えて、私は絵画教室の発表会を見に行った。
近くの小さなホールを貸し切って行われたそれは、思ったよりも規模が大きくて、ちょっとびっくりしてしまった。
メタバースが発達した現代でも美術展などはリアルで行われることが多いイベントだが、まさか子供の描いた絵でこんな風に絵画展もどきのようなことをやるとは思わなかったのだ。
これはルイも来て欲しいと強請るわけである。
私はチケットに書いてあった番号の元へと向かう。そこにルイの描いた絵が置いてあるらしい。
正直なことを言えば、私は期待していなかった。
なぜなら、ルイには芸術系の適性がないのだ。
だから、どう評価すればいいのかわからない絵を見させられて、「どうだった?」と目を輝かせるルイに、苦肉の策の「良かったんじゃない?」を絞り出すのだろうと思っていたのだ。
けれど、目の前に広がった光景に私は息を呑んだ。
大きな花が咲いていた。
赤い赤い大きな花。
一辺が二メートル近い大きな正方形のキャンバスに、彼女はキャンバスから飛び出さんばかりの大きな赤い花を描いていた。
筆使いは迷いがなくて荒々しい。赤い花だが使っている絵の具は赤だけじゃなくて、オレンジや緑や青なんかも見え隠れする。
一言で言うのならば、素晴らしい絵だった。
私にはそれが彼女の才能の爆発を表しているように見えた。
◆◇◆
小学生になっても、ルイは絵を止めていなかった。
あの赤い花の絵は先生からはイマイチな評価をもらっていたけれど、私が感じた才能の種と彼女自身の希望により小学校に上がっても絵画教室は続けることになったのだ。
もちろん勉強をおろそかにしないという条件付きだが。
ルイは以前にも増して絵にのめり込むようになっていった。
そして、私たちの関係も以前とは少し違ったものになっていた。
なんと言えばいいのかわからないが、私は『母親』らしくなくなってしまって、ルイも子供らしくなくなってしまっていた。
それを最も感じるのはこんな時だ。
「おかあさん、海の絵が描きたいの。今週末、海に連れて行って!」
「いいわよ。でも、今度のテスト、その分頑張れる?」
「もちろん! おかあさんだぁいすき!」
そう言ってルイは私に抱きつくのだ。
私もそんなルイを抱きしめる。
こんな育て方、お母さんからは教わっていなかった。
だけど、もう別にいいのではないか。
だってもう、お母さんは私のことなんて見ていないのだ。私に興味なんてないのだ。
それなら別にどう育てたって自由じゃないか。
なによりこうやって育てていると、ルイは私にいつもいつも『大好き』をくれる。
お母さんもくれなかった『大好き』を私にたくさん与えてくれる。
私の心はかつてないほどに満たされていた。誰かから『大好き』だと言われることがこんなに幸せで尊いものだとは思わなかったのだ。
買ったばかりの青いワンピースを翻しながら、彼女は砂浜で笑う。ぷっくりとした健康的なほっぺに、私は日傘の下で顔を綻ばせた。
◆◇◆
中学生になってもルイはまだ絵を描いていた。
この頃になると、私もかなり落ち着いていて、やはりルイには芸術の才能がないのだとわかっていた。
それでもルイが楽しそうに絵を描くから、そのままにさせていた。
その時の私は、彼女が描いた絵よりも、彼女が楽しそうに絵を描く姿の方が好きだったからだ。次のテストがよかったら、ルイのために空いている一室をアトリエにする約束をした。こんな腑抜けた姿、昔の私が見たらきっと激怒してしまうだろう。
ルイは今日も私が編み込んだおさげを揺らしながら、楽しそうに絵を描いている。
穏やかだった。日々がとても穏やかだった。私は初めて平穏というものを知ったような気がした。
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