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捉え直すこと - 秘密結社「喫煙所」(第29通目)

この記事は、素直さと向き合おうとしているふたりが、答えのないことを問い続けていく文通マガジン『秘密結社「喫煙所」』の第29通目です。お互いの記事を読んで、文通のように言葉を紡いでいきます。

秘密結社「喫煙所」

タオさんへ

まさに「もうその言葉いいよ〜」って、感じだった笑
でも、確かに、なぜ自分はこの言葉にモヤモヤするのだろう。せっかくいただいたお題なので、真摯に向き合いたいと思います…

まず、自分に対して「自己肯定感」という捉え方はしなくて、この言葉によって、なんというか、探求が止まってしまう感じがあるから、強い違和感があるんだろうね。

ありのままの自分を認めるか否かというより、形作られたものをどう捉えるのか。そこに興味があるんだと思う。それを自己肯定感としてしまうと、途端に味気なくなってしまう。面白みに欠ける。

自己というものが絶対的に存在していて、その存在を肯定している状態が正しいという前提が、この言葉が使われる背景にあると思うんだけど、その二つの前提に対して、そもそも腑に落ちていない。

タオさんが言っていたように、「捉え方が変われば自分に対する見え方も変わる」と俺も思っていて、海に潜っていくように自身を深く見つめてみると、捉え方は流動的で、見方は変わるものだという感覚がある。そして、そこには、他者性や世界という大きな流れもあると確かに感じていたり。

今の見方が自分であり、ありのままだとだとは到底思えないんだよな。暫定的な捉え方は持つんだけど、それは常に変化する可能性があって、いつだって捉え直せる。そんな風に構えている。だからこそ、探求いうか、自身が思ったことに、「おおそう思うのか」という驚きがあって、そういった発見がおもしろい。

自己って肯定するものでもなく、そこにあったというか。それらを拾い集めて、自分というものが存在している"可能性がある"ぐらいで、認めるも何も、既にあったものをじっくり見ることなのかなと思っている。

自分を責めるように抑圧的だったり、自身の捉え方に戸惑ったりすることも、もちろんあったりする。だけど、それに対して、肯定するも何もそういう話じゃないって思っちゃうかなぁ。そうなっちゃったみたいな。それが既に肯定感と言われればそうかもしれないけど。いや、やっぱりここまで書いてきたように、肯定ではなく、あったものを見つめるだけって感じだ。

「捉え直す」って言葉を好んで使うんだけど、すごく腑に落ちていて。今はこう捉えて、実感として掴んでいるんだけど、そういった思考がこぼれ落ちたり、離したりして、また新しい発見を捉えていく。そういう旋回していくような感覚がとても楽しい。

わからないことは怖いのだけど、それでもわからなさを探求していくし、わからないと思えること自体が楽しくなっている。苦悩することに留まること、矛盾を共存させることに慣れてきていて、だからといって、すごく辛くなったりもするのだけど、そこはたぶん、自分の生の螺旋だと思うから、引き続き、旋回していこうと思ってしまった。

ということで、自己肯定感はやっぱり使いたくない言葉です。

・・・

自由ってなんだ。今はエアコンと扇風機の贅沢セットが満喫できればいい

俳句や短歌も、既にあるものに気付くという文学、というか遊びなんじゃないかなと思った。遊びという言葉も最近気になっていて、捉え直していくと、色々な矛盾や板挟みみたいな思考になったりすると思うんだけど、それ自体を遊びだと思うと、わりと楽しいと思えるようになった。俳人、歌人って、口頭で名乗られたら、絶対「え、はい?」ってなりそうだよね。

【今回の問い】

【前回の問いと返事】

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