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教員になってから使わなくなった2つのことば

「ことばは人の行動を規定する。」そんな風に思っている。

例えば,「自分は〇〇が苦手だ」のように,本当は苦手ではないけれど,周りと合わせるためにそう言っていると,いつの間にか苦手になってしまう。みたいなこと。

本当は思ってもいないことばでも,使い続けていくと,そんな気になっていってしまう。良くも悪くも。

記憶の書き換えなんかと同じような仕組みだと思う。

今日は僕が教員になってから,意識的に使わないようにしていることばの話をしたいと思う。ことば狩りをしたいわけではなく,ことばの使い方で自分のMindsetにも影響すると思っている人間なので,教員としての自分の心がまえについての話だと受け取ってもらえれば嬉しい。

言わなくなった2つのことばはつぎのとおり。
1. 「でも」
2. 「〜べき」

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1. 「でも」
このことばは,口語表現でいう否定表現の接続詞。つまり,相手のことばを否定し,自分の意見を伝えたい(強調したい)時に使うものだ。英語だとBut。

使われた相手からすると,自分の意見が否定され,さらに他の意見を重ねられる最恐ワードだと思っている(大げさ?)。

ADE(Apple Distinguished Educator)になって最初に言われた対話のルールを思い出す。それは,「Yes, and…」で対話をするというもの。

どういうことかというと,一旦Yesと受け止め,さらにそこに続ける形で意見をつなぐ。というものだ。思った以上に人はYes, and...というのは難しい。

この考え方はミディエーションやファシリテーションなどでもよく言われている。

こんな感じで,「でも…」と否定的に受け流すのではなく,「Yes, and…」で発展的な対話ができるよう,気をつけている。

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2.「〜べき」
1と少し似ているかもしれないが,自分の考えを押し付けることばの使い方だと思っている。

「ここではこのように言うべき」「こういう風に行動するべき」などなど,相手のことは一旦おいておいて,断定的に自分の考えやステレオタイプを押し付けることばだと捉えている。

もちろん,なんらかの根拠がある場合は断定することも時に必要だとは思うが,その反面,相手が萎縮してしまい,自由を奪ってしまうような気がして,使うことをやめた。

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ここで紹介した2つのことばが悪いわけではない。僕の考え方とはFitしなかったから使わなくなった(使えなくなった)だけだ。この2つは,自分の意見を強調することや,相手を強く説得する時に役に立つとは思う。

僕が教員になって思ったことは,「人は誰でも成長したがっている」ということと,「その人の可能性を伸ばしたい」ということだった。成長の定義や可能性は人それぞれに違っていて,それぞれが認められるといいなと思っている。

たとえ今は不完全だったとしても,「でも」「べき」ということばで矯正しなくてもいいんじゃないかと思っている。

のびのびとしなやかに成長していく過程で,人は自ら気づき,他の人の振る舞いなどを参考にしながら調整していく力があるんじゃないかと思っている。

そんな成長を支えたいし,そんなことが許される環境を作りたいし,そんな自分でありたい。

そう思ったから使うのをやめた2つのことばの話。

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