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【歴史・時代小説】『縁切寺御始末書』 その一 おけいの一件始末 3

「全く、相変わらず嘉平の早とちりには参りましたよ。母上も、母上です。でかしましたなんて」

 惣太郎は、慌て者嘉平が入れた白湯で、乾いた咽喉を潤しながら苦笑した。
 寺役場の物書き所である。文机を前にして、正面に筆頭の立木宋左衛門(そうざえもん)、右脇には次席の中村清次郎(なかむらせいじろう)が座っていた。左隣は開いている。

 ふと、あそこが自分の席かなと惣太郎は思った。

 外からは、女子どもの騒がしい声がする。惣太郎の連れてきた女のことを噂しているらしい。

「嘉平らしいのう」と、宋左衛門は呵呵と笑う。惣太郎の父である。普段でも重たげな瞼をしているのだが、笑うと大黒さまのように目が細くなる。ゆえに、大黒宋左衛門とか。惣太郎が今朝方まで厄介になっていた郷役人の間だけでなく、百姓たちにもその名で親しまれている。

 因みに母の波江(なえ)は、弁天の波江と呼ばれている。そのむかし、弁天さまのように器量良しだったとか。いまは、布袋さまのように丸々して、大黒さまとお似合いだが。

「女をよくよく見れば、そうでないと分かるだろうに。嘉平も心配りが足らん」と、苦言を呈するのは清次郎。蟷螂のようにほっそりとした顔に、達磨のようなぎょろっとした目、きっと睨みつけられると、鬼でも震え上がってしまうと、閻魔の清次郎と渾名されている。

 寺役人は、全部で3人。あと1人は席を外しているようだ。

 話題の嘉平は、傍らで小さくなっている。

「いや、あっしはてっきり惣太郎坊ちゃまの良い人かと思いまして。坊ちゃまもついに祝言かと、もう嬉しくて、嬉しくて」

「おいおい、まだそんな年ではないよ。それに、坊ちゃまは止してくれ」

「へえ、すみません、坊ちゃま」

 また言ったと睨みつけると、嘉平は海老のように曲がった背中を、さらに曲げて小さくなった。

「すみません。どうもあっしにとっては、坊ちゃまは坊ちゃまで」

 それを聞いて、父はまた笑う。

「いやいや、嘉平の言うとおりだ。嫁のないうちは、幾らご大層な事を言おうが、でかい図体をしていようが、坊ちゃまは坊ちゃまだ。坊ちゃまなんて言われたくなければ、早く身を固めい。どうだ、郷役の中に……」

 話が好からぬほうへといきそうだったので、惣太郎はあの女に事を移した。

「あの娘なら、調所で待たせております」

 と、清次郎が答える。

「うむ、そうか、ならばちょっくらワシが……」と、宋左衛門が右膝を庇いながら、渋々立ち上がろうとする。

「いえ、拙者が調べましょう。立木さまはお抱えの一件がございますので」と、清次郎が代わりに立つ。

「うむ、そうか、ならば任せる」と、宋左衛門はにやつきながら座る。

 まるで田舎芝居でも見ているようだと、惣太郎は可笑しかった。

 清次郎が部屋を出ようとしたとき、宋左衛門が呼び止め、惣太郎に声をかけた。

「おぬしも立ち会え」

「私もですか」、惣太郎は露骨に嫌な顔をした。

「見習とはいえ、おぬしも今日から寺役人だ。仕事を覚えるのなら早いほうが良い。それに、おぬしが連れてきた女でもあるからな。何か縁があるのじゃろう」

 別に好きで連れてきたわけではない。勝手についてきたのだ。と、父であり、上役でもある宋左衛門に口答えはできないので、惣太郎は仕方なく清次郎の後についていった。

 実のところ、惣太郎はこのお役目が好きではなかった。仕事のことで好き嫌いを言ってはならないのだが、やはり人には向き不向きというものがある。

 今朝まで勤めていた郷役では、帳面整理や十露盤(そろばん)弾きなどが主な仕事だった。人と接することは嫌いではない。が、他人の揉め事に巻き込まれるのは迷惑だ。

 小さい頃、父が寺役人として夫婦の揉め事に頭を悩まされているのを見て、絶対にこのお役目だけは勘弁してもらいたいと思ったものだ。

 大体、夫が昼間から酒を飲んだり、博打をしたりで働かないとか、暴力を振るうとか、舅姑(きゅうこ)にいびられるとか、はっきり言って、こっちの知った事ではない。

 そんなもの、当事者同士で話し合ってくれと言いたくなる。

 確かに、涙ながらに門を潜ってくる女たちを見ていると、幼心に可哀想だなと思うのだが、そんな女たちの愚痴を聞かされ、色々と差配してやる父も哀れだと感じていた。

 その気疲れがでたのか、この夏に父が倒れた。幸い、大事には至らなかったが、体丈夫で通っていた父は、よっぽど倒れたことが心に引っかかったと見えて、進退伺いを出した。

 上役もその願いを聞き入れ、では誰に寺役をさせようかとなったとき、父が惣太郎を名指しした。上役も、小さい頃から寺に住んでいたので、仕事もある程度知っているだろうと、見習として入れと言ってきたのである。

 ほんの数年前に元服を終えたばかりの、人生とは何ぞやとさえ語れぬ若造に、自分よりも年上の女や男に、ともすれば父や母ほどの年の夫婦や舅姑相手に、説教のひとつふたつ垂れてやらなければならないお役目を言いつけるのだから、食えない連中である。

 が、これも命令だと言われれば、従わなくてはならない。

 という理由(わけ)で、渋りながら寺にやってきたのだから、仕事に身が入らないのも当然であった。

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