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【歴史小説】『法隆寺燃ゆ』 第一章「小猿米焼く」 後編 1

 田村皇子は、押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとのおおえみこ)と糠手姫皇女(ぬかでひめのひめみこ)の息子である。

 押坂彦人大兄皇子の父は敏達天皇で、母は広姫(ひろひめ)皇后であった。

 広姫は皇后となった年の11月には亡くなったので、この後に額田部皇女(推古天皇)が代わりに皇后となった。

 田村皇子の母の糠手姫皇女は、押坂彦人大兄皇子の異母妹にあたり、母親は伊勢大鹿小熊首(いせのおおかのおくまのおびと)の娘で菟名子夫人(うなのこおおとじ)という。この糠手姫皇女には別名があり、その名を田村皇女といった。

 彼の名は、母親に由来する。

 敏達天皇は、欽明天皇と石姫(いしひめ)皇后の息子であり、蘇我氏の血を引いていない。

 広姫の父、息長真手王(おきながまてのおおきみ)も、応神天皇の末裔であるといわれる息長氏と関係があるので、押坂彦人大兄皇子は蘇我氏との関係が薄い。

 糠手姫皇女の祖父である伊勢大鹿小熊は、『新撰姓氏録(しんせんせいしろく)』、すなわち氏族の由来を記した書物の中に、大鹿首の一族は、「津速魂命(つはやむすびのみこと)三世孫天兒屋根命(あまのこやねのみこと)之後者」とあるので、蘇我氏とは関わりはない。むしろ、中臣氏の系譜に近い。

 つまり、田村皇子は蘇我の血を引いていない。

 境部摩理勢が、蘇我の影響力減退を恐れたのも頷ける。

 ただ、蘇我氏もそんな状況を黙って見ているほどお人好しではなかった。

 蘇我蝦夷の妹の法提郎女(ほほてのいらつめ)が田村皇子に嫁ぎ、古人皇子(ふるひとのみこ)を生んでいる。

 ところで、田村皇子の父、押坂彦人大兄皇子は大王に即位はしていない。大兄 ―― 太子であり、即位することなく没した。

 大王に期待されながら即位できなかった父を持つという条件では、田村皇子も山背王も同じであった。

 田村皇子の政治経験は………………というと、多くの者は首を捻るばかり。彼の名前が浮上したのは、山背王との後継者問題のときが初めてである。

 その彼が、なぜ大王候補に名が上がり、多くの重臣の支持を得たか?

 別段、彼に後継者として資質がなかったのではない。

 厩戸皇子が病に倒れた時に、田村皇子が大王の名代として見舞いに伺ったり、また厩戸皇子から羆凝寺(くまごりのてら)を譲られたりしている。

 後継者としての資質は充分であったが、如何せん山背王と比べると、余りにも影が薄すぎた。

 それは、大王になってからも同じであった。

 田村皇子は、十三年間、大王の位にあったが、何をした人であったかという問いに答えられる人は幾らもいないであろう。

 やはり、その存在感が薄いのが最大の原因である。

 だが、彼だけに原因があるだけではない。

 推古天皇と皇極(こうぎょく)天皇の両女帝や葛城皇子や中臣鎌足、蘇我入鹿等、灰汁の強い人物が周囲にいすぎて、埋没してしまったのだ。

 しかし、彼の治世には、第一回遣唐使が派遣されたように、外交面で多くの実績を残した。

 また、九重塔があったといわれる官営の大寺、百済大寺(くだらのくだらのおおてら)(後の大安寺)の造営も行われている。

 別段、何もしなかった大王と言う訳ではなかったのである。

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