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【歴史小説】『法隆寺燃ゆ』 第二章「槻の木の下で」 前編 18(了)

 鎌子が飛鳥の地を踏んだのは、異母兄の中臣鹽屋枚夫から、大王の葬礼のために手伝いをせよとの書状を受けたからであった。

 そして、彼はこの飛鳥の地で、充実した日々を送っていた。

 やはり飛鳥は良い。

 政治・文化の中心地だけあって、いろいろな情報が飛び込んでくる。

 何より、蘇我殿の下へ通える。

 鎌子は飛鳥に帰って来て以来、毎日のように蘇我入鹿の下に足を運び、三嶋で習得した知識の整合に勤めていた。

 しかし、異母兄の枚夫は、これに不満があったようだ。

「鎌子、今日も林臣の屋敷へ行くのか?」

 鎌子が玄関先で出かける用意をしている時、枚夫が話し掛けてきた。

「ええ、今日は、老子を読み解こうと約束しておりまして。兄上も、今日は大鳥殿の屋敷ですか?」

 鎌子が、入鹿の屋敷に出入りしている間、枚夫は安倍内麻呂の屋敷に出入りしていた。

 が、枚夫はそれには答えなかった。

「鎌子、林臣の屋敷に行くのは控えてくれないか」

 突然の枚夫の言葉に、鎌子は驚いて振り返った。

「なぜですか?」

「なぜでもだ」

 鎌子は不審に思った。

「それは、後継者問題と関係があるのですか?」

 枚夫は、これにも答えない。

「噂は聞いています。大鳥殿や兄上を始めとする重臣の方々が、山背大兄を廃し、大后を大王にしようとしていると。その中臣の息子が、山背大兄を推す蘇我殿の屋敷の通っては、体裁が悪いと言うことですか?」

 鎌子は強く出た。

「分かっておるではないか。では、自重しろ」

 鎌子はムッとした。

「できません。私と蘇我殿のことは、後継者問題とは一切関係はありません。我々は、学問を追及しているのです」

「学問? 本当にそうか? 噂では、林臣は豪族の力を弱め、大王の権力を強めるための研究をしているそうではないか。もしやお前も、そんな馬鹿げたことに付き合っているのではなかろうな」

「どこが馬鹿げたとこですか。蘇我殿は、真剣にこの国を憂いておいでなのです。そのための改革なのです」

「良いか、良く聞け、鎌子。この国は、古来より豪族が取り仕切ってきたのだ。大王家など、ただの飾りに過ぎん。それを大王の力を強め、我らの力を弱めようとは、神罰が下るぞ。この国は、我らのもの。我らが繁栄すれば、国も栄えるのだ」

「違います。この国は、誰のものでもありません。この国は、ここに住んでいる全ての人たちのものです」

 鎌子は、枚夫に食って掛かった。

「お前、そんな幼稚な考えでいるのか? この国が全ての人間のものだと。笑わせるな。この国は、我ら豪族のものだ。豪族がこの国を切り開き。豪族が、この国を治めてきたのだ。民など、我らの奴婢に過ぎん」

「兄上!」

 鎌子の怒りは頂点に達していた。

「鎌子、お前は、父上の言葉を忘れたのか、この中臣家を盛り立てる、それが、我らの使命なのだぞ」

 鎌子は何も言わず、表に飛び出した。

 飛鳥寺の近くで田の手入れをしていた人々の顔を思い出した。

 難波津の魚主の顔を思い出した。

 一生懸命働く荷方たちの顔を思い出した。

 酒場のオヤジの顔を。

 笑い騒ぐ男たちの顔を。

 手を叩き拍子をとる女たちの顔を。

 そして、鎌子の腕の中で眠る赤根売の顔を。

 違う、皆必死になって生きているのだ。

 彼らは奴婢じゃないのだ。

 この国は、豪族のものじゃないのだ。

 蘇我殿も俺も、彼らのために一生懸命勉強しているのだ。

 —— 違う!

 —— 違うんだ!

 鎌子は馬を駆けた。

 駆けて、駆けて、駆け捲くった。

 満点の星空の下を。

 大王の葬礼が終わり、三嶋に帰るまで、鎌子は枚夫と一言も喋らなかった。

 枚夫も、さして話そうとはしなかった。

 ただ、鎌子に命令を下した。

 叔父 —— 中臣國子の名代として、常陸国鹿島郡へ行くようにと。

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