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【歴史小説】『法隆寺燃ゆ』 第五章「法隆寺燃ゆ」 後編 32

「お話のほうは大丈夫なのですか?」

 と、八重女が心配しても、

「ああ、大丈夫、大丈夫、どうせ、建設的な話ではないのだから」

 と、月を見ながら酒を飲んでいた。

「そういえば……」と、杯を置いたところで、「八重子は、斑鳩にいたのだよね?」

「はい、以前」

 兄から昔の話を聞かれるのは初めてで、別に隠す身元でもないが、かと言って、胸を張ってしゃべる話でもないし、聊か気恥ずかしかった。

「その斑鳩寺で、面白い話を聞いてね」

 安麻呂が、よく斑鳩寺の寺司である聞師のところに行き、妹のためだと珍しい木簡などを借り受けてくることがある。

 八重女も、いい暇つぶしになるので重宝していた。

「斑鳩に行かれたのですか?」

「うむ、高安に行った帰りに」

 問題の高安城は斑鳩寺とは目と鼻の先 ―― 蒲生野での薬狩りのあとは、色々と忙しくて行けなかったので、つい先日偵察に行った帰りにちょっと寄ったらしい。

「入師殿も、聞師殿も、元気にしておられた」

「はあ……」

 と、八重女は気のない返事をした。

 入師、聞師といわれても、当時は僧侶と接する機会はなかったので、別段懐かしさもなかった。

「それで、面白い話とは?」

 安麻呂が、入師殿はどうだとか、聞師殿はどうだとか、寺法頭の下氷雑物は相変わらずうるさいやつだとか、八重女には全く面白くもない話をはじめたので、もとの話に戻そうと、口を挟んだ。

 ―― もしかして、これが面白い話だった?

 口を挟んだ後で気が付き、申し訳なかった。

 が、話は別だったので、ほっと胸を撫で下ろした。

「ん? 面白い話? おお、そうだ、面白い話ね。聞師殿から聞いたのだが、寺に面白い男がいるそうです」

「面白い男?」

「うむ、いまは寺で僧侶になっているが、なんとその男、もとは奴だとか」

「はあ……」

 奴婢が僧侶になること自体珍しい。

 が、八重女自身が大伴氏の娘になっているのだから、そんなこともあるのだろうと、その程度だった。

 そんな八重女の興味なさそうな返事に、安麻呂は少々拍子抜けしながらも続ける。

「なんと、その男、半島からかえって来たのだと」

「半島……、新羅からですか?」

「いえ、いまは唐の支配下になっていますが、百済……あの白村江の生き残りらしいですよ」

 白村江の戦から命からがら戻ってきたという話は、以前よく聞いた ―― 確かに、あの戦から五年以上たった今では滅多に聞かない話で、珍しいとは思うが。

 だが、安麻呂の次の言葉に、八重女は反応した。

「その男、斑鳩寺から派遣された奴らしいですよ」

「斑鳩の奴?」

 八重女の反応が良かったので、安麻呂は得意になって話した。

「そう、斑鳩寺から十人ほど百済に派遣されたそうですが、数人は戦が終わった後に寺に戻ってきたそうです。ですが、残りの者は彼の地で亡くなったと、みんな諦めていたそうです。そこにですよ、数年たって奴が帰ってきたのだから、驚くのなんの。しかも、彼の地で得度していて、立派な僧侶になっているとか。もう帰ってきて半年以上は経つようですが、聞師殿も酷く驚いてらしてね」

 斑鳩寺から派遣された奴婢…………………以前、黒万呂が弟成とともに派遣されたと言っていた、そして残念ながら弟成は帰ってこれなかったと。

 ―― それって、もしかして弟成?

 八重女は、名を聞いてみた。

「今は覚知と名乗っているらしいですが、むかしの名は……。もしかして、八重子の知り合いですか?」

「あっ、いえ、その……、もしかしたらと思って……」

「うむ……」と、侍女に注がれた酒を飲みほしたあと、考え込む妹の顔を見て、「では、会ってみますか?」

「えっ? 会う? 会えるのですか?」

「聞師殿に頼めば大丈夫でしょう。どうしますか?」

「はい、是非に」

 八重女は、勢いよく返事をした。

「う、うむ、では……」

 と、誘った安麻呂のほうが、少々戸惑ったほどだった。

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