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【歴史小説】『法隆寺燃ゆ』 第三章「皇女たちの憂鬱」 前編 14

「失礼致します、額田姫王(ぬかたのおおきみ)が参りました」

 侍女が、額田姫王の訪問を告げた。

 額田姫王は鏡王(かがみのおおきみ)の娘で、宝皇女の次男である大海人皇子の妻となり、十市皇女(とおちのひめみこ)を儲けていた。

 額田姫王は、宝皇女の前に姿を現した。

 相変わらず、女が見てもうっとりするほど美しい。

 葛城と大海人が妻にしたいと懇願しただけはあると、宝皇女は思った。

 宝皇女は、額田姫王に皇子2人の品定めをさせたのだが、彼女は、葛城皇子よりも大海人皇子を選んだ。

 後に、なぜ大海人皇子を選んだのか彼女に問うたのだが、

『葛城様の歌には男らしい率直さがありますが、大海人様の歌には恋の駆け引きを楽しんでいらっしゃる余裕がありました。私は、平穏な人生よりも、恋に身を焦がす一生を送りたい、ただそれだけですわ』

 と、平然と言ってのけた。

 宝皇女は、その人生を羨ましいとも思った。

 額田姫王は、宝皇女の前に進みでると、優雅な所作で頭を下げた。

「額田、久しぶりですね。難波の生活はどうですか?」

「宝様、ご機嫌麗しく。どうもありませんわ、何事もなく」

 2人の前に酒が運ばれてきた。

「難波は、港に近いので何かと賑わっているでしょう」

 宝皇女は、酒を飲みながら訊いた。

「ええ、ですが不遜な輩が多くて、ここのように雅さはありません。私は、やはり飛鳥が良いですわ」

 額田姫王も、己の器に酒を注いだ。

「私は近江の田舎者ですから、潮風が合いません。こちらで、宝様と一緒に暮らしたいですわ。娘の十市も、お祖母ちゃんに会いたいと寂しがっております」

「おお、そうかい、それなら一緒に暮らそうかね、ははは……」、宝皇女は孫娘の愛らしい顔を思い出しながら笑った、「ところで、今日は新年の挨拶かい?」

「ええ、それもありますが、元旦の行事にご出席ならなかったので、どこかお体の具合が悪いのかと心配になりまして、お見舞いがてら」

「いえ、なに、難波まで行くのは大儀でね。それに、私は厄介者だからね。顔を出したところで、皆に迷惑を掛けるだけだから行かなかっただけだよ」

「そんな……」

「そんなところさ。それより、間人や大海人は元気なのかい?」

 宝皇女は、わざと葛城皇子の名前は呼ばなかった。

 彼女は、なぜか長男の事を ―― 葛城皇子のことを疎んじていた。

 この子は、なにを仕出かすか分からない。

 そんな狂気を、葛城皇子の中に見ていた。

「はい、皆さんお変わりなく。大海人様も直接新年のご挨拶に伺いたかったのですが、諸事情で今回は……」

「良いのだよ、私は、額田の顔が見られただけでいいのだから」

「ありがとうございます。代わりに、大海人様からこれを預かって参りましたので」

 額田姫皇女は、一巻の木簡を差し出した。

「改新の詔の写しだそうです。宝様にも目を通して頂きたいと」

「おや、そうかい。でも、いまごろ見てもね」

 宝皇女は、そう言って木簡を繙いたが、次の言葉が発せられるのに一分と掛からなかった。

「ふむ、林大臣の案と何ら変わってないじゃなかい、これじゃ」

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