【歴史小説】『法隆寺燃ゆ』 第五章「法隆寺燃ゆ」 中編 29
どれほど経ったろうか、黒万呂は今にも飛び出したい衝動に駆られていたが、それをずっと抑えていた。
だが、流石に我慢しきれなくなった。
そろそろ見張り小屋に帰らなくては怪しまれる。
ここまでか……と、諦めかけたとき、
「では、私は休むかな。大分寒くなってきた、そろそろ八重子も休んだ方がいいぞ」
「はい、ではお休みなさいませ、安麻呂兄さま」
男が、八重子の部屋から下がっていった。
「八重子さま、戸を閉めましょうか?」
「いえ……、久しぶりだもの、もう少しこのままで……」
女は、そのまま縁側に立ち、月浮かぶ池を見つめる。
月よりも青白いその顔は、あまりにも美しい。
聊か見惚れてしまったが、黒万呂は意を決して声をかけた。
「八重女! 八重女!」
女は、弾かれたように体を震わせ、辺りを見回す。
「ここや、ここ!」
「だ、誰です?」
「俺や、黒万呂や!」
「くろ……、黒万呂? 本当に黒万呂なの?」
彼は木陰から進み出る。
「く、黒万呂! 本当にあなたなの?」
女は、階より歩み降りる。
男は、傍へと駆け寄る。
「八重女!」
「黒万呂!」
そのまま抱き着かん勢いであったが、男は何とか自制心を保ち続けた。
「黒万呂、どうしてここへ?」
「八重女こそ、なんでこんなところへ?」
「私は……」
「八重子さま、どうかなさいましたか? 安麻呂さまがお戻りですか?」
侍女の言葉に、八重子は慌てる。
「いえ、そうではなくて……」
「では、そろそろ休みましょう。お体に悪いですわ」
女は困惑したような顔で振り返ったが、黒万呂に顔を向けたときは何かを決心したような凛とした表情になっていた。
小声で言った。
「黒万呂、明日は今夜よりも少し早くにこの戸を開けておきます。侍女たちも退かせ、私ひとりで待っております。よろしいですか?」
もとより、明日も見張りである。
黒万呂は頷く。
「では、明日……」
女は、さっと裳を翻し、屋敷へと入ると静かに戸を閉めた。
興奮冷めやらぬ、そして夢か現か分からない気持であったが、黒万呂は後ろ髪を引かれる思いで急いで見張り小屋へと帰った。
先輩兵士は、酒をしこたま飲んで酔いつぶれていた。
慌てて帰ってきて損をした。
起こすと、目を瞬かせ、
「おう、ご苦労……、あん? お前なんかええことあったんけ?」
「な、なんでですか?」
「にやけとるな」
「ば、馬鹿な。飲み過ぎですよ」
「そうけ?」
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