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【歴史小説】『法隆寺燃ゆ』 第一章「小猿米焼く」 前編 17

 あの日、弟成が真っ赤な目をして帰ってきたので、雪女は驚いた。

 遊んでいる時に転んで、泣きながら帰ってくることはよくあったのだが、明らかに泣いたであろうと思われる顔を洗い流し、なお且つ、その顔を見られないように俯いて帰ってくるということは初めてであった。

「どないしたん? 何かあったん?」

 と、尋ねるのだが、本人は

「なんもない」

 の一点張りであった。

 父や母に相談したが、彼らは到って楽天的で、

「どうせ、どこかで転んだだけやろ」

 の一言だった。

 弟成の様子に気付いたのは、黒万呂も一緒だった。いつものような元気がないように思えたので、

「なんかあったんか?」

 と訊くのだが、これもまた、

「なんもない 」

 で返されるのであった。

「なんもない」ことはなく、明らかに斑鳩で何かあったと雪女は思っていた。

 実際、弟成は斑鳩へのお使いを嫌がるようになった。

 無理やり行かせたところで、前は丸一日帰ってこなかったのに、いまは用事を済ませると、すぐに帰ってくるようになった。

 不審に思った雪女は、人を遣って三成にそれとなく訊いてみたが、彼もその理由は分からないということであった。


  岩の上(へ)に 小猿米焼く

     米だにも 食(た)げて通らせ 山羊(かましし)の小父

 (岩の上で小猿が米を焼いている。

  せめて焼き米だけでも食べて行きなさい、山羊の小父さん)

 (『日本書紀』皇極天皇二年十月戊午条)


 こんな童歌が大和一帯に流行った頃、弟成は、黒万呂と一緒に斑鳩の奴婢長屋に泊まることになった。

 弟成の様子を心配した三成が、男同士の方が何かと話し易かろうと雪女に言ったのが始まりで、雪女もその方が良いと思い、弟成に斑鳩の奴婢長屋に泊まるように言ったのだが、相変わらず嫌がったので、黒万呂に頼んで一緒に付いて行ってもらうことになったのである。

 黒万呂は黒万呂で、久しぶりの遠出に二つ返事で引き受けたのだった。

 弟成の気持ちは沈んでいた。

 いつものように、斑鳩寺の塔が見えてきた。

 塔が視界に入ると、黒万呂は声を上げてはしゃいだ。

「うわあ、相変わらずでかいの!」

 斑鳩寺の塔は、今日も空を貫いていた。

 あの頃、弟成の心を沸き立たせた塔は、今日は心の重石となった。

 黒万呂は、いつまでも塔を仰ぎ見て歩いていく。

 弟成は、下を見て歩いく。

 しばらく行くと道が二股に分かれる。

 奴婢長屋に行くには、左が近かった。

 弟成は、右を行った。

「弟成、左の方が近いんやないんか?」

 黒万呂は、弟成の背中に呼び掛けたが、彼は黙って右の道を歩いて行く。

 黒万呂も、彼の後を付いて行った。

 左の道は、上宮王家の東門の前を通っていた。

 結局その日は、三成とも話らしい話もせず、早めに夜具に入った。 

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