【歴史小説】『法隆寺燃ゆ』 第一章「小猿米焼く」 中編 7
山背王が蘇我の屋敷に赴くと、そこには境部摩理勢臣(さかべのまりせのおみ)もいた。
摩理勢は蘇我馬子の弟で、蘇我蝦夷の叔父にあたる。彼は、次の大王について蝦夷に話をしにきていたようだ。
実際、山背王の顔を見ると、待ってましたとばかりに山背王を歓迎した。そして、山背王に、大王としての心構えを懇切丁寧に語り始めたのである。
摩理勢の頭の中には、次の大王は山背王しかないようだ。
もちろん山背王も、次は自分ではという若干の期待もしていた。が、いましがたの大王からの御沙汰では、はっきりは言われなかったが、どうやら見送られたようだ。
摩理勢の話は有難くもあったが、意気消沈しているところに追い討ちをかけるようで、迷惑でもあった。
山背王は摩理勢を遮り、大王の御召しの一件を二人に語った。
山背王の話に、当初は蝦夷も摩理勢も驚いていたようだ。
彼が一通り話し終わると、蝦夷は、「山背様は、大王の位をお望みか?」と訊いてきたので、彼は、「大王の言葉どおりである」と答えた。
さらに蝦夷は、「では、次の大王は田村様で宜しいか?」と訊くので、これにも、「大王の言葉どおりに」と答えた。
すると蝦夷は、黙って二人の話を聞いていた摩理勢に、「大王のお言葉を優先いたします」と述べた。
これを聞いて、摩理勢は口を開いた。
「馬鹿者!」
その声は、屋敷中に響き渡った。
傍にいた山背王は、まともにその声を聞いたので耳が痛くなった。蝦夷も同じようだ。仰け反りながら耳をいじっていた。
戸の隙間から中の様子を窺う顔が見えた ―― 敏傍だ。彼もまる化け物でも見るような表情でこちらを覗き込んでいた。
さすがにそのむかし、馬子の妹で、欽明天皇の妃であった堅塩媛の改葬の折に、誄を述べただけはある声量の持ち主だ。
「次の大王は、山背様に決まっておろうが!」
さらに大きな声で摩理勢は言った。
山背王は、その声にまた倒れそうになった。
「お言葉ですが、叔父上、大王様のお言葉です」
「それがどうした。お前が、直接大王に伺ったのか?」
「いえ、そうではありませんが……。しかし、山背様が直接言われたとのことですから」
と、蝦夷は山背王を見た。
山背王もその言葉に頷いた。
「山背様は、大王より若さ故の過ちを諭されたのであろう。そして、重臣の意見を良く聞くようにと。すなわちこれは、大王としての心構えを山背様に伝えられたのじゃ」
「そうですか?」
「そうじゃ。それに、大王は、次の大王の名を挙げられなかったのであろう?」
と、今度は摩理勢が山背王を見た。
「確かに、名指しはされなかったが、しかし……、田村皇子も参上しておったし、田村皇子にはそういった話があったかもしれん」
「だからといって、問題はありませんぞ、山背様」
「と、言いうと?」
摩理勢は鼻で大きく息をすると、こう言い切った。
「大王の言葉など、関係はございません」
「えっ?」
山背王は唖然とした。
「そんな無茶苦茶な!」
蝦夷は困惑した。
戸の隙間から顔を覗かせているこれは敏傍は、にたにたと笑っている。
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