【歴史小説】『法隆寺燃ゆ』 第一章「小猿米焼く」 中編 9
額田部皇女が、彼女の遺言どおり息子の竹田皇子の陵墓に葬られたのが、その年の9月のことで、これにて大王の葬儀に関する諸行事は粗方終わり、次は新しい大王の即位行事だと群臣は考えていたのだが、その後継者問題が行き詰っていた。
蘇我蝦夷にしてみれば、次の大王は、年齢的にも能力的にも田村皇子が適任だと考えており、飛鳥の群臣も同じ考えだと思っていた。
だが以外にも、群臣の中には山背王を推す声も多く、彼は田村派と山背派の間で板ばさみ状態となっていた。
「少々強引な方法を使っては?」
と、次男の敏傍が言うのだが、蝦夷は、
「国を二分するようなことだけは、絶対に避けねばならない。大陸では、あの大国の隋が滅び、唐という国が興ったが、未だに国内は混乱していると聞く。後継者争いが再燃すれば、我が国も隋や唐のようなことになるぞ」
と、あくまで穏便策に拘った。彼には、40年前の二の舞だけは避けたいという思いがあったのだ。
40年前と言うと、蝦夷はまだ襁褓の取れない赤ん坊であったので、殆ど覚えていない。
父の馬子も、なぜかこの話をするのを嫌がった。
それでも、当時の話は耳に入ってくる ―― あの戦は、馬子が物部氏の財産を分捕り、国政を独り占めせんがためのものであったと ―― 蝦夷には信じられないものであった。
「蘇我氏の繁栄は、物部氏の財産のお陰らしいぞ」
「島大臣(しまのおおおみ:馬子)は、妻に唆されたらしいな」
「いやいや、妻を使って弓削(ゆげ)殿を殺害したのだ」
「これで、蘇我の天下だな」
そんな噂が聞こえてくる度に、嘘だ、父上がそんなことをするはずはないと蝦夷は唇を噛みしめるのだった。
実際、馬子は物部弓削守屋大連の妹を妻に娶っていた。それが、よからぬ噂を立てたらしい。因みに、蘇我入鹿の弟敏傍が、後に物部大臣(もののべのおおおみ)と呼ばれるようになるのは、彼の祖母の縁によるものである。
馬子は、その噂に弁明することはなかった。
蝦夷は、父を信じていた。しかし、信じれば信じるほど、彼の中の疑念は大きくなっていった。噂は本当なのではないかと考えるようにもなっていった。彼は、そんな疑念を父にぶつけたことがある。それでも父は、悲しい目をして黙っているのだった。
結局馬子は、一切を己の心の中に秘めたまま、あの世へと旅立ってしまった。
その後蝦夷は、馬子とともに戦った膳賀拖夫臣(かしわでのかたぶのおみ)から、蘇我氏と物部氏が大王の後継者争いに巻き込まれたことを聞いた。
彼は……、父に抱いた疑惑を後悔した………………
蝦夷は、田村派と山背派の間に入り調整を続けたが、両派の思惑に板ばさみとなっていた。
周囲の人間も、蝦夷のお手並み拝見といった感じで、誰も彼に手を貸そうとはしない。
半年以上、大王は空位だった。
こういった場合は、通常、大后が国政を執るのだが、今回は違った。女帝であったため、代行で執政を行う存在がいない。
長期の大王不在は、飛鳥の人々に不安を与えた。そして、両派の調整もできない蝦夷に批判が集った。
蝦夷は頭を抱えた。
行き詰った彼は、重鎮の安倍内麻呂臣(あへのうちのまろのおみ)に助けを求めた。麻呂の提案で両派を集めて話し合いを持つこととなった。
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