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【歴史小説】『法隆寺燃ゆ』 第五章「法隆寺燃ゆ」 後編 33

 翌日、八重女は早くも斑鳩寺に赴いた。

 急いていた。

 最近黒万呂から連絡はない。

 結局蒲生野では会えなかった。

 近江にいるのは確かだと思うが、言伝のひとつでも寄越してくれればいのに。

 安麻呂に、黒万呂はどうしているかと尋ねる訳にもいかない。

 ―― もしかして、黒万呂に捨てられた?

 あれ程愛し合ったのに………………

 生みの親に捨てられ、育ての親に捨てられ、初恋の相手は突然いなくなり、寺からも売りに出され、来島郎女にも去られ、大伴氏からも見捨てられ、そこに現れて愛し合った黒万呂まで連絡がとれなくなる………………なぜこれほどまでに!

 そんなときに、弟成が生きていると聞いた。

 初恋の相手の弟 ―― 三成にそっくりだ ―― 彼の中に、三成を追い求めていたのだろう?

 でも、それはいつか恋心へと変わっていた。

 自分では気が付かなかった。

 だが、軽皇子に抱かれていたとき、いつも弟成のことを思っていた。

 正直、黒万呂とのときも、頭の片隅で弟成を思い起こしていた。

 また捨てられる、自分は人ではない、ただの道具………………心無い傀儡と同じ………………そう思うのだが、人の面白いところである、どうしても好きな人を追い続けてしまう。

 心を持っては駄目だ、本気になっては駄目だと思っても、心が騒めいてしまう。

 人にもなれない、傀儡に徹することもできない、そんな自分が哀れだ。

 それでも、それでも………………人を好きになってしまう。

 以前、蒲生野の薬草摘みで一緒になった額田姫王と話をしたとき ―― その美しさに圧倒され、自分みたいな者が話をするなど恐れ多いと思うのだが、彼女は気さくに話してくれた ―― 人を好きになることは辛いとの話になった。

『そうですね、確かに辛いことです』と、額田姫王は同調してくれた、が、同時にこうも言った、『でも、だからこそ、もっと人を愛そうと思うのです』

『辛い思いをするのに、さらに人を愛するということですか?』

 額田姫王はにこりと笑った。

『人を好きになれば、不安にもなりますよね。裏切られることだってあります。人を好きになったばかりに、ひとりの夜を涙で過ごさなくてはならないときもあります』

『そうですね……』

『それでも私は、人を好きになりますわ。だって、たとえ辛い夜があったとしても、その人のことを考えたら、幸せな気持ちになれるのですもの。その人の傍にいれば、心が豊かになれるのですもの』

『でも……、その人の傍にいるからこそ、その人が離れて行ってしまうのではないかという不安になりませんか?』

 額田姫王は、自分の胸に手を当てた。

『ここの持ちようです、心の』

『心の……』

『その人が離れて行っても、自分がしっかりとその人のことを思っていれば、辛くはないのではないですか? なぜ、辛いと思うのです?』

『それは、その人とは二度と会えないというか……、気持ちが離れてしまうというか……』

『あなたがその人のことをしっかりと思っていれば、必ず戻ってきますよ』

『それでも……』

『それでも不安なのは、八重子様自身、自信がないのではないですか?』

『自信?』

『心を強くお持ちください。この世は、八重子様自身が見たままの世界です。あなたの心が不安定だと、あなたの世界も不安定になります。あなたの心が強ければ、あなたの周りもあなた自身が思う世界になりますわ』

 八重女は、額田姫王の話が分からず、首を傾げた。

 が、意味は何となく分かる。

 そういえば、栗島郎女も以前同じようなことを言っていたような……心を強く持ちなさい……心を強く……八重女は、それを思い出し、胸に手を当てた。

 それを見て、額田姫王は微笑んだ。

『いまは分からなくとも、これから沢山の人を好きになっていけば、お分かりになりますわ。まあ、私は離れていった男のことなど、私には不釣り合いの男だったのだと思って、さっさと忘れてしまいますけどね』

 と、笑っていた。

 そんなことを思いだしていると、斑鳩寺に着いた。

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