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「君主論」に学ぶ 運命との付き合い方


 こんばんは。中国古典を中心に日々の組織運営、自己成長に役立つ記事を書いて、自分と組織の成長、そしてこのnoteを読んでくださった皆さんのお役に立てる人間になれることを目指しています。

 さて、今回は、前回に引き続き中世イタリアで生まれた書「君主論」(N.マキャベリ)からの学びについて共有したいと思います。

 君主論の概要とマキャベリについては前回の記事に記載しました。よろしかったらご覧ください。

「力量」と「運命」


 マキャベリは君主論を通して、君主が国を統治するためにはいかなる手段を用いても良い、ということが記載されていることから、非常に冷徹な面が強調されがちですが、そんな書の中にも「運命」という言葉が出てきます。

 「運命」というと、自分の手ではどうしようもない、抗えないもの、自然災害など、天が下すもの、という印象があります。15世紀当時、科学の発達しない時代です。現代よりもさらに「運命」というものに支配されていると感じていたことでしょう。

 マキャベリは、運命についてこのように定義しています。

「もともとこの世のことは、運命と神の支配にまかされているのであって、たとえ人がどんなに思慮を働かせても、この世の進路を治すことはできない。いや、対策さえも立てようがない」、と、こんなことを、昔も今も多くの人が考えてきたので、私もそれを知らないわけではない。この見方によると、何ごとにつけて、汗水垂らして苦労するほどのことはなく、宿命のままに、身をまかすのがよいことになる。



 それに続けて、運命に抗う考え方を、次のように表明しています。

 しかしながら、われわれ人間の自由は奪われてはならないもので、仮に運命が人間活動の半分を、思いのままに裁定した得たとしても、少なくとも後の半分か、半分近くは、運命がわれわれの支配に任せてくれているとみるのが本当だと、私は考えている。


 つまりは、運命の少なくとも一部は変えられる余地があり、努力する意義があるのだ、ということです。
 例えば川が自然災害により氾濫したとしても、あらかじめその可能性を想定して堤防を作っておけば被害は最小限になる、そういったことです。
 先のことを絶えず考えて、先手を打ち自らを制御できれば運命から解放されるのではないか、という意味の言葉も残しています。

 あらゆる事態を想定して準備する、という考え方は孫子の兵法に似通った考え方と捉えることができます。

さらに、「運命」について次のように結論づけています。


 運命は変化するものである。
 人が自己流のやり方にこだわれば、運命と人の行き方が合致する場合は成功するが、しない場合は不幸は目をみる。
 私が考える見解はこうである。人は、慎重であるよりは、むしろ果断に進む方がよい。なぜなら、運命は女神だから、彼女を征服しようとすれば、打ちのめし、突き飛ばす必要がある。運命は、冷静な行き方をする人より、こんな人の言いなりになってくれる。
 要するに、運命は女性に似てつねに若者の友である。若者は思慮をかいて、荒々しく、いたって大胆に女性を支配するものだ。

 ここでは、時流を見ながら果断に進んでいけば、運命を力量で変えることができる、と彼は考えたのです。

 これも孫子の兵法で強調する「勢」に通じます。

 冷徹な内容の君主論にも、こんな浪花節的な内容があるのか、ということが新鮮でした。マキャベリは根性論を言っているのではなく、時勢と、自らの勢いと、柔軟性でもって運命を変えていこうと言っているのです。

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