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書くと言うこと

筆記具を持って、書くことがめっきり少なくなった。

困ることは、漢字をすっかり忘れていることだ。なので6年前から、日記をつけている。今年で6年目と言うことで、書くことは余り苦痛でなくなった。いま気をつけて、文章を筆記具でしたためているのは、友人たちに書く手紙と6年続けた日記だけになる。他のちょっとした書類も手書きではあるが、ちゃんと書き込んでいるのは、この二つだけである。

漢字の忘れが酷いので、辞書を何年か前に購入した。こちらは電子辞書ではあるが、広辞苑の最新版を後付けで入れているので、結構いろんな意味を調べることができる。昔は難しい字を書くことが出来たが、いまではちょっとした字すら忘れてしまい。酷いのは、送り仮名すらあやふやだったりする。こうやって、不明な折に電子辞書をピッピ言わせながら調べて、訓練をしていると言ったところなのだ。

日記に於いては、以前は身体の調子が悪い時などは、殴り書きだったりして、短い文章で終わっていたが、いまは愚痴であっても、1ページしっかり記入をしたりしている。最近思うことは、以前より電子辞書の使用が少なくなったことだ。簡単な字なら、少しは思い出しながら書いているのだ。こうゆう訓練って、人間重要だと思う。小学校から積み重ねて覚えてきた漢字を忘れているのだ。それを記憶の奥から、呼び戻しアウトプットする。これはすごい重要なことだと思うのだ。

どの様に重要かと言うと、インプットも必要だが、インプットに付き物の記憶と言うものがある。インプットしたものを応用するには、記憶して理解しなければならない。理解することは、応用なのだ。例文を作ったり、自分のものとして活用していくのだ。それをアウトプットと言う。

記憶には何種類かあって、歳をとってくると「スタック」と言う現象が顕著になる。「スタック」と言うのは、一番最後にインプットしたものをアウトプットしていくと言う現象である。新しいインプットをして、尚も古い記憶をアウトプットするでなく、一番新しい記憶をアウトプットするのだ。本来ならば、記憶の中に紛れたものを探し出してアウトプットすれば、引き出しはいくつもあるのだが、なかなかそうも行かない。でも日記を書くとか、辞書をひくことによって、古い引き出しから呼び起こすことも可能になりつつある。

これはそう、母を襲ったアルツハイマー型認知症をわたしも気をつけて、取った手法でもあるのだ。歳をとると「スタック」と言う手法に頼りがちなのだが、新しいものをインプットさせながら、新旧取混ぜて引き出しを利用してアウトプットを完成させていく。これがわたしの現在の「書くと言うこと」の理由である。

つまりは大きな統合失調症と言う病気をしてしまったので、これから一人で生きていく為の、自分で出来る限りの防衛策なのかもしれない。


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