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議論で寛容にたどり着けるのか?:シーライオニング・青識亜論・表現の自由

シーライオニング、という単語を聞いたことがあるだろうか?元々はゲーマーゲート論争と呼ばれる英語圏のSNS上での論争の最中に発明され、広く知られるようになった用語だ。

原義としては、論争などがあった時、対立者の理屈を理解しようとするふりをして、形式的には誠実さを保ちながら、執拗に質問を繰り返し、相手を疲弊させるような態度、を表す単語のようだ。このような態度を批難するための、否定的な文脈で使われる。

なぜシーライオニングというか?以下の、元ネタとなった漫画の中のキャラである、シーライオン(アシカ)の行いが、ゲーマーゲート論争に関わった特定の論者の態度に似ている、と揶揄されるようになったからだ。なかなかに複雑な文脈の単語といえる。

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本noteでは、ゲーマーゲート論争の具体的な内容には触れない。最近、シーライオニングの概念が日本語圏に輸入されようとした、一つの事例から話を始めたい。

・「表現の自由戦士」とシーライオニング

2020年7月ごろに、自称インターネット論客である青識亜論氏の行いを批判する文脈で、ツイッター上においてシーライオニングという単語が流行した。

まず、独断と偏見で青識亜論氏の活動紹介を行う。氏は、表現の自由戦士なるものを名乗っている。それはなんだろうか。

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現時点で法規制されていないような表現を、社会正義や道徳観などの規範を根拠に批判する行為は、決して新しくないが、インターネット出現以降、とくにSNSの普及に伴いその規模を拡大してきた。対象となる表現は言論だけでなく、テレビ番組、映画、漫画、ゲーム、雑誌、広告、あらゆる対象だ。

単なる批判を超え、業界や企業などに自主規制や自発的な撤回を求める運動は、問題の発議と要求が直結し、明確な目的をもって展開できるため、成功を収めることは多い。

さらに、特定の表現の撤回要求を超え、Amazonなどのプラットフォーム企業への一律の自主規制の要求や、業界団体全体、さらには消費者に対しても、倫理規範をひろく呼びかけることによって、特定の傾向を持つ表現手法自体を撤廃しようという大規模な運動の流れは勢力を増している。

これらの運動には、ポリティカル・コレクトネスと呼ばれる考え方が背後にある。これは、言語や物語など、あらゆる表現が、性別、人種、民族、宗教等に基づく社会の偏見を反映をしており、偏見の固定や強化に寄与しているとみなし、表現を自主規制の要求などの市民レベルの運動で直接変更することで、社会の価値観を変更していこうという思想だ。

青識氏は、こういった行為は表現の自由を脅かす行為であると考え、対抗する言論を展開している。ただし、無条件で却下しているのではなく、規制を求める側の要求する倫理規範や、そこから規制を求める論理展開に対して説明を要求し、詳しく分析することで、反論を構成するという手法をとっているようだ。具体例は氏のnote記事やツイッターアカウント上での議論を参照していただきたい。

青識氏や、賛同者達の活動を揶揄する文脈で、表現の自由戦士という呼称が生まれたが、氏はこれを逆用し、自称しているようである。

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さて、青識氏の行いはシーライオニングである、つまり表現規制を要求する側の規範や論理を理解するふりをして、質問を繰り返すことで嫌がらせにより妨害を行っている、という批判がツイッター上で発生したようだ。

これに対する応答、そして反論のnoteが以下だ。元ネタとなっている漫画も引用されているので、気になる方はそちらを見ていただきたい。

主張を要約する。

・シーライオニングの語源となった漫画では、アシカを排除したいという不寛容な発言に対し、議論するためにアシカが質問をしている。これは誠実な行為であって、それに応答しない相手は不誠実だ。

・個人の好悪ではなく、「性搾取」や「差別」といった批判は、社会正義や道徳観の観点から、社会から撤廃すべきだという主張を含意しているのだから、その根拠を問いただす質問に対して応答しないのは不誠実だ。

・なぜなら、質問は、曖昧な用語や論理を明確化し、議論を合理的かつ誠実に行うために重要であり、明確化しなければ、負のイメージを自由にレッテリング可能になってしまうからだ。

・一方、個人の好悪に対する質問の徹底や、悪魔の証明を求める質問議論が明確化された後の執拗な質問などによる嫌がらせなどは、たしかに問題である。これは悪質なシーライオニングと言えるだろう。

・自分が行っているのは正当な質問だ。またこれは、ソクラテスの問答法のような、常識や権威を疑い、真理に近づくための哲学的な営為でもある。いわば正しいシーライオニングと呼ぶべきもので、今を生きる全ての人間が、大切な人や表現物を守るため、行うに値する行為だ。

なかなかに興味深い主張と言えよう。この内容を吟味する前に、青識氏を批判していると思しき言説の一つを紹介する。

・「詭弁術」としてのシーライオニング

シーライオニングをネット論客がよく用いる詭弁術の一種とみなし、問題点を指摘するブロガー、京太郎氏の記事を引こう。青識氏の名については文中で軽く触れられている程度だが、文意を読めば批判対象のネット論客の代表格として青識氏が挙げられていることは、ほぼ明らかといえる。

やや長く論点が細かいので正確には上記の記事を読んでいただきたいが、とりあえず要約する。

・問題を発議する側に対して、質問する側は一方的に有利だ。答えにくい質問は修辞疑問文、疑問文の形をとった反論としても機能する。とはいえ、それは必ずしも悪質な行為ではなく、使われる文脈による。悪質なシーライオニングが問題だ。

議論の前提と目的が共有されていない相手をやりこめることを目的とした「議論」は議論ゲームと呼ぶべきものであり、そこで質問は、単に議論の進行を妨害する目的で発せられる。さらに、質問に答えられなかったから不誠実であるという印象論を展開することで、攻撃することが出来る。

・たとえば、差別問題に関する告発に対し、そもそも何が差別なのか、といった議論の前提となる論点は個別の発議とは別の話であって、重要ではあるが、議論の棲み分けをするべきだ。それなのに、棲み分けを主張すること自体が批判を生んでしまう。

・社会問題について発議し、社会の現状を変更する動機があるのはマイノリティ側や社会的弱者側に立っている人々であり、ネットで議論を提起する動機は、その問題を知らなかった人に興味と関心を持ってもらうことだから、不誠実、内輪向きの議論をしている、という印象論の宣伝は強力な攻撃・妨害となる。

・シーライオニングが蔓延することは、現状を固定しようとする側に有利で、論点の明確化という質問の効果より、議論によって得られる価値を毀損する効果のほうが強く、問題提起が相対化され訴求力を失っていくという意味で、構造的な問題である。見かけ上、誠実に見える「議論」であっても、相手がなぜ議論をしたがるかに対して敏感になるべきだ。

さて、ここで青識氏と京太郎氏の「議論」に関する決定的な立場の違いが浮き彫りになる。対立は、公的な領域の議論、とくに差別問題のような社会正義に関する議論の良し悪しの判定基準についてだ。

青識氏が重視しているのは、明瞭で、なるべく解釈の余地の少ない議論の成立を目指しているかどうかだった。明瞭化のための質問は良いが、議論の成立そのものを妨害する質問は悪い、とする。この基準では、議論の価値を毀損しているのは、正しい形式の議論を行わない人間だ

京太郎氏が重視しているのは、議論に参加する動機が、発議者の目的、たとえば特定の社会正義に反していないかどうかだ。とくに、マイノリティ側や社会的弱者が問題と解決策を発議した場合、問題の存在を認め、解決のために協力しない場合は、質問は常に妨害だ、とする。議論の価値を毀損しているのは、間違った目的で議論を行う人間だ。

後者の立場にたてば、前者は「シーライオニング批判」の文脈を理解していないとして却下されるだろう。逆に、前者の立場からすれば、元ネタのマンガに含意されていない文脈を勝手に付加しているとみなされるだろう。

細かい論理展開はおくにしても、どちらも問題意識のレベルではそれなりに正当性が有るように思われるが、二者間では話が通じそうにない。だが話はここで終わりではない。むしろ、本題はここからだ。

まず、京太郎氏と類似の立場にたった上で、別の人間が、特定の誰かの発言、質問行為を、インターネット言論上で「シーライオニングだ」と批判することは、何の目的でなされるのかを検討したい。

何の目的って、悪質な「シーライオニング」行為全体を批判し、社会的弱者やマイノリティの問題提起の力を回復するためだろう?と思われるかもしれない。だがそれはおかしい。以下で説明するが、この立場で特定の誰かの行為を「シーライオニング」だと批判する行為が横行することは、むしろ問題提起を阻害する効果しかないように思われるからだ。

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彼の主張では、シーライオニングが単なる嫌がらせを超えて「悪質」なのは、第三者への印象操作として有効だから、であった。その悪質性に、シーライオニングという名をつけ、第三者の印象を変更しようとしても、何ら対抗策として機能しないどころか、むしろ逆効果と言える。

想定されていた、印象操作されてしまう第三者とはなにか。上述のような文脈や立場を理解していない、または共有していない人間だ。質問に答えなかったら不誠実だ、という素朴な判断をする人間だ。

そこに、青識氏のやっていることはシーライオニングだから問題だ、といって、理解してもらえる可能性は低い。冒頭のマンガまではたどり着くかもしれないが、これでは質問に答えなかったら不誠実、という元来の判断をひっくり返せる見込みは低い。

これを超え様々な文脈を追い、京太郎氏の述べるような立場を理解し、しかも賛同する可能性より、よくわからない造語でレッテリングを行い、信用毀損しようとしていると思われる可能性のほうがずっと高い。

もともとの、議論に答えなかったから不誠実と、造語で誰かを攻撃しているから不誠実、では確実に後者のほうが悪化している。

次に、本当に社会問題に詳しくない人間が、特定の問題について素朴に質問を重ねてきた場合も、シーライオニングだという判定となる。よって彼らは糾弾される。これは単に無視するよりも強い不和をもたらすだろう。

応答のコストが掛かりすぎる相手を後回しにする、ぐらいの目的なら、そう述べればいいだけだし、最悪でも単に無視すればいい。悪質な行為として批判した場合、興味と関心が維持される可能性は一気に低下する。

さらに、いざ個別の問題が発議され、前提に関する合意が不十分であったとき、この立場を取る仲間の間ですら、不和が発生し、解消する方法が存在しない。もし激しい対立を起こした場合、以降に強烈な不信が残るだろう。

そもそも、この立場を取れるのは、普段から社会問題に関する前提について議論を重ねている人々だけだ。差別、社会的弱者とは、マイノリティとは何を意味するか。もちろん、全ての人間と議論することは不可能だから、たとえば有力な学識者の知見を学ぶなどし、それをもとにインターネット上で議論したり、問題の前提知識が有ることを示すことで、ゆるやかに同じ派閥、前提が共有でき議論が可能な勢力を拡大しておく。そうでないと、なにか発議があったとき、社会的弱者やマイノリティの問題だと判定できない。

そして、問題が発議されたとしよう。想定していたような前提に妥当するなら、スムーズに議論、拡散ができる。だが、その前提があきらかに間違っている、そんな問題は想定していなかったとか、いつも議論していたこととは違うではないか、となったとき、質問したり、それを起点に、前提に関する議論をはじめたら、悪質な妨害として糾弾されてしまう。

ゆえに質問を阻害し、黙らされた側には不和が発生する。シーライオニング批判の文脈がなければ、誤解が解けるか、すくなくとも対立している点を明らかにして、すり合わせを行うこのとできる可能性があるが、それを自ら縛っている。

さて、これらのデメリットにも関わらず、「ネット論客」は、シーライオニングと批判されても、全く萎縮しないだろう。当たり前だが、京太郎氏のような立場や価値判断を一部または全て却下することで、質問行為を続行するはずだ。

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このように、本当に京太郎氏のブログにある問題意識に賛同しているとしたら、むしろ、それを根拠に他人を直接批判することはなるべく控えるべき、というのが単純な帰結のはずだ。

あらゆる批判の根拠の「正当性」は、前提を共有している人々の間でのみ機能する。だから、広く受け入れられていない、文脈が複雑な、特定の立場に立脚しだれかを批判することは、効果は薄いどころか、むしろ自らが掲げる「正当性」の側の信用を毀損することになる。

すくなくとも、シーライオニングなどという、文脈が直接読み取れないような新しい単語を使って問題構造の流布と個人批判を同時に行おうとするのは、自分たちの立場と目的を理解し、かつ賛同してくれる人を増やすという観点からは、非合理的であるように思われる。

京太郎氏の名誉のために述べておくと、彼自身は青識氏を直接批判することよりは、問題構造の言語化と明確化に注力しているとは言えよう。しかしながら、シーライオニング批判を行っている大半の人間はそうではない。

それなのに、なぜあえてそうする?彼らは単に愚かなのだろうか?いや、そんなはずはない。実際には、別の目的があり、それに対して合目的であるからこそ、シーライオニング批判行為が流行すると考えるのが妥当だ。

あえて、人々が「それはシーライオニングだ」と、インターネット上で他人の行為を糾弾することによって得られる効果はなにか。

「自分たちは同じ価値観を共有しており、相手は共有していない」ということを、詳しい説明や理解抜きに宣言すること、そして、「シーライオニング行為の悪質性」を簡単に共有することができる。これは、共感によって内部と外部を明示するコミュニケーション手段としての「批判」だ。

シーライオニングという単語を聞き、マンガを読んだ人間が想起するのは、過去に遭遇したことのある「悪質な」質問行為であり、青識氏を批判する人間にとっては彼の行為だ。この時点で自らの中にある「悪質性」の根拠は明確に言語化されていない。

だが、同じ対象を同じ言葉で批判することによって、共感により意思疎通がなされ、コミュニケーションが成立する。人間の共感能力とは、このように非常に便利で強力なものだ。それは論理的な思考の共有よりもはるかに素早く伝達し、しかも共感を有する仲間を判定することができる。

「悪質性」の根拠がそれぞれの人の中で推論され、言語化されるのはその後だ。だからこそ、その言語化の指し示す内容と、批判行為そのものが一見矛盾しているような事態も発生する。

・信用戦争の漸次的拡大における議論と表現規制

同様の現象はもう少し一般化出来る。

インターネット言論においては、「対話できる対象」と「対話できない対象」の簡便な判別方法に需要がある。それゆえに、さまざまな手法が考案される。

社会問題に関する議論は世論を形成し、他者の意見に影響を与えるために行われるが、価値観の大きく異なる人と対話するには多大な労力が発生し、殆どの場合、何の利益も得られないか、むしろ損をするから、無視したいと多くの人間は思う。

だが、自分のもつ様々な価値観を、予め詳しく言語化して開陳するなどということは、行うメリットは少なく、実際、ほとんどの人は行っていない。

また、全ての人間の価値観は自由であり、前提が共有されていないから議論を真に受ける必要がない、という立場に立ってしまうと、そもそも問題提起をしていることと矛盾する。

よって、一部の人間は話が通じないので対話の相手としては除外し、その他の人間だけで世論形成を行おう、という主張をするのが合理的なわけだ。こうして信用攻撃の手法に対する需要が発生する。

信用できない理由を性別、人種、民族、宗教などに求めるものは、いわゆる差別であり、公的には問題視されるべきだが、少なくともインターネット言論上では溢れかえっている。

一方、理由をそれ以外、たとえば礼儀、信条、影響力、発言、言葉遣い、その他の個人的な行為や性質に求めることは、公的にも私的にも問題視されることはほぼ無いし、広く行われている。

そもそも、全ての人間の意見を同列に聞くことなど出来ない以上、信用できない対象の判断基準が欲しい、なるべく思考や確認の労力のかからない方法がよい、というのは、社会問題を離れてもごく自然な欲求と言える。

信用できない対象や性質を名指ししたり、共感を求め、ときには論理的な根拠を説明して、排除することによって、ゆるやかに合意形成を行い、信用できる内部を形成する。コミュニケーションに際しても、従うべき規範やルールをなんとなくすり合わせておく。誰もが行っていることではある。

ただし、忘れてはいけないのは、信用できない理由を設定するのは誰にでも可能であり、それはどんな根拠でもありうるということだ。いや、究極的には根拠など必要ではない。共感さえできればよい。

信用できる内部から排除されそうになったら、謝罪して許してもらう手もあるが、別の誰かを名指したり、信用できない理由を新造して、排除を画策するということも可能だ。その際、一人だけで主張しても効果は薄いが、同じ立場にいる仲間が多ければ、有効な戦略となる。

ゆえに、排除の目論見は、たとえ短期的には成功したとしても、長期的には分断を招き、自分たちがまとめて排除される危険性がある。これはとくに少数派にとっては危険であり、避けるべき行為のはずだ。

だが、この構造を理解していたとしても、仲間内の信用攻撃に乗らないのは難しい。そもそも、排除基準の一致、排除への参加行為が、同一の価値観をもっていることを示す手段なのだから、逆らうことは、自身が排除される理由となる。

意識的か無意識かに関わらず、公論上で広くなにかを主張しようとすれば、この信用戦争と呼ぶべき現象への参加を余儀なくされる。この観点から言えば、シーライオニングの概念も、最新の攻撃手法の一つに過ぎない。そして当然、これは日本語圏だけの問題ではない。「シーライオニング」の輸入元である英語圏SNSはむしろ、もっと激しい戦場といえる。

そして、ポリティカル・コレクトネスによる、市民レベルでの表現の自主規制要求が有効なのも、この戦争のもたらす力を利用しているからだ。一定以上の勢力が信用攻撃を行えば、個人なら排除されないために、大企業ならば市場を失わないために、公的機関ならば国民の批判を受け止めるため、表現を撤回するだろう。これは、法規制を成立させるより、はるかに少ない人数で成功する。もちろん、数さえ集めれば、ポリティカル・コレクトネス以外の任意の理由で同様のことが可能だ。

そして、議論もまた、この戦争の中で、他人の信用を攻撃するための技法として機能する。京太郎氏はこの手の議論を議論ゲームとよんだ。だが、これは彼が言うような不毛で無目的な遊戯ではない。この場合、信用を攻撃し、集団の政治利益を確保することが、議論を仕掛ける目的である。彼が言うような、「サロンで小金儲けをすることが目的の人間」とか「ネット論客」のような特定の勢力が行う行為ではない。社会的弱者やマイノリティも、この目的での「議論ゲーム」を日々、様々な相手に行っている。

・「民主主義」における議論の役割

さて、京太郎氏は議論の前提となる論点は、マイノリティや社会的弱者による個別の問題提起とは棲み分けをするべき、と主張した。なるほど、ではいい機会なので、社会正義に関する、全ての議論の前提をさかのぼろう。

そもそも、一般に、マイノリティや社会的弱者についての問題提起を含む、あらゆる社会問題を、われわれ民衆はどう扱い、どうやって問題に対処していくべきなのか?どういった手法が望ましいのか?この事自体について、インターネットやSNSの出現以前や以後に、広い議論がなされたことなどあっただろうか。いや、あえて断言しよう、一度たりとも無い。

多くの人々は、例えば、なんとなく、社会的弱者を助けたほうがいい、とかいう規範は持っている。だが、誰が社会的弱者なのかとか、問題の構造はなにかについて、真剣に考えたことがある人間はどれほどいるだろう。

義務教育レベルのごく短い民主主義教育のカリキュラムで多くの人間がこれらを理解、実践し、習得するなど絵に描いた餅だ。もちろん、どれほど教育を受けようが、それを習得し実践できるかはまた別なのだが、それ以前の問題と言える。

問題に特別に関心があり、学識、能力が高い人間は、関連する学問分野での議論を調べられる。自分が参加することも出来るだろうが、それはさらに一部の人間だ。

そんな状況においても、日本社会は、民主主義の枠組みの中で、様々な社会問題に対応するための政策を実行してきた。だが、それはどういう手法だったのか。

そう、京太郎氏いうように、前提レベルで対立する相手と議論を交わすのではなく、問題が存在するということを宣伝し、解決手法にだいたい同意してくれる人々を集め、その数をもって政策を通してきたに過ぎない。もちろん、様々な議論はあった。しかしそれは、その問題に特別の関心のある人々の間でのみ交わされたものだった。

議論の中身について、民衆が理解、納得していたわけではない。ただなんとなく、実際に重大な問題であり、提案されている行動に賛同すれば、解決につながると、人々は信じていたから、賛成票を投じていた。

これは、民主主義における正しい解決プロセスだったのだろうか。視点を変えれば、無関心な人間、反対する人間を無視し、民衆の直観と共感だけに訴えかけ、合意を取り付けてきたにすぎない。

正当な政治目的のためには大抵の行為は許されるという主張は当然ありうる。目的は手段を正当化する、というのは一つの立場だ。だが、この立場を取る限り、個別の成果には意味はあっても、その根拠となっていたはずの議論の内容、文脈が広く流布されることはない。学問という看板がかかっていようが、同じことだ。タイトルだけが有名な、中身は誰も読んでいない書物に等しい。

よって、議論を行ってきた勢力、たとえば学者や運動家たちが一度民衆からの信頼を失ったら最後、それ以降どんな言葉を並べようが、すべての「正当な文脈」を無視して、民衆は全くのゼロから自由な議論を始める。当然これが一致を見ることは、ほぼありえない。

これは、民主主義や社会正義に関する過去の基礎的な議論を、自発的に学習せず無視する、民衆の無知と傲慢に全責任があるだろうか?無論、公論でそう主張する事はできるが、それを人々が聞き入れ、自発的に「賢さ」を手に入れるという想定はあまりに夢想が過ぎ、むしろ自身の無知と傲慢を批判される結果に終わるだろう。

もちろん、問題提起を行っている個人も一人の民衆であり、こういった構造的な問題を必ずしも理解せず、それぞれの切実さをもって現状変更を行おうとしている。それは仕方ないことと言えるが、理解していようがいまいが、行っていることは共感を用いた信用戦争への参加だ。

もしこの状況でも、「問題構造と解決策」についての宣伝戦に勝利するのであれば、単に内容が、民衆の多くにとって直観的に受け入れやすかったからにほかならない。常識的な内容に聞こえる、同情心を引ける、変更の結果が利益になりそう。理由は様々だが、いずれにせよ共感の刺激が主戦場であり、議論は信用攻撃による宣伝の妨害か、逆に妨害してくる敵対者をやり込め、排除するための補完的な戦いの場にとどまる。

これを繰り返すことによって、民衆に直接語りかけることによって共感を広め、自分の信念に妥当する政治的利益が得られると信じる人間と、そうではない人間の間に、絶対的な断絶がうまれる。

後者にとっては、政治参加の可能な手段は、他人の宣伝の信用を攻撃か防御する争いに参加することだけだ。問題そのものを発議するには、議論の前提に共感してもらう以外に方法が存在しない。それが不可能なら宣伝者を攻撃する事によって現時点での政治利益を確保することを試みるか、諦めて全ての宣伝を無視し政治から撤退するかの二択となる。

こうして、公論上に残った人々が、民衆に向かって宣伝戦を行い、それを取り巻く「議論ゲーム」の勝敗に一喜一憂し、しかしその結果が政治に反映されないことに苛立つ、というのが現代まで続く「民主主義」の形だ。これは、インターネット出現以前から続いている。

インターネットの登場は、現代において、政治に関する議論の大半が、対立者を排除して密室で行われ、宣伝によって結果だけを反映する目的で為される議論か、対立者の信用を攻撃するための議論ゲームのどちらかであることを可視化しただけといえる。この状況自体の責任をネット論客やインターネットの存在に問うのは事実誤認だ。

・「表現の自由の擁護」により、表現の自由は守れるか

さて、とはいえ、インターネットにおいて広く根本的な議論を行えば、真なる民主主義にたどり着くし、表現の自由も守れる、などといった空言を述べて終えるつもりはない。

ここまでの文脈を踏まえ、青識亜論氏のnoteに戻り、今度は彼の「表現の自由戦士」としての活動がなにをもたらしうるかを分析したい。

青識氏は、批判者の根拠を問いただし、明瞭化を要求する事によって、社会正義を根拠に批判されている人や表現物を守ることが出来る、だからみんなでやろう、と提言して終わった。

だが、これは疑わしい。ここまで描写したとおり、信用攻撃のために、明瞭で徹底した道徳規範や論理的根拠の説明など必要ないはずだ。重要なのは攻撃に共感している勢力の多さ、引き起こされる損害の大きさだ。

逆に言えば、信用攻撃による表現規制を防ぐためには、表現規制を発議している個人や集団の自体への信用を失わせ、賛同者を減らすしか無い。そして、仮に特定の集団に対して成功したとしても、敵はいくらでもいる。成功するとしたら、もともとその集団が大した勢力を持っていないからだろう。十分に大規模な集団に対して勝利するのはまず無理だ。

青識氏は用語や概念、論理の曖昧な運用を批判する。それは例えば、差別や性搾取だ。だが、曖昧さは共感で賛成を取り付けるためには欠点ではない。人間は、自然言語を扱うとき、その定義を明確に言語化しなくても共感によってなんとなく運用することが可能だ。これは決して異常なことではない。脳の言語処理能力の優れている点と言える。もちろん、曖昧な運用は、事実が重要なときには危険だが、賛成を取り付けるためには、むしろ有利なことが多い。曖昧な言語運用を見た人間は意味を自分に都合よく推論して補完する。逆に明確化は記述の複雑さをもたらすので、読んでくれる人間が減少するデメリットのほうが大きい。

何より、自然言語の意味の明瞭さに、定量的、客観的で一般的な判定基準は存在しない。だから、無前提かつ対立的なコミュニケーションの場において、曖昧さの指摘は水掛け論にしかならない。是非を判定するのはそれを見ている聴衆の直観なので、曖昧さの指摘は、もとから言語運用が曖昧だと感じていなかった人間の認識を変動させる効果はほぼ無い

以上より、単に表現規制への賛同者を増やしたいという目的のためには、その問題を広げたい対象のうち大半の人間の許容の範囲内で最大限に曖昧で簡潔な言語運用を行う、というのが最適解である。重要なのは、その程度を分析するマーケティング的な調査だ。

これがすでに成功しているとき、曖昧さを批判しても効果はほとんどないだろう。もちろん、曖昧な言語運用を極端に嫌う人間を新たに味方につけることは可能だ。だが、それはそこまで多数派だろうか?かなり疑わしい。

では、彼の行いは効果が薄く、あまり意味がないだろうか?いや、そうではない。彼はもっと大きな目的を見据えていると思われる。

一つ興味深いのは、シーライオニング批判を受けた後、ツイッターIDをBlauerSeelöwe  (ドイツ語で青いアシカ)に変更した、青識氏のツイートだ。

まず、素朴な読み方をすれば、どのような描像が想定されているのか、全く理解不能だ。質問や言葉を重ねただけで、どうやって相互理解と寛容へたどり着くというのだろう?

最低限の相互理解と寛容が先にあるからこそ、議論が成立するのであり、それがない場合、いくら根気強く質問や議論を重ねたからと言って、相互理解や寛容がうまれるとは限らないどころか、往々にしてむしろ逆、さらなる不和、対立断絶の原因となる。

いや、明瞭なる議論の結果、あると思いこんでいた相互理解が勘違いであったことだけが明確化され、寛容が失われることすら、決して珍しくない。それはたとえ形式的になんら瑕疵のない議論においてすらそうだ。

オープンな議論により相互理解を深められる、といった教条主義を述べる人間は多い。だがこれは嘘八百と言っても過言ではない。議論は、前提に関する立場の違いが見えてきた時点で、本質的には物別れに終っている。それ以降の「議論」は、公論上で行えば、外野に向かって相手の信用ならなさを喧伝するための攻撃として主に機能する。

だいいち、議論は限界まで「オープン」に行っても、たいして開かれていない。議論そのものが嫌いだったり、論理的思考能力や言語能力が低い人々のことは考慮の外だ。わざわざ議論をしたり、見物しようとする暇人は限られている。

「偏った、ごく一部の人間の議論」以外の議論は原理的に不可能だ。議論を行う、という選択をする時点で、参加者は大きく偏っている。もちろんこれは決して、インターネットや特定のネット論客たちのせいなどではない。議論という行為そのものの性質と言える。

ところが、これらの自明なはずの事実は、意外なほど、世間に浸透していない。

話せば分かるから、話し合うべきだ、などという妄想はいまだ流布している。だからこそ、議論を打ち切る時に、なんとかして相手が間違っていたことにしなければ、議論から逃げたという烙印を押されてしまうし、シーライオニングなどと悪質な質問行為に名前をつけ、なにか新しい現象のように驚いて、誰かのせいにする動機が生まれるわけだ。

対話の原理的な困難さを理解している人間は、目の前の議論を真に受けない。議論だけではない。あらゆる言葉をまず疑って掛かり、気に入らなければすべて却下できる。だからこそ、気軽に議論に参加できる議論の結果、なにかの結論を絶対に受け入れる必要があって、それにより大損するとしたら、よほどの弁論術の達人を除いて誰も議論に参加などしないだろう。

だが、理解していない人は、一見正しそうな言葉を見せられると、反論しようと頑張ったり、あるいは結論を飲み込もうとしてしまう。議題にされているのが自分にとって非常に重大なものだったのなら、議論やコミュニケーションの様々なルールを無視してでも、何とか妨害しようと試みるのが、議論の結果や前提が気に入らない人間にとっては最適な行動に見えてしまう。そんなことをする必要はない、と多くの人間に納得してもらうには、論理で説得するのではなく、経験が必要だ。

青識氏は対話を通じて、対話の困難さそのものを実証し、普及しているという意味で、実に意義深い活動をしていると言える。この困難を、彼自身の罪に仕立て上げようとするのは偽証だ。いま誰がどこで話そうが、異なる価値観の間に対話は成立しない。それは大半の人間にとっては、対話を経てから、やっと気づく事実だ。

これをなるべく多くの人間が経験的に納得することには大きな価値がある。お互い何の気負いもなく、対立点を明らかにし、最低限の合意に向かう、といった民主主義における理想的な議論も、いつかは可能になるかもしれない。勿論、青識氏だけでは不足であり、別の立場の人間も、様々に対話を試みる必要があるだろう。そうしなければ、だれか別の人間ならうまくできるのでは、という偽りの希望が砕かれないからだ。

そしてそのうえで、表現の自由戦士を名乗っていることは、単なる大言壮語を超えた価値がある、と称賛したい。

表現の自由の内部の規範を根拠に、これを攻撃する相手に質問を重ねようが、批判しようが、表現の自由を守ることは、ほとんど不可能なほど難しい。すでに述べた大きな構造のひとつである。

法的なレベルではともかく、それを超えた強い意味での表現の自由は、もう崩壊寸前だ。それは、現在発生している信用戦争のすぐ延長線上にある。いま、ほとんどの民主的な決定は価値観や規範が多数派に気に入られるかだけで決まるもしその中に「表現の自由の擁護」が入っていなかったら、いや入っていたとしても青識氏の求めるそれとは異なっていたら、そして代わりに「良くない表現の制限」がむしろ良いこととされていたら、話は全て終わりだ。

そして明らかに、大半の人々は、表現の自由を守ること自体には対して興味がない。表現の自由が何を意味するかについて、明瞭に言語化して考えたことなど一度もない人間のほうが多いだろう。そして、真剣に考えても、大きな価値を見いだすとは限らない。

もちろん、自分の好きな表現を守ることに興味がある人はそれなりに存在するだが、自分も含む大勢の人間が気に入らない表現が槍玉にあがったなら、正義の行いであると主張しながら、追放側に投票したり、もうすこし消極的に、白票を投じてお茶を濁すのが常だ。気に入らない表現を守って嫌われるという選択肢を取るのは奇特な人間だけだ。

自分の好きな表現が、まさに危機にさらされている人々の間では政治取引の余地、連帯の理由が生まれる。だが、そうでない人間とは何を元手に取引を行えばいい?表現の自由に大した価値を感じていない人々は、それをめぐる議論に参加すらしないだろう。危機感のない人間の反応も鈍い。表現規制そのものに情熱を燃やしている人間が相手なら、会話すら通じまい。

そして、そういった人間たちはむしろ多数派だ。だからこそ、人気のない表現に対しては、簡単に自己規制や撤回の要求が発議され、通ってしまう。

後は、他人の表現に対する、SNS上で集団的に統率され、合法的で、それなりの根拠を備えた撤回要求日本中で大流行しさえすれば、話は終わりだ。今の所、日本には様々な表現の多様性が残っている。表現を攻撃することは、一部の勢力にとっては重要でも、そこまで流行していないのだろう。だが、これからはどうだろう。

青識氏が議論を徹底し、活動を広げれば広げるほど、これらの真実は明らかになっていく。議論により表現を守ることは難しく、擁護者は少数派。それらが経験的事実になって、初めて、他者からの理解と寛容を求める強力な動機が、表現の自由を守りたい人々の中にうまれるはずだ。

理解とは、「表現の自由」の示す意味と、その価値に対する理解であり、寛容とは、気に入らない表現や思想が自由市場の中にあっても追放を画策しない程度の最低限の寛容である。いま、これは存在していない。というか、そんなもの、はじめからどこにもなかった。あるような気がしていただけだ。これを成立させ、維持するのは、人類史上においてもかなりの難題だ。

逆に、他者を理解するための動機も与える。表現の自由を守るためには、表現の自由に無関心な人間、制限しようとする人間のもつ、知識や規範、情動に対する理解が必要だ。相手の行動を予測し、反撃し、交渉し、説得するために。もちろん、誰かに対して寛容になる動機は必ずしも存在しないが、生き残りを図り、政治取引する目的なら、気に入らない相手への寛容を発揮することも可能だろう。

なるほど、これは哲学的営為と言っても過言ではない、壮大な描像だ。彼の内心はわからないが、もしこのように推移するならば面白い。確かに、堂々と表現の自由の擁護と対話を掲げている青識氏の行動は、いつか相互理解と寛容につながる可能性のある営為とは言える。

無論、彼が表現の自由を本当に守れるかどうかは定かではない。信用を失ったり、攻撃を誘発して、表現の自由をより損ねてしまう危険もある。むしろ表現の自由の裏切り者として批判されるかもしれない。だが、やってみなければ分からない。信じることを自らの力で試みる、これによってはじめて成功の目がある。素晴らしい挑戦だと思う。

とはいえ、私は他の人々が、青識氏と同じように、根気強い質問や徹底した議論を行うべきだ、とはまったく思わない。自分の信じるもの、守りたいもののために、何をすべきか、何が出来るか、どれくらい時間や労力を割けるか、自分の頭で考え、行動するのがよいだろう。もちろん、青識氏のマネから入るのも決して悪くはないが。その結果、相互理解と寛容が必要だと納得できた人間のみが、それにむかって努力すべきだろう。

自分の信じている形の、理想の「表現の自由」の価値を信じるものは、これを信じない人々に何か出来るのか?信じてもらうことは可能なのか?不可能だとしたら、政治取引でも何でも使って、表現の自由を守ることは可能か?その目的のためにはどこまで何が許されるのか?これを考え、実行することが、表現の自由を守りたい全ての人間が行うべきことだ。

そして、ここまで読んでも、本当に議論の価値を毀損しているのが特定のネット論客達だ、と信じる方々には、「誠実な議論」を一旦諦めることをおすすめする。かわりに、その信用を広く貶めるような、なるべく簡潔な理屈を記述し、それに共感できるキャッチフレーズを発明し、できることなら絵を使った説明も添えるのが有効だ。例えば、マンガを使う、などは良い発想だと思う。ただやはり、日本語圏では日本語の漫画を使わないと、解釈の余地が生まれ、危険だ。議論の価値を取り戻すため、頑張っていただきたい。

ポリティカル・コレクトネスを根拠に、偏見や差別の固定や強化に寄与している表現をなくそうとする方々には、あまりアドバイスの必要はないかもしれない。このまま行けば勝利は近い。ただ、戦線の拡大し過ぎは逆に排除されるため、避けたほうが良いのではないだろうか。なるべく各個撃破が望ましい。またやはり、攻撃手段として輸入武器ばかりを使うのは、文脈を輸入することが難しい以上、控えたほうが良いと個人的には思う。今回のようにあまり良くない武器を掴まされる危険も大きい。武器は日本語圏で発明すべきだろう。これは継戦能力の強化にもつながり、有効だと思われる。

・ソクラテスの成功/失敗、そして課題

青識氏はnoteの中で、正しいシーライオニングはソクラテスの用いた問答法に近いと述べ、自身の活動は現代のソクラテスの如き行いだと冗談めかして主張した。これは単なるジョークをこえ、面白い観点であり、「道徳と思想の自由と議論」をめぐる現状理解のためのヒントを与えている、と私は思う。

ただ、「ソクラテスは問答法で知者たちに議論をなげかけ、常識や絶対的価値観に挑んだが、支配階層から疎まれ、死罪に追い込まれた」といった総括は、歴史以前に寓話としても単純化しすぎているし、面白みに欠ける。

せっかくなので、ソクラテスの行いから現代に至る流れについて、私なりに整理して、別の寓話を述べ、問題を提示する。もちろんこれも、歴史的事実というにはあまりに私の偏見と解釈が入りすぎていることは予め断っておく。

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

ソクラテスが生きたのは、紀元前、古代の都市国家アテナイがギリシャの中心地としての栄華を極め、民主政を確立した時代だ。市民権のある成人男子、ほぼ全てに参政権が与えられた。これは当時としては相当に先進的なものだ。もっとも、奴隷や女性は蚊帳の外だったのだが。

アテナイの価値観は、ギリシャ神話に立脚する伝統的なものから急速に変化していく過渡期であった。この触媒となったのが、繁栄によって各地から流入してきた、ソフィストと呼ばれる、金銭を受け取って人間に徳を教えると称する弁論家・教育家、およびそれとは別に唯物論・無神論をとなえる哲学者たちだった。

ソフィストの需要を生み出したのが、民主政そのものである。ここでは聴衆を説得し、自己の主張を信じさせることが社会的な栄達の要件であった。このために、道徳とは、倫理とは、望ましい社会とはなにかを説得力を持って語る技能、弁論術が求められた。当時流行の徳目は敬虔、勇気、知恵、節制、正義などだが、目立つのが目的だったわけだから、それらを語る言葉の新しさや個性なども重要だった。

唯物論や無神論をとなえたのは、単に科学的考察の萌芽を追い求めた哲学者たちだったが、その思索はギリシャ神話的な世界観に反しているため、しばし神々に対する不敬の罪で糾弾された。だが、彼らの語る「事実」にはそれなりに説得力が有り、人々の信仰を揺るがした。

こういった相互作用により、道徳や倫理について様々な言論が発展し、価値観の相対主義的な気風が広がった時代でもある。

ソクラテスは、人間理性の限界を前提とした、不可知論と信仰の立場から「知り得ない探求を行うのではなく、アテナイの神々にしたがって節度をもって生きるべき」といった、むしろ超保守的ともいえる思想を持っていた。

ただし、単なる反理性主義的な保守思想家と異なるのは、知っていることと知らないこと、知り得ることと知り得ないことの境界を徹底して追求しようとした点だ。理性の限界をわきまえ、節度ある態度を持ちながら、その範囲内で最大限よく考えて生きるべきという主張を、生涯をかけ実行し、その過程で、後の様々な哲学や論理学の基礎となる議論を展開したことが、哲学の祖と称される理由と言える。

さて、この立場をもとに、彼は多くの道徳、倫理を語るあらゆる人々を論駁した。相手が語る道徳に関する命題の根拠を、具体例を要求し、追加前提への同意を取り付け、仮定法を用いて問うていく。これがいわゆる問答法だ。大抵の場合、論理は矛盾して行き詰まる。これを、ソクラテスは単なる否定ではなく、徳に関する無知を自覚させ、さらなる知を産み出す助けとなる行為だと主張し、有名な産婆である自身の母の技術になぞらえたことから、産婆術とも呼ばれるようになった。

とはいえ、ソクラテス自身はむしろ素朴な神々への信仰の観点から、価値観の相対主義は否定した。彼の徳に関する主張は複雑だが、重視したのは自律性だ。徳に関する真理は全ての人間が自分の頭で考えるべきだと主張し、ソフィストのような他者に教授された言葉を、真理として受け入れる行為を嫌い、その権威や信用性を失わせ、代わりに万人が自力で真理を追求可能な技術の考案や普及に明け暮れた。また、木工や建築など、生活実用のための技術の追求や教授はこれを推奨し、自らの技術も実用のための技術に当たると主張した。

さて、思想の上ではソフィストに対立する立場を主張していたソクラテスだが、民衆にはソフィストや無神論的な哲学者と同一視され、むしろその頭目のように思われていたようである。そういった筋書きでソクラテスを風刺する喜劇も存命中に発表され、現代にまで残っている。

運動場や街角など、相手も若者から老人まで、とにかく片っ端から議論をしかけていたらしく、多くの人間を議論の過程で怒らせ、嫌われた。心酔する弟子も多かったが。

ソクラテスの晩年にかけ、アテナイは没落の時代へと進んでいく。その引き金になったのがペロポネソス戦争の敗戦と、その後の三十人政権とよばれる独裁政治だ。

敗戦の原因になったアテナイの裏切り者アルキビアデス、独裁政治で多くの市民を処刑した政権の筆頭クリティアスはどちらもソクラテスの弟子だった。彼らは、政敵を論破する弁論術の技法のためにソクラテスに学んだとされ、実際に弁論巧者として名高かった。政権崩壊後、ソクラテス自身も、アテナイを没落させた危険思想家の一人と批判されるようになる。ソクラテスは、自身は政治に関わらなかったと反論したが、批判はやまなかった。

アテナイには民衆裁判という仕組みがあった。専門の裁判官や弁護士は存在せず、全てが市民の手によって行われた。直接民主制の体現と言えば聞こえは良いが、実際には悪用され、濫訴が相次ぎ、詐欺や政争、内紛などの場となった。裁判の内容によっては、量刑すらその場の議論と多数決で決めるものだった。

晩年、詩人・演説家・政治家の告発をうけ、アテナイの国家が信じる神々とは異なる神々を信じさせ、青少年を堕落させた罪によって民衆裁判にかけられたソクラテス。仮に罪を認め追放刑を申し出ていたなら、死を免れる可能性は高かった。しかし彼は、自身はアテナイの神々を信じており、また自身の行いは全くの正義にかなう行為であることを断固として主張した。

その中で披露した有名なエピソードが、ソクラテスは自身がこの世で最も賢いという神託をデルポイ神殿で受けた、というものだ。そしてその根拠は無知の知、つまり何を知らないかを知っている分、他人より賢いとした。これを知らしめ、真に賢明なのは神だけであると示し、無知の知を広めるために、神と国家への奉仕を行ってきたのが自らの生涯だと総括した。

また途中、処刑は自分にとっては害はないが、むしろ神からの贈り物であるソクラテスを失う市民にとって損だとか、奉仕の報酬として、公会堂での食事を受け取るべきだと述べたり(これはオリュンピア競技の優勝者などに与えられる、アテナイで最高の公的顕彰であった)した挙げ句、少額の罰金刑を申し出た。

そして、籤による抽選で選ばれた500名の市民陪審員の多数決で死刑が確定した。告発したのは支配者層だが、ソクラテスに毒人参の杯を飲ませることを決定したのは、民衆の意志だったと言えよう。ちなみに、最終的に投票は約360対140だったと伝えられている。

さて、なぜ市民たちはソクラテスの死刑に投票したのか。

この原因を、直近の敗戦と独裁制のもたらした不満の責任転嫁とするのはひとつの伝統的解釈である。あるいは、国家の顕彰を受けるべきだとか、神の名を語った傲慢さが怒りを刺激したが、これはソクラテスの策略で、むしろ死刑にされ、正義の不在を証明するのが目的だったという説もある。

市民それぞれの内心などいくらでも想定できる。その日初めて彼を知った人間が、なんとなく顔にムカついたから死刑に投票したのかもしれない。

だが、こうも考えられる。

「ソクラテスの問答法は、すべての神々と徳目を否定し、国家と市民を堕落させる最悪の技術で、彼はそれを発明し普及した責任をとって死ぬべきだ」と多くの市民が自分の頭で考え、自信を持って死刑に投票したのではないだろうか。

この描像を採用すれば、ソクラテスが失敗した後、今日まで残り、人類が解決できていない課題が浮き彫りになってくる。そのために、一度、寓話の時間の流れを終わりまで進めよう。

色々なことを考えた挙げ句、人類は最終的に、科学的懐疑主義と専門家コミュニティによる相互批判という、経験知識や理性に対する懐疑と信頼のバランスを探っていく思考・コミュニケーション手法にたどり着き、信用を獲得、理性主義における中心的な思考法の地位を確立した。実は、懐疑主義的なコミュニケーションが世論の表舞台に復権したのは、これ以降だ。

科学的懐疑主義や相互批判がなぜ信頼を得られたのか、少し考えてみよう。科学的懐疑主義は、徹底して相互批判を行っても、いつかは議論が収束することを仮定している。宇宙は一つであり、事実は一つだと考える。実際には、この目的のために様々な数理モデルを駆使したり、大量のデータを集める必要があるわけだが、事実に対する懐疑が、原理的には無限後退しないことを、大半の人間は何となく信じている。そしてその結果、様々な有益な成果がもたらされているから、今日まで信じ続けている。

だが、道徳のような価値判断を対象にした場合、懐疑主義的なコミュニケーションや議論、相互批判がいつか収束するという、単純で直観的な根拠は無い。

この解決策を、ソクラテスをはじめ様々な人間が導入したが、失敗し、今日に至るまでうまい方法が発明されていない。ここが、この寓話の主題だ。もう一度、ソクラテスの時代に戻って、この観点で話を眺めてみよう。

ソクラテスは相対主義の否定と、徳の自律的な探求による真理への到達のため、問答法を考案し、ソフィストたちの語る道徳の欠陥を示した後、ともに考えようと呼びかけ続けたが、実際には問答法は他人の道徳の信用を毀損するために使われた。ゆえに、相対主義の権化、正当なる神々の否定者、徳を否定する技術の教師とされ、民主主義と神の正義の名のもとに、多数決で処刑された。

彼は、議論を収束させるための信頼の根拠をアテナイの神々の司る道徳に求めた。真の道徳のためという目的がなければ、問答法は単に他人の道徳を攻撃しているだけになる。かと言って、自分の言葉で「真の道徳」を語ったら、ソフィストとやっていることが同じだ。だから、道徳的真理の存在は信仰し、しかしその内容を言語で説明するのは、人間の領分を超えているのでやらない、という独断論で回避しようとしたわけだが、その根拠となる信仰を疑われた事により、失敗した。単に信仰を疑われただけでなく、生涯をかけて追求した問答法の価値すら否決されて終わった。前提を疑われると、それ以降の議論自体への信頼が全て無効化されてしまうのが、論理の恐ろしいところである。

弟子であるプラトンは、ソクラテスを敬愛し、彼の語った言葉を残すための物語を著し、問答法の価値こそ確信していたものの、民主主義には絶望し、エリート主義的な政治・教育思想に傾倒していった。とりわけ、徳に関する真理は、選ばれた一部の哲学者たちが、民衆と国家を導くために探求する物とされた。プラトンは神々への信仰の代わりにイデア論、物質世界を越えた向こうにある真の世界を仮定し、それが一つだからすべての真理は一つ、ただしその影である物質世界の見え方は様々だとした。だがはっきり言って、民衆には新興宗教にしか聞こえなかっただろう。もしソクラテスと同じことをしたら、やはり処刑されていたに違いない。彼は賢明にも、民衆に問答法をしかけたりはしなかった。

さらに、孫弟子に当たるアリストテレスは、問答法は必ずしも良い方法ではなく、とりわけ道徳や倫理に対しては行うべきではないと断定した。そして、単純な経験事実から出発した演繹法による哲学を創始し、色々な成果を得たが、これは自然哲学においては大量の誤謬を含んでいた。今日の科学の視点からいえば、経験事実に対する懐疑の不足が原因だった。

その後、やや別の流れとして、人類は聖書と一神教を発明した。その一つがキリスト教だが、これは思想上はアリストテレスの発想と親和性が高く、彼の自然観は宗教的権威を得た。懐疑的なコミュニケーションの徹底自体をやめ、独断的に誰かが提示した世界の真実と道徳規範を語る言葉を皆で受け入れる人が増えた。それが神の与えた聖なる書だ、とかいう物語は本題ではない。

重要なのは、こういった独断的な道徳規範があっても、懐疑的なコミュニケーションはむしろ発達したという点だ。それがキリスト教神学であり、これは、聖書の言葉は疑わないが、その解釈を疑い、相互批判する。あくまでキリスト教の道徳と真理に近づき、理解するためだったが、とにかくコミュニケーションは成立し、発展していった。

さて、これを徹底しているうちに、疑ってはいけないはずの聖書自体の記述やアリストテレス的自然観そのものを疑う異端者が出始め、しかもそれらが間違っている大量の証拠にまで到達してしまった。その過程で成功したコミュニケーション法から、科学的懐疑主義にたどり着いたわけだ。

だが、上述したとおり、これは事実にしか適用できない。しかもこの懐疑の過程でキリスト教自体への広い信仰を破壊してしまったため、道徳をみんなで議論するための根拠が、どんどん摩耗していった。

解決のために、既存宗教の権力を復活させるとか、布教を頑張るとか、既存宗教をかけ合わせて新興宗教を生み出すという試みは失敗した。すでに神が信用ならないことを知っている人間が大半だったのだから、無理はない。もちろん、まだまだ頑張っている人々は存在する。彼らは決して失敗を、あるいは問題自体を認めはしないだろう。それが信仰というものだ。

ともかく、自由な国家を運営するためには、法の根拠となる普遍的な道徳への信頼が必要だった。この目的で、人々は、ようやくアテナイの流れを引き継ぎ、神への信仰の代わりになる、しかし議論を阻害しない最小限の原理を本気で発明しようとした。規範倫理学と呼ばれるものがその一派だ。たとえば、神の物語は信じられなくとも、その語る道徳の一部は良さそうなので、これをバラしてかき集めるとか、色々考えたわけだが、たどり着いたのは人間の普遍性に対する信仰に近いものだった。

要するに、人間は色々違っては見えるけど、国家のような集団レベルで見れば同じようなことを考えるだろうから、最低限一致しているような気がする性質の中で、道徳の根拠になるっぽいものを抽出し、それは疑わない、ということにした。

この路線を歩んだ哲学者は非常に賢い人間が多く、彼らなりによく考えたのだが、個人の直観が根拠だったので、言っていることは事実レベルではやっぱり怪しかった。アテナイの哲学者よりは明瞭な議論をしているのだが、それなりに複雑で勉強するのが面倒くさいのもマイナスだ。

これ以降も、色々な哲学者、またはそれ以外の人間も十人十色の様々な道徳の普遍的原理のようなものを考え、ときに世界を動かしたわけだが、言ってることが相当違い、数が多く、内容も割と怪しい。しかも、それらの議論と並行し、下手をするとそれを根拠に、人類は大量虐殺などをやらかしたので、道徳の普遍性の存在、道徳そのものに対する疑いも激しくなった。

そうこうしているうちに、人類の中でこういったことを多少なりとも真剣に考え、理性的に議論するのはごく一部の暇人だけになっていく。善良な理性主義者たちの大半は、収束するのか、いや意味があるかすらよくわからない、むしろ人類に有害かもしれない曖昧な議論に積極的に参加するより、科学で事実を追求し、利益の総量を拡大して、市民に分配するほうが人類のためになると考え始めた。

ちなみに日本でも、様々な宗教を輸入した後、科学的思考も輸入、そして近代化のために国家神道を発明したり、その信仰が敗戦で破壊されるときに、憲法に(当時にしては)最新の道徳の普遍的原理っぽいものをいくつか書き込んでおくなど、いろいろな人間が最大限の努力はしたのだが、やはり同じような結末をたどった。

法は確かに暴力による強制力をもっているという意味では強力なのだが、その根拠に道徳を書き込んでも、大半の人間はそれ自体を信じるわけではない、というかそもそも読まない。ただ暴力を受けるのが嫌なだけで、それ以外には何をやってもいいと考える。第一、法は多数決だけで何度でも変えられてしまうので、信頼の根拠として貧弱過ぎる。

かと言って、我々は道徳を失ったわけではない。民衆の心と人類の保持する大量のテキストのなかには、実に様々で大量の道徳、あるいは道徳を語る言葉が残されている。本能的なものであったり、かつての素朴な信仰や哲学的議論の残滓だが、まだ新しい道徳を発明しようと頑張っている人もいる。これらは相互に矛盾し、曖昧で、共感だけで広がり、ときに暴走するわけだが、懐疑し、批判することは容易ではない。信頼の根拠が無いから、攻撃と否定にしか思われない。

価値観や道徳観が異なる人々が、議論によってひとつの真理にたどり着くなど、ほぼ誰も信じなくなった。一方、それらを積極的に語って広め、他人の思考や行動を変更しようとすることは流行っている。これが現在、我々がいる地点だ。

紆余曲折の末、ソクラテスが居たころのアテナイと同じような状況に、人類は再びたどり着いた。我々日本人もその地平にいる。

進歩がないわけではない。むしろ、様々な発明品を使い、それなりに楽しく暮らしている。科学技術の恩恵だけではない。例えば、法治主義を発達させたことで、他人を議論で怒らせても、多数決で毒人参を飲まされて処刑されるようなことは、滅多になくなった。これは相当の進歩だ。

女性にも参政権は与えられる。奴隷がいるかどうかは、まあ奴隷の定義によるが、ともかく参政権はある。残念ながら未だに参政権のない人々もいるが、我々がもっともっと進歩すれば、そのうち与えられるだろう。他にも、いろいろな素晴らしい権利の数々が、行使できるかどうかは別としても、とりあえず与えられている。満足できているならば良い。だが、政治について語りたければ、民主主義に従う必要がある。

さて、我々は、誰と語り合うことができるだろうか。

自分と価値観がなるべく一致する人間とだけ語りたい人間は、それを判別する手法、逆に自分の価値観を示す礼儀作法、言葉遣いを身につければ良い。また、そうでない人間を排除したり、無視したり、嘲笑する技術があれば、いろいろな場面で便利だ。それなりに訓練や習熟が必要ではあるが、よく勉強すれば身につけることができる。うまくすれば、他人の価値観を攻撃し、変更することも可能だろう。これにより過半数を占めることができれば、民主主義の名のもとに、何でもやりたい放題だ。

あるいは、価値観が云々などと余計なことを言わず、おとなしくしている道もあるだろう。沈黙は金、雄弁は銀というのは、ある種の真理だ。その場その場での振る舞いさえ身につけ、余計なことさえ言わなければ、価値観の異なる様々な人間と、政治以外の物事について、語る自由はある。これでひとまず満足するというのも悪くはあるまい。

さて、そうでない人間にとっては。非常に難しい問題が、解決されていない問題が、いまなお残されている。

それは、同じ価値観を共有しない相手、一度信頼が失われた相手と、価値観が異なるままに、それを前提として、社会道徳について真剣に語りあう手法が存在しないことだ。信頼を少しずつ広げていく技術すら、存在していない。これを発明することが必要だとは思うが、そんなこと本当に可能なのだろうか。まあ、必要は発明の母という。何が必要かを認識し、気長にやるしか無いだろう。

さて、もう一度、最新の二つの流れに戻ってみよう。

議論の価値は、失われていない。誰かが言う、奴の議論の目的を疑えと。本当の議論の価値を思い出せと。一理あるとは思うが、それを言ったら全ての人間が疑わしい。いや、疑うなとは言わない。せっかくなので、もっともっと疑うべきだ。あなたの信じている人、あなたと議論している人、あなた自身は、何の目的で議論している?聴衆は何のために聴いている?説明できるだろうか。それは本当に正しいのだろうか。疑惑は停止しない。そして相手も疑っている。古代から互いを疑い、攻撃し、そのために議論してきた。議論の価値など、もとよりそこまで大したものではない。気楽にやろう。

とはいえ、過度な楽観も禁物だ。誰かが言う、人類は議論の繰り返しで社会を作ってきたと。確かにそうなのだが、何が出来上がるかはコントロール不能であり、結果として社会が壊れることもある。実際に何度も崩壊させてきた。我々は、全くの幸運、偶然ゆえに、今の社会を維持しているに過ぎない。世界と歴史を見渡したとき、言葉と共感、論理と道徳がどれだけ破滅的な結末を招きうるのか、いくらでも無惨な失敗が転がっている。もっと言葉の力を畏れたほうがよい。その力は、語るものよりむしろ、聴くものが源泉である。いま、神への畏敬は不在なのだから、人間に節度をもたせる事ができるのは、ただ人間に対する畏れのみである。

さて、話は終わった。解決は可能なのか、いや、これは真の問題なのか、私がこんな問題構造を提示する動機は何なのか、考えていただきたい。

最後に、デルポイ神殿に刻まれていたとされる、三つの格言を紹介する。ただし、取り扱いには気をつけよう。実は神託は、ギリシャの各都市の政策に影響を与えたため、情報戦の道具にされ、賄賂で左右する行為すら珍しくなかった。この言葉も、誰が何の目的で刻んだのか、いや、本当に刻まれていたのかどうかすら、いまや、何ひとつ明らかではない。

γνῶθι σεαυτόν                          汝自身を知れ

μηδὲν ἄγαν                             度を越すなかれ

ἐγγύα πάρα δ᾽ ἄτη                  誓約と破滅は紙一重

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