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全てが箕輪編集室化する:唯一神、マーケティングの君臨

箕輪厚介氏のセクハラ、パワハラ騒動はまだ記憶に新しい。各所から批判が噴出した。しばらく彼は表舞台から姿を消すだろう。

しかし、今回私が主題にしたいのは、箕輪厚介氏自身の人格や、行為ではない。オンライン・サロンの言論の構造、そしてその一般性である。

そもそも、今回、セクハラ、パワハラという形で表出しただけで、本当の問題は個別のハラスメントではない。あえて言うなら、ハラスメントを誘発する構造への批判を無効化できる構造そのものが病理だ。

本noteは上記の騒動を他人事だと思っている方々、とくに「オンライン・サロン否定派、無視派」である方々に対して警告するのが目的である。

現代のネット言論は、マーケティングのロジックだけが支配し、そのもとで価値観だけでなく、事実認識すらも束ねられつつある。

「誹謗中傷はダサい」という空気は、その構造を強化するだけだ。マーケティングの文脈では、批判は他者を攻撃するだけの不毛な行為とみなされる。そうでない唯一の場面は、利益のために行う批判である。つまり攻撃による客の奪い合いだ。ゆえに、批判は利益のための行為とみなされる。

上記を、箕輪サロン騒動、の後の箕輪サロン内部と外部の反応から説明し、その「解決」が容易ではないことを見ていく。

1.「箕輪編集室」の病理とはなにか

最も典型的だと思った「内部」の2つの反応をまず引く。

箕輪氏を批判し、オンラインサロン、箕輪編集室を退会した、みずほ氏のnote。そしてそれに対する、箕輪編集室メンバーの、荒木利彦氏のnoteである。

後者はすでにnote記事が消去されてしまっているので、Web魚拓を引かせて頂く。


流れを勝手に要約する。

まず、みずほ氏は、フェミニズムと性暴力批判の観点から、箕輪氏の行為をセクハラ・パワハラだとし、とくに編集者とライターという権力関係を背景とした構造を批判。しかし箕輪編集室自体の取り組みの価値は擁護し、対策に向けた提案、とくに立場の弱い学生メンバーへの配慮の必要性、女性主体プロジェクトのジェンダー感覚の欠如、等を述べ、退会した。

これに対し、荒木氏は、みずほ氏の批判は箕輪編集室の活動に一石を投じた行為だと称賛、箕輪氏の行為もセクハラだと批判した。しかしその後、みずほ氏の箕輪編集室批判も、以下の観点から「批判」した。

・オンラインサロンは対等な関係なので、学生に配慮しろという発言は事実認識として間違っている。

・フェミニスト、という聞いたことのない立場を主張するのは分断を呼ぶので良くない。

・女性主体プロジェクトにジェンダー感覚が欠如している、という批判は失礼だ。

さて、以上の荒木氏のnoteに「反論」したくなってしまった人、ちょっとまっていただきたい。本noteは荒木氏に「反論」するのが目的ではない。

「反論」しても無駄だという現実を認識して頂くのが目的だ。

まず、私の理解では、荒木氏のnote「批判」はそもそも批判ではなく単に立場を明らかにし、事実認識を却下しているだけである。

まず、メンバーは対等な関係というのは、事実か否か。これに対して議論することはできる。だが荒木氏は、サロンメンバーは対等な関係だとされているので対等だ、という立場だ。この立場を取られた時点で、反証は不可能だ。

次に、「フェミニスト、という聞いたことのない立場」を持ち出すのはやめよう、という主張。これに反論できるか?無理だ。

が本当に聞いたことのない、X-ismがあったとして、X-ismの立場からを批判してきたとき、私はとりあえずX-ismに関して検索する。だがそれはの立場だ。荒木氏がそうしないのは単なる自由である。

最後、失礼だ、に至っては、単なる宣言だ。これは任意の発言を却下できる。

これらに「反論」したところで意味はない。荒木氏は却下したいので却下しているだけである。

オンラインサロンのあらゆる言論は、内部の人間が何が好きかだけで評価される。外部からの批判も、内部からの批判も、みんなが却下したいなら却下される。

これに対して有効な批判など存在しない。そもそもオンラインサロンというのはそういうものだからだ。 人々は、マーケティングの結果、自分にとって魅力がある事実認識を売ってくれる場であるというから参加しているだけで、気に入らないものは却下するし、場が嫌になったら抜けていい。

恐ろしいことにこの大前提は、箕輪編集室を批判していたみずほ氏側も同意している価値観だ。

唯一の「通る」批判は、箕輪氏がセクハラをしたという点、それだけである。性犯罪忌避は「世間」全体に受け入れられた強い規範である。だがセクハラを生み出す構造や認識への批判は、通らない。それは共有されていない。

みずほ氏が自身の信念をオンラインサロンに実装しようと思ったら、自分で立ち上げるか、すでにその信念が共有されているオンラインサロンに参加するしか無い。

その後、そのサロンの信念が批判されても、却下するだろう。究極的には、箕輪氏のサロンが好きで参加している人々と同じ構造の中にある。

そして、これは箕輪氏や、オンラインサロンや、出版業界特有の構造ではない。

2. 唯一神、マーケティングの君臨

そもそも箕輪厚介とは何者なのか。編集者、出版業界をハック、オンラインサロンの運営?要するに何をやっているか。私が解説するより、業界に詳しい外部の人の発言を引こう。

ライター、編集者の久保内信行氏が何度か、言論マーケティングの業界人として、「解説」を行っている。詳しくはそちらを読んで頂きたい。一連の解説のひとつを紹介する。

久保内氏の指摘を勝手に要約する。言ってることは実に簡潔だ。

箕輪厚介氏は、自己啓発本とか、出版と言った特定の対象とは関係なく、インターネット上の情報マーケティングの基本原則を無前提に追求している。さらに色々な条件があたり、ハマっただけ。

これは全くの正論だろう。

情報マーケティングとは、有り体に言えば、人間の最大多数派閥を動物、サピエンスと扱い、その習性のみを利用して情報の流通量を最大化することだ。普通に考えたら、この手法は強いに決まっている。

とはいえ、全てはマーケティングである、というのは「フェイク」だ。いや、正確に言おう。マーケターの利益最大化のための、フェイクかファクトか判定不能な、一面だけの真実である。

全てがマーケティングである、と述べる人は、それが自分に都合がいいのでそう言っているにすぎない。

マーケティング以外のものある、と述べてもよい。一面ではそれもまた真実である。後は、人々が自由の名のもとに何を選ぶかだ。

ただし、今、人々は「全てはマーケティングである」の方を選びつつある。これが真の問題の構造だ。

マーケティング以外に大事なものがあるだろ!と誰かが言ったとして、それは信用されない。

私以外でも同じだ。学者、運動家、あらゆる人が、「フェイク」を売るマーケティングを批判しても、無力だ。これはなぜなのか。

3. 何が「原因」なのか:「ファクト」の追求は可能か?

この原因を個別のマーケターたちの倫理に帰するのはズレた発想である。倫理的批判は可能であるが、無力だ。だれかを非倫理的であると批判しても代わりが出てくるだけだ。

問題の原因は、解決可能なもの以外、指摘する意味は薄い。

原因はなにか。私の理解では、結局、マーケティングの隆盛は、マーケティング以外のロジックを用いる人々の信用が失われていることだ。

たとえば、箕輪厚介が「ハッキング」した、出版業界は、なぜハッキングの手口に勝てないのか。飛びついてしまう一部の業界人のモラルの問題なのか。そんな切断処理をしていいのか。

敢えて言おう、この流れは、「ファクト」を発信する側、とくに大手マスコミや学術出版の傲慢と怠慢に多くの責任がある。

いま市民には、「ファクト」VS「マーケティング」だとは思われていない。

「下手なマーケティング」VS「上手なマーケティング」だと思われている。真実の価値はすべての市民のために、という看板が、「下手くそなフェイク」だと思われてしまっている。

マーケティングの唯一神化が気に入らない者は、決してそれに目をつぶってはいけない。マーケティングの手法を学び、その中での自分の立ち位置を確認し、別の神の信用を確立するしかない。

「ファクト」を標榜する出版社、とくに学術出版の敗北の流れは、この客観視が出来ていなかったこと、そこに尽きる。私は、愛読している/いた、学術出版社が衰退、消滅しつつある流れを観察している。それは無辜の被害者ではなく、当然の敗北者にしか見えない。

現行の出版業界、とくに学術出版業界は、現代の情報の流れの「主流」がインターネット上のマーケティングに移っていること、これは決して逆転せず、加速し続けること、これをまず認識すべきなのに、していない。紙媒体中心、マーケティング不在の「出版業」、それ自体が傲慢と怠慢の証拠と言って良い。

事実を追求する業界が、自らの業界に不利益な事実から目をそらす事自体が、全くの自己矛盾である。

「ファクト」を追求し、記述し、それを広めることで「フェイク」に抵抗せんと欲するものには、より多くの力と倫理的規範が要求される。

無論、単に力だけではダメだ。無前提のマーケティング合戦を行ったとき、勝つのは余計なものを背負っていない、完全なるマーケティング・モンスターだ。それはあらゆるフェイクとファクトを、人々が気に入るかどうかだけで判定し、売りさばくだろう。

しかし、倫理的規範だけでもダメである。そもそも、倫理規範とは、強いものが己に課すから意味があるのであって、弱者が述べてもそれは言い訳にすぎない。自分の敗北が確定してからルールの変更を騒ぐ人間は公正ではなく卑怯者である。

あくまで、マーケティングの手法を学び、追求しながらも、自らが別の規範で、もっといい「商品」、すなわち「ファクト」を売っているということを、マーケティング以外の論理で示し続ける不断の努力が必要だ。

これは自己批判によって証明し続けなければならない。他者から批判されたから渋々、こっそりなおす、というのは「ファクト」の神の信用を毀損する最悪の背信行為である。もちろん、批判されたら反論しても良い。だが、それは「不当攻撃に対する正当防衛」などであってはならない。つねに、正当と正当の間の不断かつ終わりのない争いである、とみなすべきだ。

「ファクト」を求めるものは、常に不利な戦いを強いられる。だが、それを理解できない人間は「ファクト」の擁護者を名乗る資格はない。とりわけ、学問は、決して「悪」に対する「正義」などではない。過去に私がその非対称性を「擁護」した、アンチファシズム運動とは構造が異なる。

学問は、学問自体を自己目的とする。つまり「悪」だ。

「ファクト」の追求者は、「ファクト」を追求したいから、そうする。つまり「悪」だ。

これらの「悪」でマーケティング至上主義という別の「悪」に勝つ、これがやるべきことだ。

「悪」は、自らの野望と支配を、自らの力と責任で持って追求する。その過程で負けそうになったとき、相手が「フェイク野郎」で「悪」だから俺が不利なのは仕方がない、と言ってしまった瞬間、それは単なる「反フェイク運動」に成り下がる。

学問は、ファクトの追求は、「反フェイク運動」ではない。真理を追求し、その利益を全市民に分け与える行為である。全市民とは、ファクトを理解できない人々も含む。

この建前を捨ててしまった瞬間、全ての信頼は崩壊し、学者や学術出版社や一部マスコミが勝手にやる弱小ビジネス、お遊びとなって、確実に敗北する。今、敗北しつつある。

上述の問題点は非常に危険かつ、「解決」は難しい。問題点は明らかでも、対応する策は全く固まっていない。皆さんに考えていただく必要がある。後のnoteでも扱いたいテーマの一つだ。

とりあえずまとめに入る。


・箕輪サロン問題は、箕輪氏の資質の問題ではなく、それを取り巻くオンライン・サロン的言論の構造自体にある。

・それは特定のオンライン・サロンをこえ、あらゆる情報マーケティング的手法の自明な帰結である。

・これはマーケティング側が「悪い」のが原因ではなく、マーケティング至上主義以外の価値と力を確立できていない人々に原因がある。

特に、学術出版を取り巻く現状を憂う方々には、上記の問題構造についてぜひ考えて頂きたい。

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