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やっぱりHSPだと言いたくない

なんか、昨今の「繊細さん」ブームの流れで言えなかったけど、吐き出してしまったらスッキリしたので、気を良くして、また書こうと思う。


前回は、こちら。


「私、繊細なの」「私、HSPかな」って言ってる自分が、実は嫌いだった。

「私って、内向的」とか、「私、どうせ暗いし」っていうのも同じ。

まぁ、今でも思ってるけれど。

でも今は、「ちょっとセンチな気分に浸りたいわぁ」と、自覚してから浸るようにしている。


だって。

どう考えたって、なんだか、浸ってる自分に酔ってるようにしか見えないだろうし。

もちろん自分の姿は見えないから、自分ではわからない。

でも、ハタから見たら、よくわかるはずで。

カガミ張りの家にでも住んでたら、穴がいくつあっても足りないもんだと思う。


いま思えば、そんなにセンチな気分に浸る必要もなかったし。

別に、繊細だろうが、大胆だろうが、どっちだろうと生きていける。

それでも、本気で浸っていたときは、切実になんとかしなきゃと思ってた。


要するに、いわゆる「人気者」に、嫉妬しているだけなんだな。

どうしても、面白い人が目立つし。

派手な人が目立つし。

自分も、ああならなきゃいけないんじゃないかって、思わされてしまう。

人間は比較の生き物だから。


でも、これがもしも。

「繊細な人のほうがカッコいいわぁ」っていう世の中だったとしたら。

悩まないんじゃないか。

むしろ、派手な人のほうが、「どうしても、こうなっちゃう」と悩むかもしれない。


自分に合わない場所で生きていたら、そりゃ、肩身が狭いもんなんだわ。


たとえば。

英語が全然しゃべれないのに、英語しか話さない人たちの輪にいたら、居場所がなくてモジモジしてしまうだろう。

自分が内向的かどうか、繊細かどうかっていうのも、環境で決まる部分っていうのは大きいと思う。


実際、自称・内向型という人たちと集まったとき、「本当に内向型なのか?」って疑ってしまうほど、みんな、自分語りが止まらない。

誰もが、しゃべる場さえ与えられれば、流暢にしゃべるもんなんだ。

ってことを、実感した。


悩みっていうのは、「こういう自分は嫌われるんじゃないか」っていう、他人という対象ができたときに生まれるもの。

だから、「他人の目線をまったく気にしない」って人は、強いんだよね。

どうであろうと、気にしなければいいんだから。


ってことは、だ。

繊細かどうか、内向的かどうかっていうよりも。

「他人の目を気にしないでいこう」っていう雰囲気があれば、どうでもよくなるんじゃないか。

日本はどうしても、「察する」し、「配慮」するし。

そんな空気感が、よくも悪くも、人を悩ませる要因にもなる。


ほんとにね、「悩む必要ないよー」と言いたいもんだ。

そして、「繊細」とか、「おおらか」とか、そんなふうに人間を、区分しなくてもいいんじゃないか、と。


傷つくことを言われたなら、「あ、私は、そのセリフには傷つきます」って言えばいいんだし。

正直言って、誰がどんな言葉で傷つくかなんて、自分だってわからないのに。

他人にそれを求めている時点で、やっぱり酔ってるとしか思えない。



……っていうのはですね、別に批判したいのではなくって。

苦しいのが、よくわかるからこそ。

なんかもっと、どんな人であろうと、心軽く生きていける世の中がいいですよね。

そしてもっと、「それはイヤだよ」とか、「傷つきました」とか、フツーに言い合えるような。

「察しろ」とか、「空気読め」とか、そんな世の中じゃなくって。

言葉にしながら理解し合っていくような、そんな雰囲気を作れたらいいのになぁ。

と思いつつ……、「ちょっとこれくらいは察してよ」と思ってしまう日々。

つまり、自分も加害者の一人だな。


そんなわけで、インスタも始めてみました。

もっと、「思ったように言える社会がいいな」っていう気持ちです。

よければ、のぞいてください。


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