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『マチネの終わりに』第七章(35)

 そういう世界が、こことは違った、どこか別の場所に存在していて、その幸福に浸っている自分というのも、いるのかもしれない。何の不思議もなく、まさか、あのまま彼女と別れてしまった世界を生きている自分が存在していることなど、夢にも考えたことがなく。自分はなぜか、貧乏クジを引いてしまって、そっちの世界ではなく、この物寂しい世界の方を割り振られてしまった。――蒔野は、池の水面に、陽画のように映し撮られた青空と垂れ込めた木の枝の影を見つめながら、そんなSFめいた空想に束の間浸った。

 祖父江は、蒔野の方を向いて、「ゆっくり、やってください。」と、諭すというより、懇願するような口調で言った。蒔野は、何か頼まれたのかと思って、身の回りに目を向けたが、すぐにギターの練習の話だと気がついた。

「ええ、まあ、そうもいかないんですけど、焦らずに、ええ。……ギターに触らなかった間に、先生が昔からよく仰ってたアランの言葉を噛みしめてました。『尊ばれないことは忘れ去られる。これは、我ら人類の最も美しい掟の一つだ。』――不安のせいですかね。演奏家には、なかなか手厳しい掟ですけど、やっぱりこれは真理なんでしょう。このところ、新しい才能の出現を僕も目の当たりにしていて、自分の演奏のどこに一体、尊ぶべきものがあるのか、考えていました。もっと高いところを目指して、音楽に取り組むべきなのに、それがなかなか、……」

 祖父江は少し険しい目になって、顔の右半分を苦い悔恨に歪めながら言った。

「私は、そういうことを蒔野さんに言いすぎたかもしれない。あなたのような偉大な才能は、もっと自由でいいんですよ。私の教えたことは、子供の頃の思い出として仕舞っておいてください。」

 蒔野は慄然として、しばらく言葉を発せられなかった。そして、少し頬を緩めて、

「先生は立派です。僕の尊敬は変わりません。でも、……ええ、ゆっくりやります。」

 と言った。祖父江は、ただ、微かに首を横に振っただけだったが、もう一言、どうしても言わねばならないというふうに付け加えた。

「早苗さんを大切にしてください。あなたの人生にとって、掛け替えのない存在です。」


第七章・彼方と傷/35=平野啓一郎

#マチネの終わりに

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