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『マチネの終わりに』第七章(47)

「パンでも焼くよ。」

 蒔野はそう言って、食パンを二枚、トースターに入れて、冷蔵庫のペリエを飲んだ。

 明け方、《アポロ13》を見ながら眠りに落ちてしまったのだったが、その中で、テレビのニュース解説者が語っていた一つの台詞が、目覚めのあとも、しつこく頭に残っていた。

「……大気圏に無事突入するには、2・5度の幅の回廊を通らなくてはなりません。角度が急だと摩擦熱で炎上しますし、浅すぎると、池に石を投げた時のように、外に弾き飛ばされます。……」

 蒔野は、そのアポロの大気圏再突入のイメージから、唐突に、洋子との別れを思い出したのだった。あの夜の東京での再会も、そんなことだったのだろうか、と。

 そもそもが、無謀な愛だった。その成就のためには、それぞれの思いが、ほとんど2・5度しかないような隘路を潜り抜けねばならなかったのだろう。そして、互いの運命は、燃え尽きたというよりも、むしろ、「池に石を投げた時のように」弾き飛ばされて、そのまま二度と、交わる機会を失してしまったのだった。

 蒔野は、たかだか、二人の男女の別れのためには、幾ら何でも壮大すぎるそんな比喩を、必ずしも持て余さなかった。

 極大なものは極小である、といった神秘主義的な撞着語法には、実感のための秘密の出入口があった。

 アポロの隊員が月から眺めた地球の映像を見ながら、蒔野は、この広い惑星の上で、洋子に出会うための確率といったようなことを考えた。それは、人為的には決して実現不可能な出来事であり、しかし、その偶然を、まるで必然であるかのように繋ぎ止めておくために、人間には、愛という手段が与えられているのではないか。

 祖父江が倒れた夜のすれ違いから、別れに至った数日間へと記憶は広がり、更に出会ってからの八カ月間、まだ高校生だった頃の自分の演奏を彼女が初めてパリで聴いて以来の二十年間、そして、二人が生きてきた四十年ほど、二人の両親が出会い、愛し合った過去、その彼らがまた、生まれ、成長した年月、……と、彼はその暗闇に浮かぶ地球を見つめながら、時の流れをぼんやりと考えた。


第七章・彼方と傷/47=平野啓一郎

#マチネの終わりに

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