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『マチネの終わりに』第七章(18)

 「なかなか、一般には理解されにくいことだけど、彼女たちと話せば、君も見方が変わるよ。最初に僕を信じてくれていた通りに。僕は君が、フェアな人間だって信じている。世間では、金融業界の人間は悪魔のように言われているけれど、実際に、市場は落ち着きを取り戻しつつある。一時的な問題だよ。この世界は動的なんだから、どうしたっていいことばかりじゃない。大事なのは、何かが起きた時に、それを克服し、安定させるシステムを作っておくことなんだから。」

「あなたは、ああいう人たちとのつきあいを心から楽しんでるの? それとも、仕事上、仕方なく?」

「簡単には割り切れないよ。そんな質問、君らしくもない。それはもちろん、ついていけないところもあるよ。彼らは冒険好きだし、羽目を外すこともある。それは、僕には関係のない場所での話だよ。だけど、本質的には非常に優秀な人たちであることは間違いない。僕とは話が合う。いつも言ってることだけど、君が嫌なら、彼らといつもつきあわなくたっていいんだし、実際、ずっとそうしてきた。だけど、ケンのことを考えるなら、僕たちの生活が、こんな世の中でも経済的に安定しているっていうことは大事だろう? 僕はただの経済学者に過ぎないんだから。」

 洋子は、小さく嘆息して、悲しげな目で夫を見返した。我慢していたものが、その一瞥で皆弾け飛んでしまったように、リチャードは、うんざりした顔で足を一度大きく踏み鳴らした。

 二年前の夏、東京で蒔野にメールで別れを告げられ、長崎の実家で母とともに時間を過ごしてパリに戻った洋子は、空港で思いがけず、リチャードとその姉のクレアの出迎えを受けた。連絡したのは、洋子の母で、娘が心配なので側にいてやってほしいと、頼み込んだらしかった。

 金融市場が混乱し始め、リチャードも多忙だったはずだが、彼はクレアに付き添われて、取るものも取りあえずにパリに飛んで来た。そして、まるで放蕩息子の帰還を喜ぶ父親のように、洋子を出迎えたのだった。洋子は後に、その経緯を打ち明けられたが、母を責めることはしなかった。


第七章・彼方と傷/18=平野啓一郎

#マチネの終わりに

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