20代ラストデー!10年間を振り返ります
田村きのこ園2代目の川島です!
突然ですが、明日(2024年8月19日)30歳を迎えます。
大病もなく健康に30歳を迎えられることに感謝しつつ、回顧録としてこの10年を振り返ってみます。
一言でまとめると、この10年は「農業で生きていく」ことを目指し、それを実現し、新たな景色を見始めた20代でした。
「農業でいきていく」ことを志した20歳
まずは2014年8月、20歳を迎えたころのFacebook投稿から
ちょうどこのころ、大学の生物資源学類(いわゆる農学部)に所属し、農業サークル、農業バイトに明け暮れているうちに将来は農業がしたいと思うようになりました。
もともと自然の中で仕事がしたいなと思っており、農業にも少なからず興味がありましたが、活動を通じてたくさんの農家と出会いう中で、自分の作る作物に自信を持ち、それを食べさせて「うまいべ?」とニンマリする農家の姿に、憧れを持ったのがきっかけです。
お金はありませんでしたが、人生で一番フットワークが軽い時期だったので、全国の農業系の学生と交流したり(今もゆるく続いています)、いろんな農業体験プログラムに参加したりしていました。
同じ大学を出て就農した先輩農家のもとにも足しげく通い、自分の就農イメージを膨らませていきました。非農家出身でも農業ができる道を教えてくれた諸先輩方には大変感謝しています。
「農業はもうからない?」もやもやを晴らすために選んだ金融機関への道
農業にあこがれていたひらく少年。さまざまな農家に出会い、行く先々で「将来は農業がしたい」とピュアに言っていました。
しかし、一部の農家から帰ってくる言葉は意外なものでした。
「農業はもうからないからやめておけ」
「息子にも農業はやらせないんだ」
命の源たる食料を生産する素晴らしい仕事をしている農家が他産業に比べもうかっていない現状を知り、もやもやを抱えることになりました。
そこで気が付いたのが、農業も経営であること。農業を何か特別なもののように感じていましたが、農家一人一人が経営者であり、ほかの個人事業や中小企業と変わらないことを知りました。
農業をやるには経営を学ばなければならない。
そう思った私は農業経営学の研究室に進み、日本政策金融公庫という金融機関に就職しました。
公庫では農林水産事業に所属し、配属された北海道で、農業者向けの融資業務を担当しました。
毎日決算書を見ながら審査書類を作り、農業者に会いに行き、経営や融資の相談に乗る日々。これまであこがれだった農業が、一気にリアリティをもって感じられるようになりました。
「農業のもうかる方程式を見つけてやる」と息巻いていましたが、結局そんな方程式はもちろんありませんでした(笑)
ただ、様々な経営者とお話しする中で、うまくいっている人の特徴や、目指すべき経営者像のようなものを感じることができました。
公庫での2年間を通じて、「憧れ」だった農業を「経営」として考えられるようになりました。
就農計画が白紙。そして地域おこし協力隊に
公庫で働いている頃から、就農する際の研修先農家を決めていました。
大学時代大変お世話になった、人柄も作っている野菜の品質も目標としたいと思っていた有機農家です。
そこは何人も雇うような大きな農家ではなかったので、研修生向けの補助金を活用としてました。
しかし、そろそろ仕事をやめて就農を目指そうと思っていた25歳のころ、補助金の内容が変更になり、その農家での研修には補助金が使えなくなることが分かったのです。
大学時代から考えていた就農計画が農政の方向転換で白紙になりました。
補助金をあてにしてはならない。どこかの本で読んだそんな一言を身をもって体感することになりました。(今は使えるものはうまく活用しよう派です)
新たな道を探そうにも、当時住んでいたのは札幌市。茨城での就農を目指していたので、ここにいてはその道は開かれないと感じました。
茨城で働きながら就農への道を探ろう。そう考えていた時にたまたま見つけたのが笠間市地域おこし協力隊の募集です。
地域おこし協力隊は3年間の任期で、市町村に所属しながら地域活動を行い、3年後その地域に定住することを目指す総務省の取り組みです。
「3年間、地域に入り様々な人と会えば、自分の就農への道も開けるのではないか。」そう思い、笠間市の担当者の方に会いに行き、応募を決めました。当時の農政課長も「ぜひ笠間で農業をしてほしい」と背中を押してくれました。(作りたい作物も決まってないふらふらした若者を応援してくれたのは本当に感謝しています。笠間市には今後できるだけたくさんの恩返しがしたいです)
田村きのこ園と出会い、就農へ
地域おこし協力隊では、農業振興を担当しました。就農を目指す協力隊のほとんどがすぐに農業研修に入る一方、就農への道筋が白紙だった私は地域の農産物のPRをしたり、市内の生産者とブランディングについての勉強会を開いたりするなど、地域活動に取り組みました。
2年目からはコロナ禍となり、イベントの開催などが全くできなくなってしまいましたが、売り先を失ってしまった農産物を食べチョクに登録してネット販売の支援をしたり、同じく苦境にあった飲食店の方々とクラウドファンディング「笠間市飲食店未来プロジェクト」を立ち上げたりしていました。
田村きのこ園とは、1年目に笠間市の生産者を紹介する記事の執筆のために訪れたのが最初の出会いでした。その時初めて福王しいたけを食べた時の衝撃は別の記事にしていますのでそちらをご覧ください。
福王しいたけを始めて食べた時の美味しさの衝撃と、田村さんの「やる人がいないからもう終わりだ」という言葉で、私の就農への考えは大きく変わることになります。
それまでは空いている農地を借り、一から農園を立ち上げて野菜を作ろうと思っていましたが、この福王しいたけを未来に残すことが、私のやるべきことだと直感しました。
そして田村さんに弟子入り。椎茸づくりを教わると同時に、これまでの経営んを活かした農家の右腕としての活動が始まりました。
振り返ると、就農前に地域おこし協力隊になったのは大正解でした。
協力隊として3年間活動したことで、田村さんはじめ様々な農家との関係を築き、「経営」としての農業を学んだ公庫での経験とはまた違う、「地域」産業としての農業を学ぶことができました。
新しく見えてきた農業で実現したいこと
2年間の田村さんのもとでの修行期間を経て、協力隊卒業と同時に28歳で田村きのこ園を事業継承しました。
ついに20歳のころから目標にしていた「就農」を果たしました。
しかし、すでに就農はただのスタートラインになっていました。
現在、田村きのこ園は小規模ながらも人を雇用して経営をしています。一緒に働くメンバーが安心して働けるように、農業でもしっかりと稼ぎがなければなりません。また福王しいたけを確実に未来に残していくためには、私の属人性に頼らない組織体制を作る必要があります。
地域には福王しいたけだけではなく、様々な魅力あふれる農業や食、景観など様々な宝があります。田村きのこ園経営の足場をしっかり固めたのちには、そういった地域の宝がより輝き、そこに住む人の生活を豊かにしていく、そんな社会を実現したいと思っています。
次の10年、さてさてどういう30代になるか。これからも自分らしく、自問自答しながら歩みを進めていきます。