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「コミュニティ信仰」への違和感

「コミュニティ」という言葉、よく聞きます。毎日どこかしらで聞いている気がします。

「コミュニティ」の意味について考えだすと、意外とむずかしいんです。定義はあるのでしょうか。Google先生に「コミュニティ」を聴いてみると、約232,000,000件ヒット。その中で適当にクリックして、ページを覗いてみると…

コミュニティー【community】
居住地域を同じくし、利害をともにする共同社会。町村・都市・地方など、生産・自治・風俗・習慣などで深い結びつきをもつ共同体。地域社会。
(出典:weblio辞書より)
共同体
共同体(きょうどうたい)とは、同じ地域に居住して利害を共にし、政治・経済・風俗などにおいて深く結びついている人々の集まり(社会)のこと(地域共同体)。組織の名称の一部として用いられることがある(欧州共同体など)。
日本語では「地域共同体」が「地域社会」をも意味し得うるため、転じて国際的な連帯やインターネット上の集まりなども「共同体」あるいは「コミュニティ」(英語:community)と呼ばれる。地域の共同体であることよりも地域住民の相互性を強調する場合、地域コミュニティとカタカナ表記する場合も多い。
(出典:ウィキペディアより)

という説明。これは間違いではないだろうけど、あらゆる文脈で使われる言葉なので、もはや人の数だけ定義がある、といった感じでしょうか。

自分はこれまで、仕事やプライベートも含めてコミュニティをいくつか創ってきました。誰かが創ったコミュニティに所属することもしてきました。あらためて考えると、産まれてからずっと、何らかのコミュニティに所属してきたと言えます。

そんな「コミュニティ」について、今考えていることを書いていきます。

企業からコミュニティつくりたいという相談もいただきますが、作りたいワケというのが、売りたい商品を知ってもらいたい。体験してもらいたい。また商品を使ってもらった後にアンケートに答えてもらいたいとか。いわゆる「消費者を囲いたい」という理由が大半なわけです。それはそれでいいんじゃない?と広告代理店に勤めた経験のある自分は一定の理解を持っているんですが、反面そうした最近の「コミュニティ信仰」にちょっと違和感を持っていたりもします。

「消費者を囲うというやり方、やめない?」

(コミュニティ、コミュニティ書きすぎて、すでにゲシュタルト崩壊しはじめています)

マーケティング目的のコミュニティへの違和感

以前から行政・自治体で使われていた「コミュニティ」という概念が、日常的に広く使われるようになったのは、2011年の東日本大震災以降だと自分は解釈しています。またインターネット、SNSの普及も背景にあるはずです。

studio-Lの山崎亮氏が出版された、『コミュニティデザイン-人がつながるしくみをつくる』で、はじめて「コミュニティをデザインする」という考え方に触れたという人も多いと思います。自分もその1人です。

「コミュニティ」がざっくりとした意味で捉えられやすいためか、各方面で一気に使われ始めます。使いやすい言葉なんだと思います。

ちなみに、こうした言葉は一旦流行にのってしまうと、言葉の認知度が上がる反面、人々が思考停止に陥るという負の要素を持ち始めます。SDGs、フードロスなんかもそうですね。ほとんどの人がその言葉を知っている、そして懐の広い曖昧な言葉なだけに、捉え方のちがう人同士でも会話が成立しちゃう。これはちょっと危うい。

話を戻します。

東日本大震災以降、コワーキングスペースやオンラインサロン、またブランディングのためのコミュニティが増えてきました。企業によるマーケティング目的で生み出されたコミュニティを、今ではたくさん見かけるようになりました。

自分は、このマーケティング目的のコミュニティに違和感を持っています。

いや、マーケティング要素も必要だとは思うんです。ビジネスでコミュニティを創るのであれば、この側面も備えておくべきとは思います。ただ、コミュニティを運営する側の目的として、マーケティングゴールを達成することを優先し、そのためにコミュニティを「常にアクティブに回さなければならない!」と、そんな意識が強すぎやしないだろうか。

それだと運営する方も、参加している方も疲れちゃいます。

コミュニケーションとは本来、無目的・無意識であるべきです。しかし、そこを無視して生まれたコミュニティの中で発生している情報は、経済的な視点から取り上げられているものが多い気がしてならないのです。

無自覚に心の奥底から湧き出る感情を、置き去りにしていやしないか。

なんとなく愉しいから

自分のことを思い返すと、面白いなと思える「集まり」というのは、参加目的がはっきりしていないことが多いです。集まりに参加する理由を改めて聞かれてもよくわからないけど、「なんとなく面白い(面白そうだ)から」参加している。

その集まりが生まれた理由だったり、活動が継続されている理由はちゃんとあるんだけど、そのことは運営側の都合であって。それらの都合が、参加者として感じる「面白さ」とはギャップがあることなんてザラにあります。自分はそれでいいと思っています。

参加者としての自分は、「面白い」というのは後になってそういえばそうだな、と思う感情であって、コミュニティに参加している実時間で「面白い」とは感じていないくらいに、そこで過ごす時間が「面白い」。

自分は東京高円寺にある母校の小学校で、「地域支援本部」というグループに8年くらい前から所属しています。学校の先生たちだけではやりにくい、街に住む人たちに協力を求めるような特別授業やイベントのために橋渡しをしたり、新しく転属された先生に、学校や街の情報を共有したり。ボランティアながらも、杉並区からわずかな謝礼をもらっています。

何年前だろう。7、8年前かな、じぶんは地域支援本部というチームの一員に入れてもらって、できる範囲で学校のお手伝いをさせてもらっているんです。ときにゲスト先生になったり、ときにかるた大会の司会やったり、ときにゴミ回収ボランティアをみんなといっしょにやったり。こっちがお手伝いしているつもりが、気づくと小学校という雰囲気が大好きで、その空気を吸いに行っていたというのが本音。

繊細で大胆で。無邪気で我儘で。弱くて強くて。泣いて笑って。複雑で単純で。そんな素直な子どもたちに、僕が教えてもらうことの方が多くて、「面白い」です。

自分がそこに所属している理由は、謝礼目当てではありません(そんな多くないですし)。少しでも忙しい先生たちの助けになるのであれば嬉しいし、子供たちのためになってほしい。そして最大の理由は、「なんとなく愉しい」からなんです。

僕が地域のコミュニティにこんなふうに参加しているように、コミュニティ参加者が無目的に所属することが、本来のコミュニティの在り方だと思います。

参加者ひとりひとりの「生命感」を尊重する、とでも言いましょうか。

マーケティングゴールを達成することこそが何よりも優先するんだ!というビジネスライクな運営よりも、よっぽど愉しい。そして運営メンバーも、そのコミュニティの中で生命感を出す。そうでないとコミュニティは長続きしないし、長続きしていたとしてもそれは仮初な集まりなんだなと感じてしまいます。

孤立化を逆に拡大してしまうコミュニティ

話は飛びますが、「生きること」に目的はないと思っています。なんで生まれてきたのか。なぜ生きつづけていくのか。それは誰にもわかりません。

僕たちの人間活動は、合理的とは到底呼べない非合理的なものばかり。生きていると嬉しいこともあれば、いろんなトラブルも起こる。その度に一喜一憂する。子供から大人になると身体も成長し体力が充実していきますが、年齢を重ねると次第に体力は衰え、身体のあちこちにガタが出てくる。自分のことだけでも精一杯なのに、さらに家族のこと、友人のこと、社会のこと、世界のこと、地球のこと大小それぞれの問題を突きつけられる。

それでも人は生きつづけます。

芸術家の岡本太郎は、著書『自分の中に毒を持て』の中で、それを「生きがい」と呼びました。

だからこそ生きがいがあり、情熱がわく。人類はその、ほとんど盲目的な情熱に賭けて、ここまで生き抜いてきたのだとぼくは思う。

ー岡本太郎 著『自分の中に毒を持て』より

さらにこの本の中で、「コミュニケーション」についても触れています。

コミュニケーションというのはそもそも本質的に無条件なものだ。無償、無目的であるべきものだ、とぼくは考える。ところが今日では、すべてが経済的メリット、それに材料を提供するというだけの面で処理されてしまう。そこに人間存在の孤立化を逆に拡大しているという感じが生まれてくるのだと思う。

ー岡本太郎 著『自分の中に毒を持て』より

コミュニティとは、共感したもの同士が集まる場である以上、居心地が良いのは当然です。でも、経済的メリットを優先してしまうようだと、コミュニティのように見えて実は孤立化を生んでいる、と岡本太郎は書いています。

コミュニケーションが本質的に無条件なもの、無償、無目的であるべきとはどういうことか。これについては、僕もまだその意味を納得いく形で捉えきれていないのですが、なんとなくわかるような気もします。ここはもう少し深く考えてみたいところです。

「コミュニティ」という言葉が悪いとは思わないし、経済的な視点を持つことが悪いとも思いません。でもコニュニティの中でエコノミカルな視点が大きくなり過ぎるとき、本来利害を共にする共同社会であるはずのコミュニティが、そこに所属している人の孤立化を生んでいるんじゃないだろうか、という岡本太郎の懸念にめちゃくちゃ共感します。

生命感のあるコミュニティを創る

じゃあ自分たちだったらどういうコミュニティを創るか。食の学び舎「foodskole(フードスコーレ)」が今年4月に3期を迎えるにあたって、メンバーみんなでずっと考えています。

たとえば、フードスコーレで行われる授業は、食の学びや愉しみ方を知るための、あくまで「入口」と考えてみます。そうすると、フードスコーレの「コミュニティ」とは、インプットした学びを実践し、自分の価値観と重ねて食へのアプローチに挑戦する「出口」となる場、とするのが良さそうです。

その中でどうやったら、生命感あふれる無目的なコミュニティを創れるのでしょうか。すぐに創れるものとは思えませんし、少しずつ醸成していくものなのかもしれません。これは、いくつかあるフードスコーレの挑戦のひとつです。

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