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フードロス疲れに、規格と屑と分解の視点が効く。

7袋のポテトチップス』(晶文社)などの著者で歴史地理学者の湯澤規子さんと、『分解の哲学』(青土社)などの著者で食と農の歴史学者の藤原辰史さん「ロスが生まれる世界」をテーマに話しました。

フードロスをきっかけに、こんなにも話題は広げられるし、フードロスに抱く閉塞感を打ち破れるかもしれない。そんな期待が生まれていく当日の様子をお届けしたいと思います。

「フードロス」は重要な問題だけど、向き合うことに気持ちが疲れちゃっている人も多いのかなと。僕が思うのは、フードロスだけを話題にするのではなく、食を超えて話を広げて行く方が断然におもしろいということ。

これはずっと考えてきたことで、湯澤さんと藤原さんにぶつけて見解を聴いてみたい。そのことをおふたりにご相談すると、快く引き受けていただけました。「これは絶対におもしろい話になるぞ」ということで、いろんな人に聴いてもらうのが良いなと思って、フードスコーレの中でやることにしました。

湯澤規子さん
藤原辰史さん

フードスコーレの「FOODLOSS & WASTEの存在論」は、「そもそもフードロスってなんだっけ?」を探求するゼミ。今年1年かけて、その道のプロの話を聴いたり、地域や生産現場を訪ねることでヒントを重ねて、フードロスを再定義することに挑戦中。おふたりをゲストに呼ぶのはここしかない。

会場には、東京浅草の仲見世通りすぐ隣にある「梅と星」の2階をお借りしました。ここでは靴を脱いで畳敷きにあがるんですが、目線を揃えてリラックスできるからか、なごやかな雰囲気でスタート。

湯澤さん、藤原さんから提供された話題の柱は3つ。これをもとにみなさんと対話していきます。

1.ロスとは何か ー規格と世界について
2.屑とは何か ー価値と世界について
3.循環とは何か ー分解と世界について

湯澤規子さんのスライドより

ロスとは何か 〜規格と世界 

ある日、道端に箱に入って捨てられている猫がいました。息子が飼いたいと言うので飼うことにしたんです。調べると高級な猫でした。だけど実は雑種で尻尾がない。こういう猫はペットショップでは「商品」にならない。いわゆる規格外。(中略)いま息子はとても大事に育てています。捨てる神あれば拾う神あり。この猫が変え難い命に見えたのだと思います。命を捨てる現場は、あちこちにあるなと考えさせらました。

湯澤さんの言葉より抜粋

手伝っている「子ども食堂」の話。近所の農園から野菜をいただくんですが、だいたい規格外。形の良くない野菜を子どもたちに見せると驚きます。規格外の野菜はスーパーで売れなくても、それを使う「手」さえあれば、捌けるから大丈夫。そのままだと捨てられるものも、拾う人がいれば食べられるんです。

湯澤さんの言葉より抜粋

水俣にいる甘夏の農家さんに聞き取り調査したときの話。よく見ると表面がボコボコしている甘夏があるんです。大きく成長すると、このボコボコがミミズ腫れみたいになるから、スーパーには並びにくい。並んでも買われない。甘夏はハナムグリという虫に受粉してもらうのだけれど、このボコボコはそのときハナムグリがしがみついた爪痕なんですね。そのことをほとんどの人は知らないから、「これは病気なんじゃないか」と思って食べない。知ることで食べるものが増える、ということもあるのかもしれないなと。

湯澤さんの言葉より抜粋

「規格」があるから、そこから外れる「規格外(=ロス)」もある。藤原さんは次のように話す。

フードロスは重要なテーマと思いつつ、フードに留まるのは良くないと思っています。露骨な話ですが、いまや人間にも「規格」があり、「規格外」とされてしまうこともあります。甘夏も人間も違うテーマだけれど、「規格外」を容易に作り出す社会として繋がっているんじゃないかと。このことは自分もまだ答えを持っていないので、みなさんと一緒に考えていきたいことです。

藤原さんの言葉より抜粋

「規格」が生まれたのは、それがあることで良いことがあるから。西洋史を専門に研究する藤原さんは…

ナポレオンが度量衡、つまりメートルを整えますよね。各地で違っていたサイズをひとつにまとめる。なぜかというと、離れた地域ごとにサイズが違うと同じように作れないモノも、「規格」として整えればどこで作っても同じモノができるから。そうして地域の産業が発展する。このように「規格」は良いことでもあるんだけれど、ただし… って話ですね。

藤原さんの言葉より抜粋

規格や、線引きもそうだけど、あらゆることを整理することで、効率よく産業は発展していく。だけどそこにロスは生まれる。これは必然。「ロスは生まれる」このことを前提に、話を進めた方が良さそう。

屑とは何か 〜価値と世界

「規格」があるから屑がある。じゃあ屑ってなんなのか。藤原さんの書かれた『分解の哲学』の中でも出てくる屑。並べてみると、ナントカ屑ってたくさんあるんです。

金屑、糸屑、紙屑、鉄屑、布屑、皮革屑、紡績屑、木くず、大鋸屑、カンナ屑、ゴム屑、硝子屑、陶器屑など、地球の表面には、壊されたり、解体されたりしたあとに捨てられた屑がたくさん転がっている。

引用:藤原辰史『分解の哲学』より

屑ってこんなにあるんですね。どこかに「屑ないかな」という視点を持って過ごすと面白そう。本の中では、屑についてさらにこう書いています。

屑それ自体の価値は実は無限である。

引用:藤原辰史『分解の哲学』より

この真意を藤原さんに聞いてみました。

まさに、今日この場所(「梅と星」のある浅草)が大事なんですよね。人間社会から捨てられた「屑拾い」と呼ばれた人たちが、江戸の街を歩いて、紙屑を集めていました。集めた紙屑を隅田川に並んでいる紙漉き屋さんに持っていて漉き直して、今で言うトイレットペーパーを作っていました。それを「浅草紙」と言うんです。

規格から漏れたものを救い取るということでは、この浅草界隈が中心的な場所だったんです。屑を集めてもう一回紙をつくる循環。つまり、屑の価値は無限だったんです。

日本の明治維新以後、最も外貨を稼いだ輸出品をご存知ですか? 紡績屑です。つまり綿屑。これをヨーロッパに送ると、紙の原料になるんです。屑というのは、それだけ可能性があるのに、いつのまにか私たちは屑をゴミ袋に入れて捨てて埋めるか、油をかけて焼くようになった。このことを、『分解の哲学』で問いたかったんです。

藤原さんの言葉より抜粋

循環とは何か 〜分解と世界

最後は循環について考えてみます。湯澤さんの「女工の研究」が循環の話につながる、と藤原さん。

日露戦争のころの話。軍需産業が活発化していく中、寒い戦地へ行くのに暖かい毛織物の軍服需要が増えてきます。それに合わせて、愛知の西の地域では、毛織物産業が盛んになっていきます。この生産現場に労働力が必要となり、近くの貧しい農村から女性をたくさん集めました。これを女工と呼びます。

湯澤さんの論文を自分なりに解釈してしゃべると、女工さんたちにはたくさん働いてもらうために栄養が必要でした。そこで、ごはんに野菜の漬物を付けた。近くに産地のあった大根を漬物に使っていたんですが、その大根の肥料には女工さんのトイレから拝借したものを使っていたと。おぉ、こんなところに「循環」があるじゃないか、と思いましたね。

藤原さんの言葉より抜粋

生き物は生産者・消費者・分解者の3つに分かれています。これは生態学の話ですね。生態学は20世紀にできた学問で、経済学を引用しています。だから、物質はお金が回るように「循環」している、という解釈なんですね。でも経済学の言葉だと、そうした循環すべてをうまく説明できない。だから、経済学にはない「分解者」という言葉を作って充てたんです。

藤原さんの言葉より抜粋

経済成長の文脈では、「消費してなんぼ」でしかなくて、消費された後はどうなるの? ということは語られて来ませんでした。生態学が問うのは、消費されたものはどこに流れているの? ということです。そこを見ようよと。

人間社会の中にも「分解者」はいることを、生態学の歴史は教えてくれます。浅草紙の世界のように、忘れ去られた世界に注目したい。だから「循環の哲学」ではなく、あえて『分解の哲学』というタイトルにしたんです。

藤原さんの言葉より抜粋

物質循環について、ちょっと視線を外して考えてみると…

人間がゴミを発生させている理由は、分解者たちが分解できないくらい生産しているから。そうして余ったものを埋立したり、山削ったり、燃やすと言う形になってしまっている。

1950年〜60年ごろから続くたくさん消費して幸せになるという価値観を、少ない消費でも幸せだという価値観へとズラしていく方が、おもしろくなるのではないでしょうか。

屑は再利用できます。屑になるかゴミになるか。今ある価値観からこの差を変えるのは、むずかしいチャレンジではあります。これを考えるには、視点を人間の社会から一旦外さないと見えないのかもしれません。

藤原さんの言葉より抜粋

参加されたみなさんとの対話で出た意見を、一部紹介。

ある意味、我々も分解者なのだと思います。本来は分解する「楽しみ」を知っているのではないでしょうか。今は分解者の意識がなくても、認識を変えれば、分解する発想も生まれてくると思いました。

参加された方からの言葉より抜粋

いまのは、すごく大事な話だと思います。分解することを楽しむというのは大事ですよね。遊びの余裕というか、そういうのが食の話にはあっていい。ところが対応策として、なんでもかんでも「こうしなければならない」と法律にする。例えば「食品リサイクル法」のような。分解して食べるという楽しみを、置いてけぼりにしてしまっている気がします。

湯澤さんの言葉より抜粋

これまで話されてきた「分解して食べる」という楽しみは、小さくてもいいから、「コミュニティ」で推進するのもいいのかなと思いました。みんなで料理をするような。栗の皮を剥くとか、料理の作業ってちまちましたものが結構多い。昔はそういうことをみんなでやっていたから、そこまで苦じゃなかったんだと思う。

いまの料理の問題は、ほぼほぼ「孤独」から来ているんじゃないかと思うんです。核家族やひとりでごはんとか。それに対しても、ゆるっと抜けるような遊び場を作ると案外良さそう。社会問題とか、考えなきゃいけないことは、やっぱり考えなきゃいけないんだけど。それだけだと疲れちゃうので、そうした時に疲れた心を置ける「踊り場」みたいなコミュニティがあるといいなって。

参加された方からの言葉より抜粋

一旦まとめてみる

答えを出しづらいことにも、「いまはこう考えることにした」と整理することはやっておきたいので、ここまでの話を自分なりにまとめてみます。乱文なのはご容赦ください。

フードロス問題に対する閉塞感。この正体は、フードロスを生み続ける社会に対して、どう向き合えば良いのか? という「迷い」ではないか。フードロスを「規格」の中だけで話しているから迷うのだ。規格の中で話すことも大事だけれど、哲学的な話題を入れるなど、視野を広げて考えていかないと、ずっとモヤモヤしたままである。

今の定義でいう「フードロス」を削減したいのであれば、単純に食べ物を作り過ぎなければいい。食べ物をパッケージした商品を捨てることほど、むなしいことはない。こうなると、今のフードロス問題は経済の話だ。

そこで気になることがでてくる。藤原さんも話していたけれど、食べ物を「ちゃんと使い切ろう」と、消費者だけにうまい消費を求めること。これには違和感がある。消費者にはどうにもできないことがある。ここに苦しむ消費者が少なからず出て来ている。「食材は使い切らないといけない!」「料理を残すなんて良くない!」

これまで経済学で話されてきたフードロス問題を、生態学の話に置き換えてみる(経済環境学とかもあるけれど)。人も消費者から分解者になる。浅草の屑拾いのように、もともと分解者としての営みはあったのだけれど、社会から忘れられたり、見えづらくなってしまっている。そこは意識的になって行動していく。(個人的には、「食の世界の見えづらいものを描きなおす」ことは、フードスコーレの活動なども通して続けていきたい)

湯澤さんは、これまでの研究の中で「屑みたいな研究をやってどうするんだ」と周りから良く言われたらしい。でも、その研究対象の中に、社会から見落とされているものがあるんだと信じてやってこられたんだそう。

捨て猫も、規格外の野菜も、甘夏も、紙屑も、布の切れ端も、人も、研究も。それをどう価値づけるか、というのは人次第。大量生産、大量消費の価値観から、そうしなくても幸せだと思える価値観へと少しずつズラしていきながら、分解していく視点を持っていく。

とりあえず、いま整理できるのはこんなところかな。

こうしてみると、フードロスの話は、フードに限らず社会全体の仕組みの話に、やっぱりつながっていますね。一時期の流行で「フードロス」や「食品ロス」という言葉が一人歩きして、「なんでもかんでも、とにかく食べ物を捨ててはならない」という苦しみを消費者の中に生むことになりました。その苦しみを無くすためにも、だれもが楽しく考えられる場を作っていきたいなと思います。

このnoteで、当日のダイナミックさをどこまで表現できたか、むずかしいところです。当日はもっと色んな意見がみなさんからも出ていましたし、文字にできないコミュニケーションがありました。それでも。こうした「知」が誰かのお役に立てればうれしいです。

さいごに。

今回、「梅と星」を運営するバンブーカットさんにたくさん協力いただきました。浅草というかつて分解の中心にあった場所で、ロスについて話せたことは、偶然か必然か。

会の途中、羽釜で炊いたごはんのおむすび+豚汁セットを出してもらって。これがもう、本当おいしかったです。みんなで「うまいうまい」言いながら、トークセッションを続けました笑 学びと遊びが混ざったような場に、食べ物があるといいですよね。和みます。みんなで共通の食体験をすることの大切さよ。

フードロスのこと、フードスコーレのこと、また進捗あれば書きますね。また読んでください。そして、ご興味ある方はぜひフードスコーレに遊びにきてくださーい。


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