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祖父とアメリカで大げんかしたはなし

大学一年生の夏、祖父と大げんかをした。

アメリカはニューヨーク、マンハッタンのど真ん中にある中華料理屋で。

大学生になったばかりのわたしは、夏休みにアメリカの東海岸を縦断することを目標に、たくさんのアルバイトを掛け持ちお金を貯めた。授業と授業の間はカフェ、放課後は夕方から家庭教師をして、夜は深夜まで居酒屋で働いた。体力的にはキツかったが、ニューヨークへの憧れがわたしを動かしていた。

そしてやっと一週間ほど滞在できるだけのお金がたまったとき、母からある提案を受けた。

「祖父は若いときからアメリカに憧れているが、行ったことがない。この夏のアメリカ旅行、通訳として祖父と一緒に行ってくれれば、交通費は祖父が出す。」

正直めちゃくちゃ悩んだ。祖父とはあまり気が合わないということがわかっていた。それに”ひとりで行く”というのも楽しみなポイントだった。わたしが行きたいところに祖父も行きたいとは限らないし、逆もまた然り。

ただ、祖父は知識人なので、一緒にアメリカに行くのは楽しいかもしれないなとも思った。わたしたちは、気は合わないが学問に関しては話が弾んだ。そして何より、東海岸縦断の交通費はすごいことになる予定だったので、その分の費用が浮くとなるととてもありがたかった。

そしてわたしは、祖父とアメリカを縦断することに決めた。(祖母も一緒に行くことになった)あんなことになるとは知らずに・・・

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アメリカに着いたわたしと祖父は、やっぱり気が合わなかった。

祖父は、わたしや祖母が見たいものや行きたい場所には全く興味を示さず、嫌悪感さえみせた。もともとものすごいスピードで歩く人だが、アメリカでもしっかりものすごいスピードで歩いた。そのおかげで何度かはぐれ、そのたび祖母をものすごく動揺させた。そして最もわたしにストレスを与えたのが、祖父がガイドの話を全く聞かないこと。もともと知識の多い祖父だが、アメリカ旅行に向けてさらに勉強したのだろう。ガイドに喋る隙を与えず、自分の知っていることガイドに話し続けた。ハーバードの校内を歩いたときなんか、ほとんど祖父がガイドだった。

このために一生懸命アルバイトしたのに。夢のような旅行になるはずだったのに。どうして嫌な気持ちにならなきゃいけないの?

祖父への小さな不満の積み重ねが、アメリカ滞在たったの3日目ですでに耐え難いものになっていた。そしてボストン滞在最終日の夜、わたしは祖母に祖父への不満をぶちまけた。

祖母は、わたしの祖父への愚痴を「そういう人なのよ」とか「ごめんね」とか言いながら聴いてくれた。しかしそれがいけなかった、祖母に言うべきではなかった、いや、口に出すべきではなかったというのが正しい。わたしたちは同じ部屋に泊まっていたので、祖父が眠っていると思ってしていた話は、全て祖父に聴こえていたのでした。

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ニューヨークに着いた夜に入った中華料理屋で、祖父が突然怒り始めた。最初は何が始まったのかよくわからなかったが、徐々に昨夜の愚痴が聴こえていたということがわかった。「その態度は一体なんだ」「年上に向かってなんて失礼なんだ」「もう日本に帰る」とかなんとか言っていたが、正直疲れていたのもあると思う。しかしそんなことを言われたらわたしも黙ってられない。どうせ日本語で周りにはわからないしと、わたしはボストンを回る中で祖父に対して思ったことを、ダムが決壊したように捲し立てた。

ホテルに帰ってからもわたしたち二人は言い合いをやめず、祖母はパニック。

最悪なことに、当時のわたしはマイリーサイラスに憧れていたので金髪ショート、耳の上には剃り込みを入れていた。

祖父はそのようなビジュアルの人間が大嫌いで、その髪型になったわたしを初めて見たときは、眉毛がくっつくくらいに眉間にシワを寄せて「ボケナスの髪型じゃないか」と言っていた。

そんな大嫌いなビジュアルをしたハタチの小娘に生意気なことを言われて、祖父は本当にムカついたんだと思う。3人でひとつのホテルの部屋で、ものすごい剣幕で怒鳴り散らした。後にも先にもあんなに怒っている祖父を見たことはない。

ふたりの言い合いが終わらないことを悟った祖母は、日本にいるわたしの母に電話をした。母は2秒で状況を理解。母もこのようなことは経験済みらしかった。母は「交通費を出してもらえる旅行はそうあるものじゃない、折れる必要はないから少し我慢しろ」とわたしを諭し、「うちの娘がすみません」と祖父に謝罪した(たぶん)。

せっかくアメリカに来たのにこのままバチバチしているのはもったいないという気持ちは祖父もわたしも同じだった。

わたしの後に母と話した祖父は「停戦協定を結ぼう」と言ってきた。実に祖父らしい解決案だった。絶対に折れないのも、自分の気持ちを表現するのに形式が必要なのも。

わたしもそれ以外に残りのアメリカを楽しむ方法が見つけられなかったので、その案に乗ることにした。

持って行っていたパソコンを開き、わたしと祖父、2人で意見を出し合って議定書を作成した。ここで笑ってしまうことは謝罪することに等しいので、2人とも口をへの字にして、いたって真剣に文書を作成した。

こちらがその協定。(ばっちりフルネームが入っていたので隠してある)

祖父の名前とわたしの名前から一文字ずつとって「正茉協定(通称:マリオット協定)」と名付けられたこの協定は、二人がサインをし、祖母の前で握手を交わすことで締結された。のちに日本史の教科書に載ることとなる。

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次の日は(非常に気まずいので)、日中は別行動をすることになった。わたしは、おそらく祖父が全く興味ないであろう『SEX AND THE CITY』の主人公キャリーの自宅や、『スパイダーマン』のビル、『LEON』でアパートとして撮影に使われたホテル、そして様々な映画やドラマで様々な人が抱き合うブルックリンブリッジを巡ることにした。

わたしは金無し大学生だったし、財源である祖父母と別行動だったので、かなりの距離を歩いた。わたし達が泊まっていたのはセントラルパークのすぐ隣のホテルだったのだけど、ブルックリンブリッジまで歩いた。そのくらい、祖父母(特に祖父)から離れたわたしは元気だった。

『SEX AND THE CITY』の主人公キャリー宅
めちゃくちゃご機嫌に同じ方の手と足を出すわたし

その日の夜はブロードウェイで『Frozen』を観る予定だったので、劇場で待ち合わせることしていた。心配性な祖母はアメリカで待ち合わせなんてできるわけがない!と言っていたが、できないわけがなかった。

合流したときにはわたしも祖父も、会話こそしないものの、残りの1週間を共に過ごすことができるなというくらいには落ち着いていた。

その後ニューヨークに3日ほど滞在し、ワシントンD.C.に移動した。旅の残りはそれはそれは穏やかで、最初っからこうだったらよかったのにと思ったけれど、あの対戦がなかったらあんなに穏やかには過ごせなかったと思う。

ホワイトハウス前にて

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あれから3年が経とうとしている。

こちらからLINEをしたら負けなので絶対にしないし、あの一件を無かったことにもしない。祖父も同じ気持ちなのだろう。全く連絡をしてこない。(その分姉へのLINEが止まらないという噂)

ちなみにわたしは時々協定文書を見返してニヤニヤしてる。祖父には絶対に言わないけれど、この協定を結構気に入ってさえいる。

たまに会うと祖父は「協定のこと、忘れてないだろうな」と言ってくる。そしてわたしは「もちろんです」と答える。

時々確認してくるところをみると、祖父も相当気に入っている。

今日の一曲:Pet Shop Boys『New York City Boy』





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