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トーキョー観察記(1)「にぎやかな街」との出会い

 2018年春から2021年夏までの3年ちょっと、東京で暮らしていました。秋田、青森で人生のほとんどを過ごしてきた29歳の私が出会った「東京」について、感覚が薄れないうちに、つれづれ書き留めます。散歩感覚、思いの向くまま、気軽に書きます。

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 田舎者が東京に来てまず思う事は、とにかく人が多い、という事である。

 いや、田舎にだって人はいるのだ。私が上京前まで10年を過ごした青森県弘前市も、2018年時点で17万人程度の人間がいたのだ。これは、住みたい街ランキング常連「吉祥寺」を擁する武蔵野市より少し多く、シン・ゴジラで政府が移転した立川市よりやや少ない規模である(ただし、面積は弘前市の方が軽く数十倍である)。なので正確に言うと、田舎者にとって東京は「目に映る人が」多いのである。特に、駅周辺を歩いている人がやたらに多い。

 上京して最初のうちは「東京は人が多いなぁ」ぐらいしか感じないのだが、その中で暮らしていると、否が応でも「雑踏」に対する解像度が上がってくる。「東京は人が多い」から、「新宿は異常に人が多い」「吉祥寺もほどほどに多い」「国分寺はそんなに多くない(けど十分多い)」ぐらいには、細かく見えてくる。

 あるいは、弘前市民の感覚的尺度を用いると、「新宿はゴールデンウイークに大当たりした年の桜まつりの大混雑が毎日続く」「吉祥寺・中野は平年の桜まつりくらい」「渋谷の109前は、毎日がねぷた期間のイトヨ前くらい」「国分寺はほとんど散った桜まつり最終日くらい」などの表現が可能になるかもしれない。とりあえず、田舎では年数回のお祭り級の人出が、常時展開しているのが東京である。

 私が青森から東京都国分寺市に引っ越したのが2018年5月。新型コロナウイルスの感染拡大が始まる2年弱前になる。コロナ前の東京の街の雑踏たるや、インバウンド需要の高まりと、戦後ほぼ一貫して続いた人口増加のピークとが相まって、空前の人口密度を見せていた。列車内もすごかった。JR中央線の通勤ラッシュの満員は狂気の沙汰で、初めて「体が浮く」レベルの満員電車を経験した。

 JR中央線が主な交通手段だったので、中央線沿線の街をよくブラブラした。吉祥寺、荻窪、阿佐ヶ谷、高円寺、中野、新宿。たまには逆方向に行って立川、八王子まではちょくちょく出向いた。そこから枝葉を伸ばすように、新宿で乗り換えて山手線の各駅、吉祥寺から井の頭線で下北沢や明大前をめぐり、たまには西武線で所沢方面に行ったりもした。仕事で子どもとよく接していたが、都会の子どもには電車好きが多かった。当然である。駅や電車が、地方の比較にならないほど日常に入り込んでいる。いわゆる単純接触効果である。

 列車であちこちフラフラしていると、中央線を軸に様々な街の大きさやキャラクター、立ち位置が見えてくるようになった。やはり、定住してどこかに座標を定めないと、その土地の「仕組み」のようなものは理解できない。

 私が見た新宿は「東京の中心」だった。世界最大の利用者をもつ新宿駅を筆頭に、首都圏交通の最大のハブであり、かつ東京都庁の所在地として行政の中心地でもある。人が集えば商いも栄える。歩いているだけで高濃度の市場原理が、五感にゴリゴリ侵入してくる。視覚を支配する看板・広告・オーロラビジョン。耳に飛び込むアドトラックの大音響。あらゆるものを商品化する市場原理の怒涛は、身体や脳髄にまで侵食する。脱毛しろ、痩せろ、髪を増やせ、英語を話せ、東大に行け。歩き疲れても座れる場所は少ない。カネを払ってコーヒーでも飲まない事には、一息の休憩も無い。

 満載。とにかく情報が満載である。新宿を歩きながら、ふと思い出す感覚があった。この満載感。そうだ、週刊誌だ。なんだか週刊誌の中を歩いているような、この満載と乱雑。東京の中心である新宿から放たれる「満載と乱雑」の磁場は、都内全域に波及していると思われた。

 その一方、東京都内には別の磁場も沢山存在していた。新宿駅東口から歌舞伎町を経てほどなく、韓国カルチャーの集積地である新大久保は、今最も若い人が歩いている街では無いかと思う。新大久保のそれほど広くない路地には、地理的に連続する大久保、高田馬場と共有する移民文化を土台に、その最も華やかな部分、ポップカルチャーやコスメ、飲食店などが所狭しと展開する。路上にはローティーンも含む若い子たちの屈託ない憧れが満ちていた。この街をプラプラ歩きながら、田舎者の私にはありえなかった青春の姿を眺めているのは、不思議と心地よかった。

 しかし、十年も遡らない過去に、その路上では「在特会」が連日、醜悪なヘイトスピーチをがなり立てていたはずだ。今日その道を歩く10代の彼女ら/彼らのどれだけがその事実を知るのだろう(一人でも多く知っていてほしい)。その響きは約100年前、1923年の関東大震災の東京各地で発生した、一般民衆による朝鮮人・中国人の大量虐殺の記憶と呼応する。そして、その慰霊式典への追悼文を辞退し続ける小池百合子知事冠する東京都庁は、新大久保から1kmと離れていなかった。

 東京という空間で朝鮮半島の文化について考える時、そこには、近所のなじみの韓国料理屋から、文学、KPOP、映画・ドラマまで含まれるのだが、私は東京という土地が持つ陰影、複雑な「綾」を意識せずにはいられなかった(もちろん、地方都市にもまた別の「綾」が存在する。ここではそこまで踏み込まない)。

 数ある街の中でも、特別な感情を呼び起こすのが上野だった。現在でこそ、東北新幹線は東京駅を起点とするが、たとえば『津軽海峡・冬景色』に象徴的に謳われるように、上野は長らく東北人の玄関口であった。啄木が故郷の訛りを聴きに訪れた上野。秋田・青森から来た自分も、上野には不思議な懐かしさを感じていた。実際、私の父も90年代の上野駅で何年か働いていたのだ。子どもの頃、東京に居る父を訪ねた時の上野の風景を、おぼろげに覚えている。

 上野の路上生活者には東北出身者が多いという。その背景には、集団就職や出稼ぎがあるといわれる。私が上野に感じていた懐かしさには、東北から来た安い労働力が支えた高度経済成長という、戦後史の1ページが間違いなく影を伸ばしていた。全米図書賞を受賞した柳美里の小説『JR上野駅公園口』は、こうした上野の空間的磁場―――東北と東京、天皇制と近代日本、という命題を、誠実に語り起こして見せた。私はこの本を、心身をゆっくりと、深く刻まれるような思いで読んだ。そして何度も、自分に問うていた。お前は何者だ、どこから来たのだ、と。

 私の中でぼんやりと「人の多い大都会」ぐらいに感じていた東京は、その中を歩くことで、少しづつ細かい模様が見え始めた。やがてあちこちに、誰かと交わした思い出が少しづつ積み重なり、愛すべき街に、そして憂鬱も感じる街に、変わっていった。東京で過ごした3年3か月。私は気づけばひたすらに、東京の街を歩いていた。

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